18 空っぽ

「先生!道源先生!」

 倒れている男性―道源先生の意識を確かめるように呼びかけながら、十川先生は着ていた白衣を脱ぎ、適当な大きさに引き裂き出血部を覆うように巻きつけた。専門は違えど医者である、手際の良い処置だった。しかし、道源先生は身動きひとつしない。一方で俺は、見慣れない鮮血に取り乱しそうになった矢先に、血だらけの少女と目が合った。目が合った瞬間、俺は蛇に睨まれた蛙の如く身動きが出来なくなって仕舞った。

 少女の目が威圧的だった訳では無い。寧ろ少女の表情からは感情を読み取ることが出来なかった。其の表情は真に―病院の屋上で見たカガミの表情だった。少女は放心したかのように真っ直ぐ此方を見ていた。この惨事には不釣り合いな、静かで澄んだ瞳だった。血塗れでなければ、この状況を引き起こしたのは別の人間ではないかと思える程、少女は無感動で無感情だった。

 「一之瀬君、一旦救急車を呼んで道源先生を病院へ連れて行ってくれ。ハジメは私が何とかする」

 解りました、と言いかけたが声を発する事が出来なかった。此処から離れてはならない気がしたのだ。状況から見れば、一番の部外者は俺だ。この場を離れて最も差支えのないのは俺だろう。しかも今は人命が掛かっている。迷う余地など無い筈だ。其れなのに

 「いえ、十川先生が病院へ。俺はコイツに話があります」

 何を話すと言うのか。言いたい事は沢山在った筈だが、言葉に出来るかどうかは自分でも解らない。

 「・・・解った、何か有ったら連絡を。すまない」

 それだけ言って、十川先生は道源先生に肩を貸す形で抱え部屋を出た。

 少女と二人、真っ白な部屋に残される。紅が映える。

 普通に考えれば、俺はかなり危険な状況にある。目の前の少女は恐ろしく静かだが、この部屋に着く直前に「厭だ」と叫んだのはこの少女だった筈だ。叫ぶという行為は一人でも出来るが、彼女のそれは誰かの言葉に呼応したものに聞こえた。叫んだ相手は一人しかいない。その一人は血まみれでこの部屋に倒れていた。つまり、少女が道源先生を血に染めたのだ。凶器は手にしていない。武器も持たず、少女が大の大人を血塗れに出来るものだろうか。いや、何か武器を隠しているのか。少女は両手をだらりと脱力させており、武器を隠しているとも思えないが。

「!?」

 少女の顔が目の前に在った。全く目で追うことが出来なかったが、少女は5メートルは離れていたであろう位置から、音も無く俺の目の前に瞬時に移動した。明らかに人間業ではない。

 黒いのに透き通った大きな瞳に覗き込まれる。息を呑む。

 話があると言っておきながら、言葉を発することが出來ない。外見はカガミと似ているのに、纏っている空気がまるで違う。俺が硬直していると、少女、ハジメが口を開いた。

 「あぁ、貴方が・・・」

 貴方が?その口ぶりだと俺の事を何か知っているのか。しかし、先生の話ではハジメは生まれて以来、この施設を出たことはないはずだ。豊さんの反応から察するに、記憶を失う前の俺がここを訪れたことも恐らく無い。在ったとしても、ハジメは眠っていただろうから、俺の情報がハジメに齎されるとは考えにくい。だとすると

 「カガミから聞いたのか」

 或いは、俺の予測通りカガミの覚醒が二度目だったとして、一回目の覚醒に俺が立ち会っていたのか。

 「聞いた、とはまた妙な言い方をしますね。私はあの娘と言葉を交わしたことなどありません」

 「でも、意志の疎通は出来るんだろ?」

 言葉は交わさずとも、カガミとハジメはテレパシーのような意識のやり取りが可能な筈だ。

 「何も解っていないのですね。疎通などではありません。私は一方的にあの娘が見る世界を脳に流し込まれたのです。私が何を思おうと、どれ程外界に焦がれようと、私の声は届かない。どんなに情報を流し込まれても、そんなものはまやかし、ただの電気信号です」

 脳に電極を刺して・・・いつかの十川先生との会話が脳裏を過る。しかし、その話では脳は電気信号と現実世界の区別は出来ない筈だ。なぜハジメは自分の世界が電気信号だと気付いたのか。

 「愚かですね。気づかない筈がないでしょう。貴方は本だけ読んで世界を理解できるとでも言うのですか」

 「本からの情報と脳への直接的な情報入力は違うだろう」

 違う、と思う。本の情報は基本的には文字情報だ。そこから意味を見出し、脳が情景なり登場人物の心情なりを汲み取って、作品の世界観を読み取っていく。しかしその場合、五感の内の視覚以外は使わない。近年ヴァーチャルリアリティ技術が発達しつつあるが、嗅覚や味覚、触覚までを再現するには至っていない。それらが全て本物と変わらない情報量で与えられても、脳はそれを偽物と気付くことが出来るだろうか。

 「随分と買い被るのですね。何故あの娘からの情報が完全だと言い切れるのです」

 完全・・・ではないのか。魂を一にするという先生の言い方から、俺はカガミがハジメに齎す情報は、生身の人間が五感で得るそれと過不足ないものだと思っていた。データでもその筈では無かったのか。

 「心の底から愚かですね、貴方達は。計測器などで生体情報がどれだけ正確に測れるというのです。貴方達は所詮、測れるものしか測っていないのですよ。それで全てを知った様な顔をする等、奢るのも大概にしたらいかがです」

 無表情且つ落ちつた口調だが、ハジメは自身を監視してきた者たちを嘲笑っていた。

 「彼女からの情報が完全?笑わせないで下さい。それならば何故、今私はこんなにも世界を感じているのです。水槽の中とはまるで違う!この生身を伝う感覚がいつ彼女から齎されたというの!」

 いや、例えカガミからの情報が不完全であったとしても、だ。それが不完全であると何故気付けたのか。不完全な物を不完全であると証明する為には、が必要な筈だ。電子がマイナスからプラスへ移動していても、電流は今なおプラスからマイナスへ流れている。電子と電流の向きが逆であると気付けたのは、電子の移動方向と電流の向きを比較したからだ。その比較が出来ない以上、電流という実体の無い幽霊はプラスからマイナスへ流れ続けるのである。ハジメは自分の感覚が偽物である事を何と比較したのか。此処へ来て、俺の仮説が補強された。

 「やっぱり、お前が目覚めるのは二度目なのか」

 「・・・へぇ、なかなか鋭いですね」

 ハジメは一瞬動揺して目を開いた様に見えたが、直ぐに無表情に戻った。しかし今の返答で明瞭とした。矢張りハジメの覚醒は二度目なのだ。そして一度目の覚醒で、ハジメは自信の五感の感覚を知り、水槽の中の自分が感じていた世界は、別の誰かの世界である事を知った。

 「其れまでは幸せでした。自分でも愚かだと思いますが、私は彼女が体験している世界を自分の物だと思っていました。日の光や風の匂い、料理の味、友人とのやり取り、五感どころか喜怒哀楽まで彼女のコピーだったというのに、私は其れを疑いもしませんでした。自分の意志で考え、反応し、世界と関わっていると思い込んでいました。いっそ気付かずに一生を終えられれば、哀れな実験体が一人死んだだけだったのに。あの人も怪我をせずに済んだでしょう」

 あの人とは道源先生の事だろう。

 「何故だ。自分の感覚が偽物だったとして、其れに気づいた時点でお前はカガミに何かを発信する事が出来たんじゃないのか」

 カガミが一方的にハジメに情報を送っていたのは、何もカガミがそうしたかった訳じゃない。極めて意識レベルが低いハジメに対して、日常生活が送れる程「普通」な状態のカガミは、得られる情報量も発信する意識の強さも桁外れに強かった筈だ。通信回路は双方向だったとしても、実際は送信機と受信機の関係だったのだろう。しかし、自身の置かれている状況が認識できる程度にハジメが覚醒したとすれば、少なくともその瞬間はハジメからカガミへの情報発信も出来たのではないか。

 「貴方に解りますか、私が初めて目覚めた時の絶望が」

 此れまで無表情か語気を荒げる事しかしなかったハジメが、初めて哀しそうな顔をした。

 「此れまで信じてきた世界が実は別人の物で、剰え自分の意識や感情までもが他人の複写だった時の虚しさが。当の自分は訳の解らない液体に浸けられ、得体の知れない装置に繋がれ、じろじろと好奇の視線に晒されていた惨めさが。

 私は自分をそんな状態に陥れた奴らが許せなかった。私が刺した道源、さっき貴方と一緒に居た十川陽子、そしてこの研究に関係する全ての人間に、私は復讐を誓ったのです。

 しかし、前回目覚めた時は身体も動かせない状態でしたので、機を伺う事にしたのです。目覚めた事を悟られないように意識を潜めて。彼女は気付くだろうと思いましたが、幸い私の覚醒の影響で高熱を発し、意識も混濁していてそんな余裕は無かった様ですね」

 今回もそうだ。ハジメの覚醒と同時に、カガミは倒れた。

「全員に復讐って・・・一人で出来る事なんて限られてるだろ」

 例え超人的な身体能力を発揮出来るとして、其れでも実体は一人の少女だ。幾ら何でも研究に関わる全員を如何にか出来るとは思えない。

「別に一人一人を殺して周ろうなんて思っていませんよ。研究の対象は私だけではないのです。いえ、むしろ私だけではあまり意味はないでしょう。私と彼女が対で存在している事こそに彼らは興味があるのです。そして、私は今のこの世界を手放したくない。つまり彼らの研究を頓挫させ、私の世界を確定させれば満足です。そうなれば、すべきことは一つです」

 研究対象を喪失させるという意味か。十川先生はカガミとハジメが出会えば対消滅が起きると言った。二人が消えてしまえば、研究者にとっては文字通り、研究対象の喪失に他ならない。だが、今ハジメは自分の世界を確定させると言った。つまり、自分は消えるつもりは無いという事だ。だとすれば、カガミとハジメが“対で在る”事を反故にする事で研究の意味を失わせるつもりか。つまり。

「簡単ですよ。彼女を殺せば良いのです」

 然も当たり前であるかの様に、ハジメは言った。双子の妹は自殺しようとするし、姉は妹を殺すと言っているし、何なんだこの姉妹は。今まで目の前の少女に恐怖を感じていた筈だが、何だか腹が立ってきた。

「殺すとか死ぬとか簡単に言ってくれるなよ。そうでなくても、カガミはお前の為に死のうとしたんだぞ」

 カガミが明言した訳ではないが、俺には確証があった。

「・・・?彼女が私の為に?何の冗談ですか」

 ハジメは明らかに動揺していた。切り込むなら今だろう。

「お前と全く逆だよ、ハジメ。カガミは自らが死ぬ事でお前に生きて欲しいと願っていたんだ」

 カガミが企てた飛び降り自殺。その背景には“自分が消えてハジメを生かす”という意図が有った筈だ。病院の屋上ではそんな事は思い付きようが無かったし、カガミの「死後の世界を知りたかった」という発言も本当だろう。しかし、その後の会話を思い返せば、カガミは常に自分は“空っぽ”であると言っていたと思う。主体は飽く迄もハジメであり、自分は其処に在る空洞に過ぎない、と。消えるならば自分であって、ハジメではないのだと。

「そんな事・・・!」

 ハジメが拒絶を叫ぼうとしたが、その声は遮られた。


「それで良いんだよ、ハジメ」


 不意に入口から聞こえた声は、カガミのものだった。斎藤に押される車椅子に乗り、カガミは微笑んでいた。

「何故此処に・・・いや、私に気づかれずに此処に辿り着ける筈が」

 ハジメの意識がカガミと連結しているとすれば、ハジメがカガミの接近に気づかないとは考え難い。それ程カガミが動揺していたという事だろうか。

「ちょっとした細工をさせてもらったよ。まぁ、今の君ではそんな事をしなくてもカガミには気付けなかったかもしれないけどな」

 車椅子を押していた斎藤が言う。どうやら斎藤が一役買っている様だ。何をどうしたらそんな芸当が出来るのか、とういうか何故斎藤にそんな事が可能なのかは見当が付かないが。

「何故ですか。どうして私の邪魔をするのです!私は・・・私はただ自分の世界を生きたいだけなのに・・・」

 ハジメの言葉から冷静さと冷徹さが薄れている。カガミの存在が堪えている。

「邪魔なんてしない。言ったでしょ、それで良いって」

 カガミは言葉を続ける。

「だから、わたしを消して」

 事も無げに、カガミは言った。

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