11 言語と魂
どの位の間沈黙していただろう。感覚としては永遠にも等しい時間、俺の思考は堂々巡りを繰り返した。しかし所詮は同じ処をぐるぐると逡巡しているだけで、一歩も前進はしなかった。そして、俺の感じた永遠は物理的な時間に換算すれば十分にも満たない時間だっただろう。それでも、会話の途切れにしては長い時間だ。その間、先生は何も言わなかった。俺の見解を待っている様子でも無かった。只々ダラリとした時間が二人の間に流れていた。
カガミはヒトではない。この事実に対して俺は動揺している。最初に誓った様に、カガミがどんな存在であろうと、俺と彼女の関係は変わらない。その誓いは今でも持ち続けている。しかし、余りにも日常と掛け離れた事実を告白され、頭が真っ白になったのは事実だ。人で有ろうが無かろうがカガミはカガミだ。そんな事は解っている。解っている筈なのに・・・。
この何処にも納まらない漠然とした感情は、無意識の差別なのか。まるで延々と広がる砂漠の真ん中に突然放り出されたかの様な絶望感、虚無感、不安感、焦燥感は一体何だ。俺の心は”カガミがヒトではない”と知らされただけで、こんなにも揺れ動いて仕舞うのか。それは“ヒト”と“ヒト意外”を無意識に差別している事の証ではないのか。
しかし、対消滅の話を聞いた時から、俺にはひとつの疑問を抱いている。
「先生は“カガミはヒトの反物質”だと仰いましたね。ならば、カガミがヒトである僕や先生、或は街中に溢れているヒトに出会うと、対消滅を引起こして仕舞うのではないのですか?其れが起きていない以上、カガミを“ヒトでない”と定義するのは間違いではないのですか?」
半分は冷静に考えた疑問だが、もう半分は「そうで在って欲しい」という俺の願望に過ぎない。俺はまたしても、結果の収束を望んでいるのだろうか。再び絶望を味わうリスクを感じながらも、残り半分の可能性に賭けているのだろうか。
「其れについては私の説明不足だったな。正確には“カガミはハジメの反物質”であり“ハジメはヒトの定義に当て嵌まる存在”だ。其処から三段論法的に“カガミはヒトの反物質”という表現をした。電子と陽電子のように単一の粒子ならば、それらが逆の性質を持っていさえすれば対生成、対消滅が起きる。しかし、ヒトという細胞単位でも何十兆個という数で形成されている物が、その全てに於いて逆の性質を持つ存在というのは、それこそ人工的に作ろうとでもしない限りは天文学的確率で存在しない。更に言うと、カガミの身体を構成している物質が全て反物質であるという意味でもない。カガミはハジメと対であるという点意外は極普通の人間と何ら変わらない。だから、カガミが日常生活を送っている中で出会う人々、例えば君と出会ったとしても、対消滅は起こらない。
唯一対消滅が起きるとすれば、それは“ハジメとカガミが出会った時”だ」
つまり、カガミは“ハジメという一固体の反物質”ということか。そしてハジメは“ヒト”なのだ。そう言う意味では“ドッペルゲンガー”という馬鹿気た表現は、認めたくは無いが、これ以上無い程適切な表現のように思える。人口に膾炙しているドッペルゲンガーは、自分と瓜二つの人間が現れ、それに出会うとその人は間も無く死を迎える、或は行方をくらますという都市伝説的な物だ。此の話を、先の“対生成と対消滅”の話と照らし合わせてみると、その奇妙な相似性が浮かび上がる。対消滅とは、自身とよく似た反物質と出会う事でそれら二つの粒子は消えて無くなり、無に還って仕舞う。
「ドッペルゲンガーという名前からは外国の伝説を想起させるが、それに近い民間伝承は世界各地に点在している。其れは日本とて例外ではない。柳田國男氏の著書である遠野物語等にも、“床に臥せっている筈の人が突如農場に現れ、ひとしきり作業を手伝って帰って行った。その様子は複数の人が証言しているのだが、その当の本人はちょうど同じ時刻に息を引き取っていた”という話が残っている。同書には他にも似た様な事例が幾つか紹介されている。此の場合、死人を確認しているから、肉体の対消滅は起きていないと考えて良いだろうな。消滅したのは命、或は魂と呼ばれるものだろう。死体には最早人格は宿っていない。生者と死者には明確な差が有る。それにも関わらず、死ぬ直前の人間と死後間も無い人間とでは、物質的な差は無いに等しい。となると、抽象的な表現ではあるが“命が尽きた”とか“魂が抜けた”という表現で生者と死者を分つのは、心理的に自然な事なのかもしれないな」
ではそのヒトを定義している要因は何だ。カガミがヒトに分類されないのは何故だ。
「魂の定義、いや、そもそもヒトでも全く同一のヒトなど居ない。それなら、個人を規定している要因、魂の定義は一体何なんですか。“カガミがヒトでない”理由は何処に在るのですか」
そうだ、そもそもヒトとヒト以外を分かつラインは何処に在るのか。さらに其の中の一固体である自分と自分以外の境界を作る魂とは何なのか。
「ヒトの代謝の早さは部位に因って様々だが、三ヶ月もあれば一通りの細胞は外部から取り入れた物質、つまり食物から得られる原子なり分子なりをあれこれ変形させて、新しい物に置換される。にも関わらず、我々は連続した意識を持ち続け、一個人という物を確立している。それは何も性格や思考といった抽象的な物だけでは無い。例えば顔の形が三ヶ月で別人の様に変化する事は無いだろう?逆に1ヶ月で急激に体重が増減した所で、其の個人は決して三ヶ月前と別人では無い。
即ち、個人という物を規定しているのは物質其の物では無いという事だ」
それでは俺の疑問が補強されただけだ。個人を規定している物が物質でないのなら、なおさらその要因が何なのか解らなくなる。
「個人差は有るものの、人間を構成している物質は同じ体格の人間ならほぼ同じだ。
つまり、物質的な切り口でヒトを見るならば、同じ様な物質の集合体に過ぎない。ともすれば、サルとヒトでも物質的に見ればそう大差は無いだろう。それでも個人が個人であるという認識、所謂アイデンティティは、物質に束縛される物ではない。それは君も解るだろう」
それは確かにそうだと思う。ヒトを原子レベルでバラバラにして仕舞えば、似通った物質構成なのだろう。しかし、一個人を構成する量の物質を集めて山積みにしたところで、その物質の山とヒトは同じでは無い。それは誰もが認めて疑わない事だ。では、全く同量の物質から成る二人の人間が居た場合、その二人の違いとは何だろうか。少なくとも物質的側面から観測される二人は同じモノだ。しかし其の二人の精神構造、抽象的な言葉を用いるならば“魂”は別の物だ。魂とは何だ。
「それはパターンだよ」
俺が抱いた疑問を口にする前に、先生はあっさりとその答を告げた。
「それこそ解釈は様々だと思うが、私の見解としては“個人を規定しているのはそのヒト“個人のパターン”だと考えている。解りやすい例えで言うならば、DNA鑑定は正にチミン、グアニン、アデニン、シトシンという高々4つの塩基の配列、つまりパターンで個人を特定する方法だ。
ただし、私は“遺伝子の配列のみが個人を規定している”と言いたい訳ではないのだ。例えば一卵性双生児の遺伝情報は全く同じだが、彼らの魂は別物だ。それは成長の過程で異なる環境に置かれ、異なる記憶を獲得し、異なる思考・行動のパターンを形成する。双子であったとしても一般的には兄、弟、姉、妹という属性が付与されて育てられる事がほとんどだ。全く同じ遺伝情報を持ちながら、兄弟姉妹という属性が与えられただけで、二人の思考、心の成長は別の経路を辿り、唯一無二の物になる。君はまだ思い出せていないかもしれないが、妹さんは見舞いに来てくれたのだろう?双子ではないにしても、兄妹の間には”兄と妹”、“男と女”という属性が付与される。子供の頃は「お兄ちゃんなんだから」とか「男の子なんだから」と言われた事は一度や二度では無いと思う。人は生まれてから死ぬまで、至る所でそう言う属性を付与される。男女、親子、兄弟、学校のクラスや当番、学級委員長、部活のリーダー、学力や身体能力の優劣、出身地、学歴、理系文系、就職先や其処での肩書き等、ヒトが付与される属性は枚挙に暇が無い。それは自分の意思とは無関係に与えられるレッテル的な物から、自分から望んで、或は努力して獲得する物まで様々だ。
もっと実も蓋も無い話をするならば、双子とて同じ座標に居座る事は出来ないのだ。双子が揃って横に並んでいた場合、兄が右に居れば兄から見て弟は左に、弟から見て兄は右に居る。たったそれだけの事で、二人の見ている世界は微妙に違う。シュレディンガーの猫のように、重なり合って存在する事は出来ない。
成長の過程で二人が全く同じ経験を共有する事は不可能だ。其の中で、個人は個人の経験を重ね、其処から思考や行動のパターンが形成される。そうした個人個人の唯一無二の思考パターンこそが魂と呼ばれるモノだと私は思うのだ」
同じ物質で構成されていても、その配列、パターンが変われば別の特性を示すということか。しかし其れは極短時間でヒトを観察した場合にしか成立しないのではないだろうか。ヒトは、というかヒトで無くとも生物は成長する。幼少の頃の自分と現在の自分は確かに連続した記憶で繋がっている様に思うが、だからといって産声を上げた瞬間の俺と、現在の俺では身長体重は勿論、知識量や思考パターンは全くの別物だろう。更に今の俺に至っては記憶喪失という特殊な状態のせいで、過去の自分との連続した意識を持っていない。第三者が俺の容姿を見て過去の俺と照合する事は出来るだろうが、俺自身は其れが出来ない。今や過去の自分は自分以外の誰かの記憶にしか存在していないのだ。そうであるならば、今の俺には記憶を失う前の俺とは別の魂が宿っているのだろうか。
「いや、私の個人的な見解で言うならば、今の君も過去の君も同じ魂を持っている。
君の中で意識の連続性が失われているから、他人に如何言われようと君が信じなければ其れ迄なのだが、君の今の思考パターンは、山本研究室で研究に勤しむ君の姿と実に良く似ている。喪失している記憶の分、知識量は確かに少ないのだと思う。
しかし君と会話をしていて私が感じた事は、君は間違いなく一之瀬影利であるという事だ。勿論これは容姿について述べているのでは無い。君の発言や態度から私の察する君の思考は、記憶を失う前後で変化したとは思えない。君自身に自覚はないだろうが、記憶を失ってから後も、君の発言は実に“君らしい”発言だった。私は君が記憶を失おうとも魂を同じくする一之瀬影利という一人の人間を認識し続けている。それは私が保証する」
保証された処でやはり実感は無いのだが、此の先生のお墨付きならば少し安心したような気持ちになった。
「記憶を失っても、先生の言う“僕らしい”思考が出来るのも、パターンの御陰という事ですか」
「そうだな、少なくとも私はそう考えている。記憶喪失というと、記憶の一切を失って仕舞った様な響きの言葉だが、そうではない。君の脳にはしっかりと過去の記憶が蓄積されている筈だ。今は其れを“思い出す事が出来ない”だけだ。金庫の鍵を無くして仕舞った様なイメージだな。金庫の中には確かに貴重品があるのだが、鍵を無くして仕舞ったが為に其れを取り出せないのだ。しかし、その金庫の中身とは所謂“エピソード記憶”と呼ばれている物だ。鍵を無くして金庫の中身を取り出せなくても、君が言葉を話したり歩けたりするのは、そういった無意識的な行動に関する記憶は金庫の中には無いという事だな。此方の金庫の外側の記憶は“手続き記憶”等と呼ばれている。この手続き記憶が失われない限り、基本的な思考パターンは変化しない筈だ。
但し、金庫の中のエピソード記憶を使わないと説明出来ない様な思考は、今の君には出来ない筈だ」
其れはそうかもしれない。先日斉藤と検証したように、俺はある程度の数学の計算が出来る。しかし、大学の授業で習ったという「線形代数」や「変微分方程式」、「フーリエラプラス変換」等の教科書を見せられても、俺は全く内容が解らなかった。此れは先の先生の喩えを借りるならば、凡そ高校までの数学知識は金庫の外の“手続き記憶”であり、大学で習った数学的知識は“エピソード記憶”なのだろう。俺が小学生だったなら、もしかすると掛け算や割り算もエピソード記憶に過ぎず、記憶喪失の際にそう言ったレベルの計算方法も忘れて仕舞うのかもしれない。つまりある程度の経験値を得ると、エピソード記憶は手続き記憶に移行するという事だろう。
「未知の事柄について考える時、ヒトは過去の知見や経験、記憶を総動員する。しかし、その中の記憶や経験は飽く迄も思考を助けるツールなのだ。思考其の物は各個人に寄って異なる。
例えば数学の証明問題は、同じ授業を受けた二人が同じテストを受けたとしても、全く同じ回答をするとは限らない。正解不正解は元より、証明の方法や順序が異なったり、証明文の言葉使いも異なるだろう。そう言った差異が生じるのは、数学の授業以外で経験して獲得した個人の思考パターンが有るからだ。
思考はそもそも経験や知識から構築される物だが、一度構築された思考が他の事柄に応用される時、必ずしも元の経験や知識の記憶が必要とは限らない。その“記憶に頼らない思考パターン”こそが、その人個人のアイデンティティと呼べる物だと私は思う」
思考は経験や記憶から創られるが、創られた思考は経験や記憶から切り離され、更に他の経験や知識によって強化、補完、修正され、最終的に個人の思考は唯一無二の物になる。全く同じ経験を辿る人間が居ない様に、全く同じ思考パターンの人間は居得ないのだ。
「だから私はアイデンティティを“自己同一性”と表現するのは違和感が有るのだ。同一性と言うと、何かと比較して初めて自己を認識するという意味合いが強い様に感じないか。それでは“この世に自分と同一の物など無い”事を証明しなくてはならない。これは悪魔の証明、ヘンペルのカラスの様な物だ。そうでは無く、例え比較する物が何も無くても“自分が自分以外の何者でもない”という認識を持つ事が真のアイデンティティではないかと思うのだ。“自己同一性”と表現するよりも“自己唯一性”等と表現した方が、個人が個人である事を表すには適しているのではないかと私は思う」
猫、モルモットに続いて今度はカラスか。どうも此の手の話をする際に身近な動物というのは引き合いに出される運命なのだろう。
「ヘンペルのカラス・・・今度はカラスですか」
どうやらこのカラスは金庫の中に居る様だ。既に俺の頭の中は小動物園状態である。
「ん・・・あぁ、そうだな、ヘンペルのカラスについては説明が必要かな」
今の俺の頭にはまだそのカラスは定住していない。カガミの話からは脱線するのかもしれないが、聞いておくべきだと思った。カガミを自殺から踏み止まらせたのも数羽のカラスだった。その程度の連想だが、何か引っ掛かるワードだった。
「ヘンペルというのはまたしても人名だ。彼は科学者であり哲学者だ。私と属性が近い人物かもしれないな。彼が提唱した“ヘンペルのカラス”とは全てのカラスが黒い事を証明する時、カラスを一羽も調べなくてもそれが証明可能である、という考え方だ」
そんな事が可能だろうか。世の中の全てのカラスを調べる事でさえかなりの労力を費やしそうだが、カラスを調べないとなると一体どうすれば良いのか検討が付かない。
「君が直感的に違和感を覚えた点にヘンペルも違和感を抱いたのだ。さっきは“ヘンペルのカラス“をヘンペルが提唱した理論の様に喋って仕舞ったが、実はヘンペルのカラスとは、彼が抱いた違和感を科学者に問いかける為の講釈、問題提起の様な物だ。ヘンペルは現在高校数学で当然の様に習う“命題とその対偶の真偽は一致する”という状態に対する違和感に言及している。つまり、高校数学の範疇で、命題“世の中の全てのカラスは黒い”が真である事を証明するには、その命題の対偶である“世の中の黒くない物はカラスではない”を証明する事と同義だ。つまり、世の中の黒くないありとあらゆる物を全て調べ尽くして、その中にカラスが含まれていなかったとしたら“カラスは必ず黒い”と結論出来る訳だな」
それがカラスを調べる事無くカラスが黒い事を証明する手段という訳か。確かにその方法ではカラスは一羽も調べていない。しかし、それは世の中のカラスを全て調べるよりも遥かに膨大な労力を費やすのでは無いだろうか。というよりも、現実的には不可能だろう。
「ヘンペルも矢張り現実感を伴わないその対偶論法に違和感を覚えたのだな。しかし、日本の教育では其れをさも世の理の様に教えている」
そもそも、先の対偶法ではカラスを調べていないのだから、カラス等という名前の生物が存在しているのかどうかさえ確かめていないではないか。其れなのに、全てのカラスが黒いと結論付ける事が可能なのだろうか。
「その点に付いて、対偶論では“カラスが存在するか否かは問題にならない”としている。何故ならば、世の中の黒くない物にカラスが含まれて居なかったのだから、カラスという物が存在して居ようが居まいが、カラスと名の付く物が存在するならば、黒い物に内包されている以外に考えようが無い、と宣う訳だ」
確かに・・・理論的な齟齬は無い様に思える。しかし何故だか腑に落ちない。矢張り現実的にその証明を行う事がほとんど不可能だから、そう感じるのだろうか。
「そう感じる人は多いのだ。実際にそんな事をする程暇を持て余している人間は居ないだろうし、人が一生掛かっても“世の中の黒くない物を全て調べる”なんて事は出来ない。この様な現実的に不可能な“無い事を証明する”照明を“悪魔の照明”と呼ぶ」
確かに悪魔的だろう。そもそもカラスが黒いという事を照明する為だけに、そんな膨大な労力を費やすのは、割に合わない。俗な言い方をすれば、自分に何のメリットも無い。遺伝子操作でもして白いカラスを生み出す方がコスト的にも安く済みそうな勢いである。其処までやらないにしても、“カラスを全羽調べて、その全てが黒い事を照明する”方がまだマシだ。
「そこへ来て“自己同一性”という言葉は悪魔の照明の様な響きだと、ふと思ったのだ。自分以外の全ての物を調べ尽くし、その中に“自分と同一の人間が居ない”と照明しなけば、自己というのは確立出来ない物だろうか。私はそうは思わない。私というパターンは私自身の唯一無二の経験から構築された物だ。そんな物は、他の人間を調べるまでも無い。だから私は“自己同一性”という言葉よりも“自己唯一性”と表現した方が正しいのではないかと思うのだ。まぁ、そんな物は言葉のあやだと言われて仕舞えば其れ迄だがな」
確かに言葉のあやに過ぎないのかもしれない。しかし、言葉という物は人間の最大のコミュニケーション手段であり、思考のツールである。其れ程重要な役割を担っている言葉というツールだが、其処には多くの不完全な部分がある。言葉に因って表現される物は、曖昧さを含めば含む程に、受け取り手に真意が伝わらなくなる。最悪の場合、其れは話者同士の間に誤解を生み、時には嘘を付いたと思われ、互いの不和を招きかねない。口は災いの元、である。一方で、態と言葉に曖昧さを持たせる事で、受取り手の想像を喚起させる事も出来る。俳句や短歌は決められた文字数、決められたリズムで読み上げる言葉の中で、聞き手に実に潤いの有る情景を想い起させる。つまり言葉は、発せられる迄は発信者の内部でのみ意味を持っているが、発信され誰かに受信された瞬間に、発信者の真意とは少なからず齟齬を生じているのだ。謂わば、言葉は全て嘘であると言っても過言ではないかもしれない。其れは発信者の語彙力や表現力に因る処も有るだろうし、聞き手の語彙力、想像力に因っても大きく意味が変わって仕舞うのだ。言葉は情報を過不足無く伝えるツールとしては酷く脆い。しかし、その脆さ故に種々の技巧が生み出され、今日の形が在る。そして今此の瞬間でさえ、新しく言葉が生まれ、そして死んで行く。言葉は常に変化し続けている。
「だから通常はある程度の言葉の情報伝達ロスを補完して、人々はコミュニケーションを取っている。特に日本人は“察する文化”という言葉が有る様に、他人の言動や表情から、相手の気持ちを読み解こうとする傾向が強い。目は口程に者を言う、とは正に此の事だな。言葉が情報伝達に不十分であると知っているから、其の他の視覚情報や聴覚情報を駆使して、相手の気持ちを知ろうとする。最近ではメールの普及で文字による情報伝達が普及しているが、やはり其処でも表情を表す“顔文字”が自然と考案された。
同じ文面でも顔文字を使用するか否かで、受取り手の印象は大きく変わる物だ」
確かに表情や口調は言葉を補っている。同じ文章を朗読したとしても、読み手が子供とアナウンサーでは聞き手の受ける印象はまるで別物だろう。
カガミの発する言葉が何処か空虚で不安定な印象を受けるのは、彼女が理論的でない言葉を話しているからではない。むしろ彼女はかなり理論的だ。にも関わらず、掴み処の無い印象を受けて仕舞うのは、彼女の表情や口調が淡々としているからだろう。彼女が纏っている儚さは、彼女の容姿と行動の双方が補完し合って、より強い物になっていると思う。
「其れはカガミも自覚しているんだ。彼女は自分の真意を伝えたくとも、自分が生来持っている雰囲気が、意思伝達の障壁となっている事を知っている。君や永子君はカガミの話を良く聞いてくれるから、彼女にしてみると話し易い相手の様だ。元来の彼女は、自分の意思を言葉で伝えるのが苦手で、自ら誰かとコミュニケーションを取る事はとても稀だった。世の中には第一印象で既にカガミに苦手意識を抱く人も多いからな。一度そういう印象を持たれて仕舞うと、カガミはその壁を越えて情報を伝えなくてはならない。だから彼女は、より正確な言葉を使おうと常に意識している様だ。彼女が読書家なのは、広い分野に知的好奇心が有るのは確かなのだが、其れ以上に、より多くの語彙や言い回しを身に付ける為なのだ。自分の使える言葉を増やす事で、自分の真意を最も適切に表す言葉のストックを蓄積しているのだ。まぁ、其れが行き過ぎて、日常ではあまり使われない言葉を使って仕舞って、逆に意思疎通が出来ない事もあるようだが。“言葉は難しい”は彼女の口癖だからな。まぁ、こんな喋り方をする姉といつも一緒にいるから、余計彼女を混乱させているのかもしれないな」
先生は微笑みながら言った。カガミの話をしているときの先生の顔は、研究者の其れではなく、姉としての顔だった、記憶は無くとも、それは直感的に理解出来た。
「だから彼女は時に言葉の曖昧さを嫌う。彼女が君に“何も無いの定義は何か”と尋ねたのは、その言葉に含まれる曖昧さを排除したかったのだろう。我々が普段気にも留めずに話している言葉の端々には曖昧さが跋扈している、其れは普通なら文脈やその場の雰囲気で“なんとなく”理解しているつもりになって、特に問題なく会話が成立する。時よりその“なんとなく”の解釈が話し手と聞き手で異なっていて大問題に成る事もあるがな。良くニュースで国会議員が“言った言わない”で論争しているのを君も見てはいないか?」
記憶を失ってからまだ数日だが、その手のニュースは既に数回はテレビで見た。端から見ていると実に不毛で滑稽なやり取りである。人の揚げ足を取って飯を食う生活が楽しいとは思えないのだが。
「ふふっ。君もなかなか毒を吐くのだな。いや、私もそう思うよ」
毒づいたつもりは無かったのだが。
「少し話が脱線したな。今までの話の中でカガミがカガミらしさを持っている事は十分に伝わったと思う。
其れが彼女の“魂”だ。そして魂はこの世に生まれ出でてからの個人の経験に拠って唯一無二の物へ昇華されて行く。其の過程で重要な役目を果たすのが言葉なのだ。
今我々は、例え声として言葉を発していなくても、つまり脳の中で何かを考えている時にも、無意識に日本語を使っている筈だ」
「そうですね。英語の知識が無くは無いですが、態々不慣れな英語で物事を考える事はしないですね」
というか、其れこそ語彙が少なすぎて考える事が不可能なのだ。
「だが、言葉を習得する以前の赤ん坊が何も考えていないかというと、そうではない。言葉を習得して仕舞った今の我々には想像が難しいが、言葉を用いない思考も確かに存在する。しかし、多くの場合それは生まれてから数年もしない内に、言葉による思考に置換される。多くは自分の住む国や地域で主に用いられている言葉だな。所謂母国語だ。母国語と言っても様々で、日本でも多くの方言がある。方言の多くは、ベースとなる日本語の一部の表現が方言に置き換わったり追加されたりする場合が多い。其れがさらに大きなコミュニティで共有されると、関西弁や琉球語の様な大きな体系となる。今日では標準語を習得しておけば、日本国内なら意思疎通に然程不便は無いだろう。しかし“方言でしか表現できないニュアンス”というのは多々あるのだ。それはつまり、育った環境で身に付ける言語によって、思考に偏りが生じる事を意味する。君が英語で物事を考える事が出来ない様に、方言でしか表す事の出来ない現象については、その方言を身に着けている人でしか考えが及ばないのだ。此れは言語でも同じだな。日本語には在って英語には無い表現、またその逆の表現等、探せば枚挙に暇が無いだろう。
例えば、最近私が話したアメリカ人の学生は、日本のセミの鳴き声の擬音語の多さに驚いていたな。彼の出身地にはそもそもセミという生き物が珍しいそうだ。だからセミの種類によって鳴き方が異なる事すら知らなかったと言う。つまり彼は少なくともセミの鳴き声に関しては、日本人より語彙が少ない筈だ。その状態で“セミの鳴き声の情緒を俳句で読め”といっても、彼にとっては恐らく偏微分方程式を解くよりも遥かに難題だろう」
確かに、知らない事について語る事は難しい。ましてやその現象に対応する言葉が自分の知る言語に存在しないとなればもうお手上げである。それを実行するには現地に赴いてその地域の風習や言語に慣れ親しむか、無理やり自分の知る言語に置き換えるかのどちらかである。其の場合、後者のほうが情報伝達のロスが多いのは言うまでも無い。
「つまり、魂はその人個人の唯一無二の物に相違ないが、所属するコミュニティによってある程度偏りを持って仕舞うという事だ。最近話題の県民性や国民性等という言葉は其れを象徴した言葉だな。
自分と同一の日本人が居ない事は、さっきも言った様に確かめる迄も無く当然の事だ。
しかし、外国人から見た“日本人”という属性は私にも君にも付与される。
君と私は勿論別人なのだが、日本人という属性に於いて共通する部分が有るという事だな。其れがさっき私の言った“魂の偏り”だ。自分ではなかなか変えようの無い生まれ育った周囲の環境に因って、有る程度似た思考を持った人格が出来上がる可能性が有る訳だな」
イタリア人は陽気だとか、ドイツ人は生真面目だとか、関西人は面白いとか、東京の人は冷たいとか、確かに地域に因る人格の相似性は日常でも良く耳にする。其れは明らかに後天的なものである。遺伝によって親から受け継いだ形質と、後天的に外から与えられえた情報、その双方を内包しているのが人間だ。
「そう言う意味では、カガミは人間なのだ。彼女は私の遺伝情報を受継ぎ、誕生してから後は、研究機関監視下というかなり特殊な環境で育っているから、後天的な情報に因って形成される個性は、よもや同年代の女子とはかなり異なっているかもしれない。しかしそれは、彼女の魂が確りと形成されている証拠だ」
ならばそれで良いじゃないか。カガミは人間だ。人間の反物質等という、にわかには信じ難い物にカテゴライズされる理由が何処に在るのか。
「其れを説明するにはハジメについて説明しなくてはならないな。
カガミが、生育環境は特殊だったとは言え、ちゃんと魂を獲得したのに対して、ハジメは世に命を与えられてから、一度も目覚めた事がない。彼女は生まれてこの方、一度も生命維持のみを目的とした試験管から出てきた事はない」
それならば、最早ハジメの方が人間から遠い存在なのではないだろうか。後天的な情報に因る個性の獲得が実行されていないのだから、さっき先生が言った“魂”がハジメには宿っていない状態だ。純粋に先生の遺伝情報をコピーしただけのクローンではないのか。
「其れが、そうではないのだ。ハジメはカガミと全く同じ魂を持っている」
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