15 ある仮説

 ―カガミちやんが・・・倒れました・・・―

 ―ハジメが覚醒したそうだ―


 沈黙はそう長くは続かなかった。俺はカガミの元へ駆けつけなければならないと思った。あの時、病棟の屋上に駆けつけた時の様に。いや、その時以上に今はまずい状況であると、俺の鼓動は告げていた。

 永子の話に依ると、カガミは大学の研究室で倒れたのだと言う。奇しくも俺が記憶を失った時に倒れていたのと同じ場所だそうだ。

 「今日は診察の日だったから、研究室に遊びに来ていたんです。診察が終わったら一ノ瀬君のお見舞いに行こうと声を掛けてくれて、しばらく研究室で話していたんです。其の時は元気そうに見えたんですが、飲み物を買いに行くと言ったきり、なかなか帰って来なくて、心配になって斉藤君と一緒に探していたら、先生の部屋で倒れていました・・・」

 此れも俺の時と同じく、見つけたのは斉藤らしい。教授の部屋に入ると気絶する仕組みでもあるのだろうか。いや、俺の場合は兎も角、カガミの場合は場所の問題では無いだろう。タイミングからして、カガミが倒れた原因には必ずハジメが覚醒めた事と関係が有る筈だ。証拠など何も無いのだが、俺には無関係とは思えなかった。其れに関しては十川先生も同じ見解の筈だ。研究室に向かう道中、先生の表情は不安でいっぱいだった。

 総合大学だけあってキャンパスはそれなりの広さを持っていた。病院の出口から研究室の在る建屋まで続く道の両脇には銀杏(いちょう)の樹が植えてあった。今は初夏なので青々としているが、秋には黄色く染まるのだろう。銀杏の並木道を抜け、研究室のある建屋に入る。思えば、記憶を失ってから初めて来る場所である。此処で俺は哲学だか精神学だかを学んでいたのだ。その学舎(まなびや)、山本研究室は建屋の二階に在るらしい。

 急ぎ、研究室へ向かう。ドアには差し替えの出来る名札受けがあり、其処には山本道源と書いた紙が差し込んである。其の下には在室状況の表示板があり、赤いマグネットが「出張」の欄に留めてあった。更に其の下には十川先生の在室状況が表示してある。

 永子がドアを開ける。同時にインクの匂いが漂う。部屋の左右は書架で埋まっており、書架は本や論文で埋まっていた。書架に挟まれた空間にはオフィス机が二脚、背の低いガラス天板の机が一脚、其の脇に黒いソファーが置かれており、カガミはソファーに寝かされていた。斉藤は十川先生の椅子を移動させて、ソファーの横に座っている。

 「目は覚ましませんが、呼吸や脈は正常に戻りました。今は命に関わるような状態では無いと思います。また急変しないとは言えませんが・・・」

 斉藤が告げる。カガミの様態は現状では安定している様だ。しかし、斉藤の言葉の通り、というより先のハジメ覚醒の知らせのせいで、安堵の表情を浮かべる人間は居なかった。

 「すまない、世話を掛けたな」

 先生が斉藤に礼を述べる。

 「お礼はいいですよ。其れより、道源先生から連絡があったのでしょう?カガミちゃんには俺と永子が付きますから、道源先生の所へ」

 口振りから察するに、斉藤は一連のカガミとハジメの境遇を知っている様だ。永子も斉藤程ではないにせよ、全く知らない訳ではなさそうだ。もしかすると、記憶を失う前の俺も知っていたのだろうか。病院屋上でのカガミの反応では、俺とカガミは初対面だった様に思うのだが・・・。

 そして更に気になるのは、斉藤の言葉にはカガミを看病するメンバーに俺が含まれていないことだった。そんなに深い意味は無いのかもしれないが、俺は妙に引っ掛った。まるで俺は十川先生と共に道源先生の元へ向かうことが当然であるかの様な雰囲気だ。

 「本当にすまない。感謝する。では、一ノ瀬君は俺と来てくれるか。君を巻き込んで仕舞うのは心苦しいが・・・いや、此れは綺麗事だな。私が君にカガミとハジメの話をすると決めた時から、私は君に希望を抱いていたのかもしれない。真逆こんなに早く、こんな状態になるとは思わなかったが」

 矢張りそうなのだ。俺はハジメに逢わねばならないのだろう。何故俺なのかは未だ良く判らない。しかし、俺には使命感の様な感情が芽生え始めていた。

 山本教授の元へは十川先生の車で向かう事になった。十川先生は白衣の儘、駐車場へと向かった。俺は出入口の所で車の到着を待つ様に言われた。先生が去った研究室に暫し沈黙が流れた。

 「ハジメの事、聞いたのか」

 沈黙を破ったのは斉藤だった。

 「斉藤も、知ってるんだな。陽子も」

 俺が聞いた話は恐らく、カガミやハジメを取り巻く事情の極一部に過ぎないと思う。斉藤や陽子、そして記憶を失う前の俺は今の俺よりも多くの事を知っていたのかもしれない。

 「ううん、私も詳しくは知らないよ。特殊な生い立ちだって事は知ってるけど、其れ以上は怖くて聞けなかったの。カガミちゃんは良い子だから、深入りして偏見を持ちたく無かったの。知ったとしても、私に出来る事は少ないし。逆に知らないからこそ出来る事の方が多いと思ったの。カガミちゃんが何でも話してくれるような間柄になれたらなって。カガミちゃん本人が直接打ち明けたいと思うまでは、私は何も聞かないって決めてたから」

 其れはきっと、陽子にしか出来ない役割だ。身内以外の気の置けない間柄というのは大切だ。人は誰しも家族には、家族だからこそ相談出来ない事も有る。そんな時に支えになってくれるのは、家族以外の友人である。きっと陽子はカガミにとって、良き友人なのだろう。

 「知らないからこそ出来る事、か」

 記憶を失った後、同じようなセリフを十川先生に言われたのを思い出した。今にして思えば。先生は記憶を失った俺に仕切に何かを考えさせようとしていたのではないだろうか。記憶を失うことで先入観をも失った俺に投げかけられた幾つかの議論。其れ等は何れも「存在とは何か」という点についての話だった。


 ―動くコーヒーカップ―

 ―脳に電極を刺す科学者―

 ―缶コーヒーの中身―

 ―箱の中の猫―

 ―ドーナツホール―

 ―白いカラス―

 ―死後の世界―

 ―パターン―

 ―魂―


 ―鏡―


 「あぁ・・・そういう事か」


 「一ノ瀬?」

 斉藤の声が俺の意識を現在に戻した。

 「あ、あぁ・・すまん。でも、一つ解った」

 そうだ、よく考えれば当たり前の事じゃないか。

 「解ったって、何が」

 でもまだ仮説だ。この仮説を確かめる為にも、俺はハジメに逢わねばならない。

 「其れを確かめに行ってくる」

 俺は眠るカガミに語りかけた。

 「まかせとけ大丈夫だ。カガミも、ハジメも」

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