16 限界と欠落

 先生の車へ乗り込む。深い青色のえらくスポーティな車で、車高が低く乗り難かったが、先生らしいと言えば先生らしかった。

 道源先生の居る実験施設(十川先生はそう表現した)に向かう車中、俺は暫く沈黙していた。重苦しい空気のせいではない。ほとんど閃きに近い形で思いついた先程の仮説を、何とか理論立てようと必死に考えていた。証拠が無い以上、幾ら理論立てた所で仮説は仮説だ。しかし、説明の付かない仮説では自分すらも納得させる事は出来なかった。せめて自分の中では整合性の有る状態にしておかないと、押し寄せる混乱と緊張で正気を保てる気がしなかった。そして到着する迄に十川先生に訊いておかなければならないことを整理した。先ずは・・・

 「ハジメが目覚めるのは今回が初めてなんですよね?」

 先生はそう言っていた。しかし其れは、ハジメから片時も目を離していないという前提だ。本当に誕生から今に到るまで、ハジメは常時誰かの観測下にあったのだろうか。

 「ハジメは設備に頼った生命維持を行っている。そして、その間は基本的に生体データの計測を行っている。ハジメが覚醒しているかどうかは其のデータに基づいて判断していて、計測データ上で覚醒が確認された事は無い。ただし、データ計測は半年に一回、数時間だけメンテナンスや校正の為に計測を停止する。勿論代替機でその間の計測は行なうが、リアルタイム発信はされない。後からその時間帯のデータを代替機から引っ張り出して、本来の記録と繋げるのだ。代替機も事前準備をしておいて、メンテナンスの間だけ稼動される。だから、計測器は常時観測していた事になる。人間が常時観測していたかというと、代替機の観測部分だけは後からの確認になっている筈だ。取分けメンテナンス間に問題が起きた形跡は無かったが」

 其れはそうだろう。目覚めない状態が少なくとも半年は続き、そのメンテナンスのタイミングで偶然ハジメが覚醒する可能性はかなり低い筈だ。しかし其れは飽く迄も誰もハジメの覚醒を促さなかった場合は、だ。

 「如何いう事だ。態とハジメを目覚めさせようとした者が居るというのか」

 解らない。

 しかし、俺の今の仮説が正しいとするならば

 「恐らく、ハジメの覚醒は今回が二度目です」

 矢張り確信は無い。

 しかし、カガミは自分を「ドーナツホール」だと言った。

 「覚醒を促した人が居るのかは判りません。誰かが意図してやった事なのか、其れとも本当に偶発的に起きた事なのか。其れは此れから行って確かめます」

 其れからもう一つ。

 「カガミと道源先生に面識はあるのですか」

 いつの間にか車は市街地から離れ、山道に入っていた。深い緑の木々の葉が後ろへ流されて行く。

 「あぁ、面識は勿論有る。というかあの二人は何故かとても仲が良いのだ。見ていて微笑ましい程だ。差し詰め孫と祖父といった感じだな。カガミがあの調子だから、時折小難しい話もしているが、道源先生もカガミの発言から新しい発見をする事も多いようだ。私と三人で旅行したこともある・・・其れが今回の事と何か関係が有るのか」

 山本道源教授。記憶を失って以降、未だ逢った事が無い我らが研究室の長。

 十川先生が誕生する実験の核となった理論を構築した人物。其の罪の意識から十川先生を引取り、育てた人物。そして我が子同然の十川先生が繰り返してしまった罪。結果として誕生した二つの命。連鎖して仕舞った罪の根源である道源先生と、末端であるカガミとハジメ。道源先生は此の二人にも罪の意識を抱いているのではないだろうか。だとすれば、道源先生が十川先生に償いをした様に、カガミやハジメに対して道源先生が何らかの行動を起したとしても不思議ではない。現に、今もハジメの一番近くにいるのは道源先生だ。

 「私が呼び戻したのだ。せっかく道源先生は組織との縁を断ったというのに、私がハジメやカガミを生み出して仕舞った。其の所為で道源先生も研究に協力せざるを得なくなった・・・私は道源先生にも謝らなければならないな」

 「そんな事は有りません」

 思わず反射的に応えて仕舞った。でも本心だった・

 「先生は屋上で、カガミが死んだら悲しいと仰ったじゃないですか。其れでもカガミを生み出して仕舞ったと、そんな風に思っているんですか」

 実験自体は褒められた物ではないだろう。しかし、結果として生まれたカガミやハジメに罪は無い。十川先生もそう思っている筈だ。

 「カガミは、少なくともカガミは先生方を恨んだり憎んだりはしていない。道源先生も十川先生も、罪の意識を感じるのは勝手ですが、罪滅ぼしの対象としてカガミを見るのは止めた方が良い。それじゃああの子に真に寄り添う事なんて出来ないんです。道源先生が再び実験に加担したのは、十川先生が直接の原因じゃない。道源先生が十川先生に対して罪の意識を持っていた事が原因なんです。だから、十川先生がカガミに対して同じ事を繰り返さない為にも、カガミに対しての罪の意識なんて持たなくて良いんです」

 倫理的な尺度で測れば、実験自体は罪なのかもしれない。しかし、生まれて来たカガミに一方的に浴びせられる謝罪は、カガミにとって負担だと思う。直接先生たちがカガミに謝罪の言葉を伝えた訳では無いだろうが、幼い心というのは、特に家族からの視線や態度には驚くほど敏感だ。

 自分が叱られる事よりも、自分の所為で家族が悲しんでいたり、謝ったりする事の方が子供にとっては辛い。生まれてからずっと罪の意識を向けられ続けてきたカガミは、あたかも自分の誕生其の物が罪なのだと、そう思っても無理は無い。幾ら言葉で否定されても、深層では意識していたのだと思う。

 自分の誕生が罪だと思う深層と、そうではないと言い聞かされた表層で、カガミは葛藤

 し、混乱した。深層と表層の折り合いが付かない状態に無理やり理屈を付けようとするならば、元々“何も無かった”と考える他に手は無い。紙が無ければ表裏は存在しないし、ゼロ個の林檎やドーナツの穴は即ち“空(くう)”である。


 しかし。

 其れは事実か。


 カガミの辿り着いた“自分は空である”という一つの結論。カガミがそう信じて疑わない以上、カガミにとって其の結論は真実である。

 ただし、真実は解釈の数だけ重なって存在する。真実は何処ぞの不幸な化け猫の様な物なのだ。誰かが箱を開けて事実を確認する迄は、箱に無限の真実が内包されているのである。

 電流がプラスからマイナスへ流れるのも、大雨が恵みと災厄の二面性を持つのも真実である。ある一つの事実があるだけで、解釈は無限に存在する。辻褄の合わない解釈は時に淘汰される事もあるだろうが、かといって、事実と過不足のない真実など此の世には無く、確定可能な事実もまた此の世には無いのである。所詮は観測し得る限りの曖昧な情報から、説明が付くように組立てられた創作に過ぎないのだ。

 そんな曖昧な創作にさえ、人間は頼らずにはいられない。そうしなければ自らを納得させる事が出来ず、不安に苛まれて仕舞う。最期まで納得出来なかった者は、時に自らの命を絶つ決断をする。

 カガミの自殺未遂も、結局は自分が何者なのかという問いに対する解答を見出せなかった事に原因の一端が有る。幸いにも未遂で終わったのは、カガミを説得する事が出来たからだ。俺の言葉を受けて、カガミは自殺を完遂しなかった。俺が屋上で語った内容がカガミの持っている価値観の全てを覆した訳ではないと思う。屋上での俺の言葉は、神の信託でもなければ革命家の大号令でも無い。カガミの価値観を揺るがす等とそんな大それた事は微塵も考えておらず、ただ自殺を止める為に思いついた言葉をその場凌ぎで喋ったに過ぎないのだ。それでも其の言葉には一定の効力が在った。俺の言葉がカガミの真実を少しだけ上書きしたのである。そんな些細な言葉でさえ、人一人の命を繋ぎとめる事もあるのだ。裏を返せば、些細な言葉でも呪詛となり得、人を葬る事も出来る。

 今回は二人の真実を上書きする必要がある。元々一人だった様な、或いは表裏一体、或いは実像と虚像という実に特殊な二人に対して言葉を投げかけねばならない。願わくは其れは呪いの言葉ではなく、二人が抱く自縛の世界を開放する言葉として届いて欲しい。勿論悪意の塊の様な言葉を吐くつもりはない。しかし、一定以上の反抗が生じるであろうことは予期しておくべきだろう。

 そもそも、世界観や価値観の上書きなどという操作は、他人が意図して出来るものではない。個人が各々貫いてきた信念は他人の言葉でそう易々と揺らいだりはしない。其れが揺らぐのは、他人の言葉を自分の中で理解し、反芻し、吟味した上で、自分の価値観よりも優れた部分があると納得しなければ、他人の言葉はいつまでたっても唯の音声である。いや、唯の音声ならまだ良いが、相手の価値観や自尊心に傷が付く様な言葉の場合、相手が反抗、反論に出るのはまず間違いない。此方に其の気は無くとも、時として言葉は自分から相手に伝播する途中で呪詛になり兼ねないのだ。

 言語を情報伝達に用いる以上、話者の真意が相手に過不足中無く伝わる事は無い。自分の脳から相手の脳までの距離は、意外と遠いのである。其の道のりには多くの難所があり、難所を通過するたびに話者の真意からは情報が抜け落ちたり、逆に余分なものが付着したりする。

 第一に、話者の思考が言語に変換されるときに、変換ミスが起きる。話者が自分の思考を過不足なく説明できるだけの語彙を持ち合わせている事は少ない。自分ではきっちり変換したつもりでも、実は言葉の意味を微妙に履き違えていたり、または勘違いしていたりして全く別の言葉を口走って仕舞う事も珍しくは無いし、概ね正しい事を言っていても、実はより自分の真意に近い類義語や言い回しがあったかも知れない。しかし、そんなものは知らなければ其れ迄である。結局は自分の知っている語意の中から、自分の意図に合いそうな言葉を選んで組合わせているに過ぎない。

 第二に、言葉は音となって空気を伝播する。物理的に言えば其処でエネルギーロスが発生するし、外界からの雑音・騒音は話者の言葉の情報を削ぎ落とす。

 第三に、聞き手に話者の言葉が届いたとき、話者は其の言葉を自分の理解出来る形に変形する。相手の言葉を自分の辞書に照らし合わせながら、相手の言葉を理解しようとする。この時に話者と聞き手の辞書の内容が全く一緒である事は考えにくい。関西人は「アホ」と言われるより「バカ」と言われる方が腹が立つと言うが、他の地域では概ねどちらも不愉快である。地域や育ってきた環境によって個人の辞書は千差万別である。外国人との会話ともなれば、意思の疎通が極めて困難なのは、勿論言語の違いもあるのだが、言語の差を埋めたところで、個人の辞書には其の国固有の文化なり風習なりが色濃く反映されているに違いなく、同じ言葉あっても話者と聞き手では意味が大きく異なる事もある筈だ。

 極論を言えば、情報伝達にロスが在る以上、言葉は遍く嘘を含んでいる事になる。

 だからと言って、言語による情報伝達が無為な物であると判断する事は当分人間には出来ないと思う。何故なら、言語以上の意思疎通のツールを人間は未だ持っていないからである。言語にロスがあると知りながら―知らない人間も一定数居るだろうが―言語以上にロスの少ない手段を人間は知らないのである。

 その意味では、カガミとハジメの情報共有能力は、一般的な人間より遥かに強い筈だ。言語に拠らない情報の共有。脳波の共鳴に拠る外界認識は即ち、世界其の物である。其処には伝達のロスは発生しない。同時に同じ物を見、聴き、感じて来た筈だ。その中でハジメが自覚的に目覚めるという状態は発生し得ない。何故ならば、試験管の中であろうが、幡から見れば眠っていようが、ハジメ個人の認識としては、世界は俺たちと同じように存在し、リアリティを持った感覚として全身に降り注いでいた筈だからだ。

 記憶喪失になった後、初めて病室で目覚めた時、実は俺が今見ている世界は夢の様な偽物で、つまり自分はまだ夢を見ているのではないかと疑った事も有るが、その思いつきは間も無く否定された。夢と現実ではリアリティに差が有るのだ。夢は相当強烈な夢で無い限り―或いはかなり強い刺激を伴ったとしても―数日の後にはその記憶、感覚は朧なものになり、其の多くを忘れて仕舞う。其れに対して現実の記憶は、例えば数日前の朝食のメニューといった半ば如何でも良い様な事でさえ、思い出せなくは無い。其れほどまでに、夢と現実では脳に与える印象、リアリティに差があるのだ。

 しかし、電極を刺された脳が嘘の世界を嘘と見破れないように、ハジメが目覚めない以上、ハジメがカガミの世界を疑う事は無かった筈だ。夢の様な朧気な物ではくカガミという自分の分身が実際に経験した世界の情報を余す事無く受信していたハジメにとって、其れは疑う余地を残さぬ程リアリティの有る世界だったに違いない。そして其の世界はカガミの世界と全く同一の物だったのだ。

 其れでも、ハジメは目覚めた。一般人の感覚で言うなら―といっても酷く想像は困難だが―今の目の前の世界を否定して、自分の住む現実は別に有ると確信して、目覚めた状態からさらに目覚めたといった感じだろうか。

 箱の中の猫に例えるなら、其の猫自身が、本当は死んでいるにも関わらず「僕は死んでなんかないニャ。生きてるニャ」とか何とか言ってもう一つの世界、自分が生きているという世界へ移行した様な物だ。

 此処で問題なのは死者が復活した事ではなく、重複する世界を認識して両者を行き来した事にある。俗に言うパラレルワールドの行き来である。

 通常人間は、自分の認識可能な世界より外に出る事は出来ない。幾ら超音波や紫外線をセンサで観測したところで、聞こえない物は聞こえないし、見えないものは見えないのである。其れらはセンサという人が作った五感の延長を使って、認識したような気になっているだけである。不整合の無い解釈を真実に認定して、利用しているに過ぎない。

 要するに、パラレルワールドがあると幾ら脳で理解しようとも、五感に其の実感は微塵も湧いて来ないし、況してや行き来する事なんて到底出来そうもない。

 では何故ハジメは世界を否定する事が出来たのか。そう考えると、ハジメは自覚的に目覚めたのではなく、誰かに目覚めさせられたと考えた方が良いだろう。ハジメの認識を超えた次元に存在する誰かが「お前の見ている世界は実は偽物で、本当の世界は別に存在しているのだ」と吹聴した筈なのだ。

 我々だったら、そんな高次の存在を或いは神、或いは悪魔、或いは霊、或いは氣など、いずれ人知の及ばぬものに例えるだろう。

 しかしハジメにとっては、ハジメが試験管の中で生きている事を知っている人間は、ハジメより僅かに高次の存在なのである。ハジメの見ている世界は実はカガミのコピーであり、実際は溶液の中で命を繋いでいると知っている者なら、ハジメに「お前の世界は偽物だ」と示唆する事が出来る。つまり俺でさえ、ハジメにとっては神にも悪魔にもなれる立場なのである。ただし、ハジメと接触する術を持っていればの話だが。

 ハジメと接触出来る人物―つまりハジメより高次の場所から、ハジメに情報を供給できる人物―となると、その人数はかなり限定的になる。試験管を所有している機関の構成員であっても、ハジメとカガミの脳派が同一で有ると知っているのは極僅かだろうし、そもそも其れが判明したのは最近の話だ。

 ―という事は―


 市ノ瀬君。

「おい一之瀬君、着いたぞ」

 暫く考え込んでしまっていた。不意に先生に呼ばれ意識が現実に戻る。見れば車外の風景も出発時とはかなり違った物となり、周囲は山―いや、起伏が少ないので森か林だろうか―に囲まれていた。そして正面にはそんな自然の只中には似つかわしくない、酷く直線的な人工建築物が横たわっていた。それもかなり大きい。加えて周りには樹木くらいしか比較対象が無いのでサイズ感がいまいち掴めない。只々漠然と「大きい」と感じるだけである。大きさの割に窓は少なく、しかも小さい。裡は広いのだろうが、およそ日光を取り入れる構造になっているとは思えないので人工光が支配しているのだろう。そもそも人が裡に居るのだろうか。先生が車を停めた駐車場は、施設相応に広いものだったが、如何言うわけか車は駐車スペースの四分の一に満たない程度しか停まっていなかった。しかもその大半は同一車種、同一色で統一されており、どうも施設所有の業務用車の様である。

 「先日無人稼動試験が終わったからな。それまではもっと多くの人間が出入りしていたのだが、無人稼動が開始されてからは最低限の監視人と個別に此処に用が有る者、後は出入り口の守衛くらいしか居ない。常時手探りで即時対応が必要な実験が行われる時は方々から集まった識者でごった返すが、経過観察等の緊急性のない実験の場合は、此処に居なければ出来ない仕事というのは少ない。データは此処でなくても閲覧できるからな。

 まぁ、さっき確認したハジメのリアルタイムデータは異変を伝えていないから、そんな物は当てにならない様だが」

 異常が無い筈は無いのだ。異常が無ければ山本先生は電話など掛けて来ない。誰かがデータを偽装しているという事だろう。

 「恐らくデータを偽装しているのは山本先生自身だろう。そもそも公式には山本先生の出張先は此処では無いからな。異常を感知されて人が集まるのは避けたかったんだろう。あの人なら、ハジメが安定している時のデータから偽装データを作ることも出来る」

 つまりは、行き先とハジメの生体データを偽ってでも、山本先生には此処に来る理由が有ったのだ。データが異変を示していない事が、今は逆に異常事態を確固たるものとして証明している。

 早足で建物の入り口、といってもメインの入り口ではなく裏口の様な小さな出入り口へと向かう。小さいとはいえ守衛室がある。中には強面の老人守衛が一人いる。その横にはカードリーダー式の改札の様なゲートがある。勿論先生は出入りの許可を得ているのだろうが、俺はそんな物は持っていない。山本先生や十川先生であっても、一旦はこの良く解らない実験組織に反旗を翻した身である。そんな連中が、そもそも人の出入りが極端に少ない施設を出入りしていて怪しまれないのだろうか。

「豊さん、久しぶり」

 先生がトヨさんなる守衛に話しかけた。口調から察するに知り合いなのだろうか。

「なんだぁお前ら。今日は揃いも揃って。源もまだ裡にいるだろ」

「山本先生の連絡受けてこちらに伺ったのですよ。こっちはうちの研究室の学生で一之瀬君です」

 俺はどうも、と軽く会釈をする。ゲンとは山本先生の事だろうか。老人は此方を睨み(眼つきが悪いだけで睨んだ訳では無いのかも知れないが)、あんたも大変だな、と良く解らない事を言った。

「まぁ、無人稼動になってからこちとら暇だがな。かと言って日に何人も許可証無しでゲート潜らせるのは御免だぞ」

「出入りのデータは消していただけるのでしょう?それなら記録上は出入りした事にならない」

「そういう問題じゃねぇよ。俺の良心の問題だ。一応俺は此処に雇われてるんだぞ。ばれたらクビだ。まぁお前らの事情は知ってるから目を瞑ってるがな。せめて日を置くとか一人ずつ来るとかしてくれよ」

「今回は急だったのですよ」

「・・・例の娘か」

 ハジメの事を知っているのだろうか。

 それならば、この老人、トヨさんは味方なのだろう。最も、誰が敵なのかも良くは解っていないのだが、少なくとも機関側の人間ではなさそうである。とは言え雇われている様だから、所属は機関側だろう。スパイのような立ち位置である。見た目はスパイというよりご隠居といった感じだが。

 先生がトヨさんに事の次第を話していると、何かが砕ける様な音がした。決して大きな音では無く、何処の部屋から聞こえたものかは明瞭としなかったが、建物の裡から聞こえたのは確かだった。酷く籠もって輪郭の曖昧な音で、余ほど建物の内側の方か、或いは地下から発せられたのかもしれない。これまでほぼ無音静かな林だっただけに、その音は小さく曖昧であったのに、妙に違和感を覚えた。他の二人も違和感を抱いた・・・というよりも驚愕した様子で、目を丸くしている。

 すると、ゲートの上のランプが赤から緑へ変わり、ゲートが開いた。どうやらトヨさんが開けてくれた様だ。

「何だか知らんがヤバそうじゃねぇか。行ってやれ。何かあったら連絡寄越せよ。内線は記録が残るから使うなよ」

「恩に着ます」

 先生がトヨさんに礼を述べる。俺も続けてありがとうございますと言った。

「学生さん・・・一之瀬君だったか。此処へ来たからには色々と知ってるんだろうが、あの娘達に罪は無いんだ。そこだけは解ってくれ」

「勿論です。僕はカガミに頼まれて此処へ来たんです」

 本当は直接頼まれた訳ではない。でも何となくカガミがそう言っている様な気がしてならなかった。

「そうか、なら良い」

 俺はもう一度会釈をし、先生の後に続いて施設の裡へ入った。

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