10 相反するモノ

 「そうか、カガミがそんな話を・・」

 「その時は良く聞こえなかったんですが、後から思い返せば恐らくそんな事を呟いていた様に思います」

 俺は先日のカガミとの会話の内容について十川先生と話している。十川先生は勤務を終え家に帰る途中に二度目の見舞いに来てくれている。

 先日のカガミとの会話で、カガミが最後に呟いたセリフが妙に気になっていたのだが、今思い返してみると「自分はドーナツホールだ」を呟いたように思う。その意味について今日一日考えていたが、結局良く解らなかった。其処へ姉である十川先生が現れたので、何か思い当たる節が無いか尋ねてみたのだ。

 「カガミも特殊な環境で生まれ育ったからな。彼女は自分自身が何者なのかを必死に探しているのだろう」

 其れは思春期にありがちな「自分探し」というものだろうか。そう言うと十川先生は

 「近いものは在るだろうな。しかしさっきも言ったがカガミはその出生環境がかなり特殊だったのだ。多くの人が思春期に苦悩する“自分とは”という問いかけは自分自身が何の為に生まれたのか、という処に焦点が合っていると思うのだが、恐らく彼女の場合そうではない。彼女にとって“自分とは”という問いかけは正にそのままの意味で“自分とは何なのか”という問いだと思うのだ。其処にはそもそも“自分は人間なのか”という、普通は迷いもしない様な内容も含まれている。彼女は生まれてからずっと、自分とは何なのかを自問自答しているのだろう。その一つの答えが“ドーナツホール”という比喩に行き着いたのだと思う」

 予想以上に込み入った話なのだろうか。単にコーヒータイムのたわいない会話から派生した話題だと思っていたのだが、カガミにとっては深い命題だったのかもしれない。だとしたら、俺の返答が彼女を傷つけていないか不安になった。

 「いや、それは大丈夫だろう。カガミは君と話したその日、いつになく上機嫌だったぞ」

 それなら良いのだが。それにしても、さっきから先生の言う“カガミが特殊な環境に居る”というのはどういう事だろう。

 「あの・・・言い難い事なら言わなくて結構なんですが、そのカガミが置かれた特殊な状態というのは如何いう事なんですか」

 遠回しに訊いても言えない事は言えないだろうし、俺はそもそもあまり口が立つ方ではない。そして十川先生ならば、此方に他意が無いということは十分に伝わる気がしたので、気になることを率直に尋ねてみた。どうやら十川先生はカガミの境遇を知っている様な口振りだった。姉なのだから当たり前なのかもしれないが。

 「特殊というのはだな・・・うむ、今の君に伝えて良いものだろうか・・・」

 いつも歯切れのよい口調の先生が逡巡している。やはり言い難い事だっただろうか。

 「いや、むしろ君には伝えておくべきかもしれないな」

 そう言って先生は何かを決意した表情になり語り始めた。

 「まずは・・・そうだな、脅す訳ではないが、これから話す事は一般論とか常識、或は倫理観といった物からかなり逸脱している。君が不快に思う内容も含まれているだろう。その時は“此れ以上聞きたくない”と伝えてくれ」

 先生の表情は真剣其の物である。先日の醤油騒動の時とはまるで別人である。

 「諒解しました。ただ、僕はカガミがどんな存在だったとしても、彼女を避けたり突き放したり軽蔑したりする様な事はしません。彼女には彼女なりの苦悩が在るだろうし、其れは今の僕も同じです。カガミは自分をドーナツホールだと言った。其れにどんな意味が在るのかは知りません。ですが、僕も現在進行形で記憶喪失です。記憶に穴が在る。別に言葉遊びをしている訳じゃ無くて、その辺りに何か親近感の様な物を感じたんです。それに彼女は僕のお見舞いに来てくれた。そんな彼女がどんな生立ちだろうと、僕の中でのカガミは揺らいだりしません」

 先生は少し驚いたような顔をした。

 「君は・・・まるで私が今から何を話すのか判っている様な口振りだな。君の其の決意は私にとって、そしてカガミにとってとても在り難いことだ。姉として嬉しく思う。私も話すのに躊躇いが無くなったよ」

 先生はそう言って少し安心したように肩の力を抜き、再び真面目な顔付きになった。

 「ではそうだな・・・まず、私が彼女の姉であるというのは、戸籍上の話なのだ。同じ親から生まれた訳では無い。そもそも、私自身、私の親の存在を知らない」

 母親が身篭っている間に父親が何らかの事情で亡くなり、母親も出産と同時に命を落とす。ドラマのような話ではあるが、そういう場合は少なからず在るだろう。先生もそう言った境遇だったのだろうか。

 「いや、そうではない。私は俗に言う試験管ベビーだったのだ。それも身体的に子供を産めない夫婦が生ませた訳ではない。私は単に実験の結果として生まれた人間なのだ」

「実験・・・」

 そんな実験が倫理的に許されるのか。俺は言葉が継げなかった。

 「通常ならば体外受精した卵子は母親、或は代理母の子宮に戻されるのだが、私の場合は子宮に戻さず、受精後の全過程を人工的に行い、人として成長させる実験だったのだ。結果として私は成功例として今まで生き永らえて来たが、私という成功例までの間にかなりの数の受精卵や胎児が犠牲になった」

 「そんな、そんな馬鹿げた実験、誰が何の為に・・・」

  どうしても語尾が掠れてしまう。そんな実験をして誰が得をするのか。

 「何処の世界にも裏側は在る物なのだよ。私自身、何故私だけ命を紡ぎ続けているのか、私の前に命を落として逝った胎児たちに対して自分を責めて生きて来た。そんな数々の命を犠牲にしてまで生み出すほどの価値など私には無い、と。今でもそう思っている。そしてそんな実験を行った連中を憎み続けてきた。何故私を生かしたのか、死を選ぶ権利は無いのかと」

 「自殺を・・・考えた事が有るんですか」

 「有るさ」

 先生は態と素気なく言った。そして、幾度と無く死のうとしたが、実験機関の監視下にあった先生は其れすら許されなかったと言う。

 「苦痛だった。それこそ常に“私は何の為に生まれて来たのか”と自問自答してきた。物心付いた時には既に失語症の様な状態になって、感情の起伏も全く無かった。誰が何を言おうとも私には無関係だと思っていたし、叱られようが罵倒されようが、どこか他人事の様に、恰も自分を遠くから眺める第三者の様に、自分にも他人にも興味が湧かなかった」

 今の先生の飄々とした性格からは想像も付かない。そんな辛く重い過去を過ごして来た人が、どうやってここまで溌剌とした人格を手に入れる事が出来たのか不思議だ。

 「そんな時、私の育ての親を買って出てくれたのが、山本研究室の教授である山本道源先生だ。私が六歳の時から、山本先生は私の面倒を視てくれた。一日中、病室とも研究所とも言えない真っ白な空間で死ぬ事も許されず、絶望を通り越して虚無しか残されていなかった私に人間らしさを与えてくれたのは、他ならぬ山本先生なのだ。此れは後になって聞いた話だが、山本先生は私が生まれる契機(きっかけ)となった実験機関の構成員だったのだそうだ。事実、私が母体無しに命を繋ぎ留められたのは、山本先生の研究成果が大いに貢献した結果だそうだ」

 真っ白な空間。いつか見たような、何も無い空間が俺の脳裏を過(よ)ぎった。

 「しかし先生は私を生み出す実験にだけは強く反対していたらしい。自分の研究に因って、実験の為だけにヒトを創り出す事はしたくないと頑なに主張したそうだ。だが、機関は其れを無視した。機関は山本先生に何の承諾も得ずに実験を強行し、結果多くの失敗を繰り返しながら、やっと成功したのが私だ。それを耳にした山本先生は激昂し、私を連れて機関との縁を切った。私を引き取ったのは恐らく私への罪滅ぼしなのだろう。私を生み出した事について先生に問い詰めた事もあったが、今になって私はそれを後悔している。私が今のように安定した生活を送れているのは偏に山本先生の御蔭だ。今は感謝してもし切れない」

 衝突は有った物の、今は良好な関係に在るのだろう。

 そう言えば、俺は未だ教授の山本道源という人を知らない。

 勿論、記憶を失う前の俺は知っていたのだろう。確か今は出張中だったか。

 「だから私は、遺伝子的に両親に当る人というのは存在するのだが、会った事は無い。今となっては特別会いたいとも思わないが、どうやらその両親に当る人というのは父親母親ともに優れた学者だったそうだ。おそらく実験機関の関係者だと私は睨んでいるが、今更詮索する気にもならない。私は道源先生の下で今の仕事に就けているだけで幸せだ。奇しくも私も学者なんて肩書きを背負っているが、其処は両親からの遺伝かもしれないな」

 先生は自身を嘲笑するような笑みを浮かべた。産みの親、と言うとこの場合御幣が有るのかもしれないが、その遺伝的な親と、育ての親である山本先生は揃って科学者で在り哲学者で在ったのならば、先生は今の職業のサラブレッドである。此れ以上無い程の天職では無かろうか。

 「そうかもしれないな。私が自然に科学や哲学に興味を持ち、今の立場に居るのは必然だったのかもしれない。そして、私が犯した罪もまた私を生み育てた人々と同じなのだ」

 罪?先生は何か罪を犯したのか。何か自責の念が有る様な物言いである。

 「その、罪というのは・・・」

 訊いて良い物か躊躇ったが、訊かなければならない気がした。

 「その罪の結果がカガミの誕生だ。私がそうで在った様に、カガミもまた実験で生み出された人間だ」

 先生は自分を生み出した実験機関を忌み嫌っていたと言った。その機関と同じ罪を先生が犯し、そして生まれたのがカガミだと言うのか。

 「結局、私も道源先生と同じなのだ。私が研究した成果を以て、カガミは誕生した。しかし、私の罪はカガミに対してだけでは無い。もう一人、ハジメという存在がカガミと同時に誕生した。私はその二人に対して罪滅ぼしをしなくてはならない」

 同時に誕生したという事はその二人は双子に当るという事だろうか。

 「見た目だけで言うなら、正しく双子の如く二人はそっくりだ。しかし彼女たちを生み出すに当って用いられた遺伝子情報は私の物なのだ。つまり、彼女たちは私のクローンの様な存在だ」

 カガミが先生の妹と初めて聞いたときは驚いたのだが、其の後特に違和感無くその事実を受け入れられたのは、二人の顔つきが何処と無く似ていたからである。喋り方の雰囲気が余りにも違うので、妹だと言われるまでは全く気がつかなかったのだ。しかし、此処へ来てクローンだという話になると流石に付いて行けない。

 「クローンを作るなんて、其れこそ倫理的にかなり物議を醸す話じゃないですか。しかも研究のためだけに生命を生み出すなんて、そんな事が許されるんですか」

 つい語気を荒げてしまう。クローンに関する研究が齎す医学の進歩は確かに有るだろうし、此れまでの医学の歴史の中には非人道的な実験が幾つも在ったのだろう。

 しかし、時を重ねて進歩したのは医学だけでは無い筈だ。倫理だとか道徳だとか、そういうものも進歩してきた筈だ。その折り合いを無視してまで、クローンを生み出す、況(ま)してクローンの“人間”を生み出す理由が在るのだろうか。

 「そんな理由など有りはしない。優秀な研究者というのは、端から見るとマッドサイエンティストの様な輩が多いのだ。そういう科学者にとって、クローン人間なんてのは只の結果に過ぎない。彼らが本当に突き詰めたいのは“人工的に人を創れるか”という過程の方なのだ。クローン人間は、実験結果としては非常に意味の在る物だが、その人間がどんな人生を歩もうとも、それは科学者の興味の範疇には無いのだ。それこそ倫理の専門家にでも丸投げして、科学者は次のステップに進むだけだ」

 「そんな・・・創るだけ創って後は野となれ山となれなんてそんなこと許されるはずが無い!」

 ついに怒鳴って仕舞った。怒鳴らずには居られなかった。

 「そうだ、そんなこと許されてはならない。だから私は道源先生がそうした様に、カガミを私の手で育てる事にした。もちろんそんな事をして罪の一部でも帳消しになるとは思っていない。しかし、私にはそうするしか無かったのだ。他にカガミにしてやれる事など、私には無かった」

 「ハジメは如何(どう)なんですか。先生はその子についても罪を償っているのですか・・・」

 俺の声は怒りに震えていた。恐らく今の俺は先生の心を抉る様な質問を繰り返している。しかし、これまで俺に良く接してくれた先生だからこそ、何処か裏切られたような気持ちになり、攻撃的な言葉を吐いて仕舞う。此れ以上言ってはならないと、理性は目一杯ブレーキを掛けているが、俺の言葉を止める事は出来なかった。

 「君が怒るのも無理は無い。しかし君ならば此の話を真剣に聞いてくれると思った。カガミやハジメに対しての理解者が増えてくれると思った。だが、初めに言った様に、此れ以上聞きたく無いならば、私は此処で話を止めるよ」

 「いいえ、話して下さい。僕は訊いた筈です。ハジメという子は如何いう存在で、先生は如何いう償いをしているのか、と」

 此処まで来て、顛末を訊かない訳には行かなかった。聞くべきだと思った。

 「ハジメという人間を取出す事が実験の目的だった」

 生出すではなく取出すという表現がより俺の嫌悪感を煽った。しかし敢えてそのような表現をした理由が在る筈だ。この人は嘘を付かない。俺は沈黙を以って話の続きを待つ意思表示をした。

 「我々が良く“何も無い”と表現した場合、日常生活では厳密な意味でそんな状態にはまず出会わない」

 カガミとも似たような話をした。

 部屋の中には何も無い、机の上には何も無いという様に、特定の場所を指して、其処に特別目に付くような物が無い場合、俺たちは“何も無い”という表現をする。そして実際には、其処には空気が在り塵芥があり、ともすれば細菌や微生物の類が居る事だって少なくは無い。

 「少し科学を齧った人ならば“真空”を何も無い状態だと言うかもしれない。しかしその考えも一つの解釈に過ぎない。実際にそれは長い間科学者の間でも議論になった問題なのだ。例えば音は空気を媒質として伝播するから真空中では音は伝播しない。では光は如何か。光は真空中をいとも容易く伝播する。では光は何を媒質としているのか、という議論だ。其処で、かつては光の媒体となる“何か”が真空を満たしていると考えられていた。便宜上其れはエーテル等と呼ばれていたが、かのアインシュタインの特殊相対性理論によって、エーテルの概念を用いずとも光の伝播を説明する事が可能となった。しかしそれは飽く迄も“そう説明すれば辻褄が合う”というだけだ。元々は仮説であった理論があらゆる研究者が種々の検証実験を重ね、その仮説が“正しい”と判断され、仮説は事実に昇華されるのだ。逆を言えば、辻褄が合っていさえすれば、其れが事実と異なっていても気付かれる事が無い、または実用上問題が無いとされれば、それを事実と解釈しても良い訳だ。身近な処で言えば、電流の定義が分かり安い例だろう」

 其れについては俺も疑問に思った覚えが在る。何時の記憶なのかはやはり明瞭としないが、何処か腹落ちしない、腑に落ちないという感覚は今の俺も持っている。

 電流の説明として「電流はプラス極からマイナス極へ流れる」といった文言は教科書にも載っているだろうし、小学校で習う内容だ。

 しかし中学か、或は高校だったかもしれないが、電流の正体は電子の流れであり、その電子は「マイナス極からプラス極へ」流れる。その事実が明らかになって尚、電流は頑に「プラスからマイナスへ」流れ続けているのである。此れは単に電子という観測が容易でない粒子の発見以前から「電流」という現象は発見されており、その際に便宜的にプラス、マイナスという概念を作り「電流はプラスからマイナスへ流れる」と定義した。そしてそれは電子が流れる現象こそが電流であると発見されるまで、辻褄の合わない状態を生み出さなかった。少なくとも実用上は、電流はプラスからマイナスへ流れるという定義に基づいて何かを設計した所で何の問題も起きないのだ。つまり電流とは概念として辻褄が合っていて事実として認定されて仕舞った代物なのだ。電流が「プラスからマイナスへ流れている」様子など誰も見た事が無いのに、それは事実であり一般常識だ。幽霊のような物である。誰も見た事が無いのに其れを信じる人が居る以上、その人にとって幽霊は居る。信ずる人の数から言えば、電流は最も有名な幽霊なのかもしれない。要は解釈の問題なのだ。何の矛盾も生じない仮説は真実と言って仕舞っても誰も困らない。例え其れが事実では無いとしても、だ。

 「科学は厳然と横たわる事実を探求している様に見えて、実は人間の解釈に拠る処が殊の外多いのだ。極端な事を言えば、数字でさえ人間が生み出した概念に過ぎない。誰も0や1なんて物を手に取った事は無い。そこには属性が在るだけだ。その属性を帯びた道具を用いると、様々な事象が解り易く説明出来るからという理由で世の中に蔓延っているのだ。そして事実に昇華された数式は定理だとか公理だとか呼ばれる様になり、誰も其れを疑う事は無くなって仕舞う。

 そこへ来て未だに自然科学の中でも“解釈”という言葉で説明される物理学がある」

 「量子論ですか」

 自然と相槌を打って仕舞った。俺の頭の中で猫がミャーと不適に啼いた。この猫は生きているのか、死んでいるのか。

 「そうだ。その有名な物に“コペンハーゲン解釈”がある。君は永子君とシュレディンガーの猫について話したそうだな」

 やはりこの猫はその手の話には付き物の様だ。永子と話をして以来俺の頭に住み着いた

 生死すら定かでないこの猫は、最早“憑き物”と言っても良い化け猫である。

 「コペンハーゲン解釈はシュレディンガーの猫の様な“生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない”という一見曖昧な常状況を“二つの状態が重なって存在する”と解釈する。そして其の重なり合った状態は観測に依って生きているか死んでいるかのどちらかに収束するという考え方だ。曖昧な常態は曖昧なまま存在しているが、誰かが其れを観測した時に“生きていて且つ死んでいる猫”なんて物は誰も見つけられないという事だ。此れは、我々が日常生活で出くわす“○○かもしれない”という状況に対してはそれ程違和感が無い。一方で其れが科学の話となると、途端にその曖昧さを排除しようという派閥が現れる訳だ。長い歴史の中で“確率”や“統計学”は数学を多用し、経済学やギャンブルといった場面で人間の生活を潤して来たにも関わらず、物理現象を説明する際には用いられ無かったのだ。物理学ではルーレットの玉がどの数字に止まるかを割り出す際に、確率を用いない。ルーレットの回転速度と玉の初速、玉とルーレット盤の摩擦云々を全て考慮すれば、玉は確率的に何処かの数字に止るのでは無く“確実にこの数字に止る”と割り出せると唱え続けて来たからだ。つまり“必要十分な条件が与えられれば、曖昧な常態などこの世には無く、全てが一義的に決定される”というのが物理学の立場だったのだ。その根は深く、未だに“コペンハーゲンの公理”ではなく“コペンハーゲン解釈”と呼ばれているのは、量子論がそう言った確率論的な側面を守っているからだと私は思う」

 前に永子と話した時にも言ったが、人間の観測など無くとも猫は生きているか死んでいるかのどちらかであるのは明白だ。しかし其れは、猫自身を除けば誰か第三者が観測するまでは可能性という曖昧な箱の中に身を潜めている。その意味では“解釈”という表現は適当だと思う。

 「君の言う通りだ。シュレディンガーの猫が可能性の檻に囚われている様に、コペンハーゲン解釈も“解釈”という檻に囚われている。だからコペンハーゲン解釈は、現象を決定する際に“観測”が必須であるとは言及していない。結局誰もが“見てみる迄は解らない”という至極単純な事を小難しく唱えているのだ。まぁ、一つ言えるのは、量子論の分野に於いては其の“見てみる”行為其の物が難しいから、小難しく成らざるを得ない側面が有るのは事実だが」

 此処迄来て、此の話がカガミの出生と如何繋がるのか、俺は判らなくなっていた。いや、本当はもっと前から話の道筋を見失っていたのだが、此の先生に限って無駄話でお茶を濁す事はしないだろう。量子論を取り巻く事実と解釈に纏わる話は、少なからずカガミ、そしてハジメに関連する話である筈だ。

 「その“解釈”を巡る話がカガミを生み出したと言うんですか」

 記憶を失って自分がどんな性格なのかも判らなくなっていたが、如何やら俺は疑問に思うと口に出して仕舞う性質(たち)らしい。

 「ん・・・あぁ、そうだな。少し遠回りをして仕舞ったかもしれないが、今迄話をした“解釈”は“事実”と見做しても矛盾を生じないとされている理論だ。勿論、後世になってアインシュタインがニュートン力学を上書きした様に、一見矛盾を生じていない様に見える理論も、突き詰めて行くと説明できない事象が現れたり、其れを補完すべく新理論が唱えられる事例は多く在る。理論が先に提唱され、実験によって其れが事実として認定される場合だ。科学者は時として予言者に成り得る。


 カガミはその予言を事実に昇華させる実験に因って生まれた。


 最初に言ったが、科学的に表現するならばカガミは“取出された”のだ。勘違いしないで欲しいのだが、此れは決してカガミをモノとして扱うという差別的な意味では無い。私としても“取出した”等という表現は使いたくない。しかし、カガミの出生を語る上で、この表現は避けて通れないと思って欲しい」

 俺が最初に抱いた嫌悪感を無理やり飲み込んだ様に、矢張り先生も自ら「罪」と語った実験について嫌悪感を抱いているのだろう。

 「解りました。其の表現に嫌悪感を抱いていたのは僕だけでは無かった様です」

 「感謝する。本来なら此処で拒絶されても仕様が無い話なのは私自身、十分に承知している。でも、一之瀬君ならば最後まで聞いてくれるのではないか、カガミの良き理解者に成ってくれるのではないかと・・・いや、此れは私の勝手な言い分だな。本当は私が楽になりたいだけなのかもしれない。君への甘えだ。そんな事で許される筈も無いのに、私は私の罪を曝け出す相手が欲しいだけなのかもしれない・・・」

 そんな事ならお安い御用だ。話を聞くだけなら幾らでも聞く。カガミの態度から察する以上、カガミは先生を恨んでなどいない。先生がカガミに対して強い罪悪感を抱いているのは確かだろう。しかしカガミは先生に対して負の感情を持っているとは思えない。

 「話なら幾らでも聞きます。そして先生が感じている“罪”を僕が許せるかどうかは最後まで話を聞いてから決めます」

 「それで良い。何度も言うが誰かに許しを請うつもりは無い。私は生涯を掛けてカガミに償い続けるつもりだ」

 俺は先生とカガミの間に、彼女ら二人がお互いに抱いている思いに温度差を感じている。其れを含めて最後まで話を聞く決心をした。先生から話を聞いた後、俺はカガミともう一度話をしなくてはならないだろう。

 「カガミは自分をドーナツホールと表現したと言ったな」

 カガミは確かにそう言った。聞いた瞬間は意味を把握できずイマイチ繋がりが希薄だった比喩も、今となっては其処に深い意味が在るであろう亊が推察できる。きっとカガミは自分がどの様にしてこの世に生を受けたのかを理解している。それを踏まえた上で、自身を“ドーナツホール”と表したのだろう。

 「比喩を比喩で補足する形になって仕舞うが、私を含め当時のハジメやカガミを生み出す契機となった一連の実験は通称WD計画と呼ばれていた。WDとは二つのDという意味で、一つ目は“ディラックの海”のD,二つ目は“ドッペルゲンガー”のDだ」

 ディラックの海は聞いた亊が無い単語だが、ドッペルゲンガーは耳にした亊の有る単語だった。

 「ドッペルゲンガーというのは、よく似た人物が同一時刻に別の場所で目撃されるとか、自分に瓜二つの人間が存在するとか、その瓜二つの人間に会うと近く其の人物は死んで仕舞うとか言う、あのドッペルゲンガーですか?」

 記憶喪失なのが不思議な程、俺の脳にはドッペルゲンガーについての情報が詰まっていた。どれも都市伝説の域を出ない、胡散臭い物ばかりだが。

 「まぁ、俗に言うドッペルゲンガーは今君が言った様な物だな。その一般的なドッペルゲンガーの属性が、実験の結果生み出されるであろうと予測される二人のヒトの属性に似ている亊から、その名を拝借した訳だ」

 「それがカガミとハジメですか」

 話の流れからして、此れは間違いないだろう。

 「そうだ。“カガミはハジメの、そしてハジメはカガミのドッペルゲンガーである”と喩えると、世俗で語られるドッペルゲンガーの属性と非常に良く似ているのだ。何処の誰が命名したのか知らないが、何れにせよ趣味の良いネーミングでは無いな」

 其れは俺もそう思う。俺の知るドッペルゲンガーはどれも不気味な印象だ。

 カガミがその不気味なお化けだとは思えない。

 「もう一つのD,ディラックの海というのは何です?今までの話から察するに、カスピ海の様な何処かの地名では無いのでしょう?」

 そう言えば聞いていなかったが、コペンハーゲンは地名だったか。そうすると地名という場合も無きにしも非ずか。

 「ディラックは人名だ。ディラックは量子論と相対性理論の折り合いを付けようとした時に“ディラックの海”という概念を生み出した。後にこのディラックの海という概念は見直される亊になるのだが、それも矢張り“解釈”の問題なのだ。ディラックの海という概念では真空は何も無い状態ではなく“負のエネルギーの電子が充填された状態である”と説明される。感覚的に捕らえようとするならば、仮に“ゼロ”を“何も無い”と定義した時、其処には負のエネルギーが蓄積して“ゼロ”の状態になり、見た目には何もない様に見えると考える事も出来る、というイメージだろうか。アナログな温度計が摂氏ゼロ度を示していても、その下にはマイナスのメモリが刻んであって、そこまでは赤い液体が満たされているだろう?つまり気温はゼロなのだが、温度計の負の部分は液体で満たされている。かなり稚拙な喩えだが、まぁ、今はその程度の理解で良いだろう。真空を満たしているのはエーテルではなく、負のエネルギーの電子であり、それ故マイナスは観測されずゼロ、即ち何も無い状態が構築されているという考え方だ」

 何も無い海。伽藍堂の空間。其処に充ちている物。まるで今の俺だ。記憶喪失の脳は空の様でいて、実は記憶をちゃんと格納している。取出せないだけだ。記憶を失ってからこの方、空虚感は常に俺の背中にピタリとくっ付いている。それなのに、時折垣間見る記憶の断片。何時の間にか棲み付いた猫。俺の頭は空っぽに見えて、その実見えない何かで埋め尽くされているのかもしれない。そう言えば、カガミと初めて話した時、彼女は「量子論の本には“真空にも何かが詰まっている”と書いてあった」と言っていた。其れはこのディラックの海を指していたのかもしれない。

 「ディラックの海はゼロの状態だが、其処から電子を一つ取出すと、マイナスが一つ欠落してプラスの状態が現れる。海に穿たれた孔の様な物だ。単純な数式で考えるならば

 0-(-1) = +1

 という状態だ。此の+1という属性を帯びた孔は、実際には電子の反物質である陽電子という形で観測される」

 無から有を生み出す。それは不可能な亊だと思っていた。其れも解釈に過ぎないのか。

 「先生がカガミやハジメを取出したと表現したのはつまり・・・」

 カガミと話した時、彼女は“何も無い”の定義を求めていた。そして自分をドーナツホールだと言った。カガミの発言が、自分の境遇を理解した上での発言であるならば、それは先生が言う様に彼女は常に“自分は何者なのか”という問題に向き合っていた亊になる。其処へ来て、カガミ出生の契機となった実験。

 ドッペルゲンガーとディラックの海の名を冠するWD計画。俺の中で一連の話が繋がりを持った。

 「恐らく、今君の考えていることはほぼ正しい」

 認めたくないと思っていた俺の思考は、口にする前に無常にも肯定されて仕舞った。

 「カガミは、いや、WD計画の本来の目的はハジメを生み出す亊だったのだが、その際にカガミの誕生も予測はされていた。但し其れが本当にヒトの形として結実するか如何かは、カガミ以前にハジメすらも“実験して見なくては解らない”という状況だった」

 対生成という言葉を聞いた事が有るか、と先生は尋ねた。俺は有りませんと答えた。

 「ディラックの海の様に、一見何も無い状態に見える場所でもエネルギーが存在していれば、粒子の対生成と対消滅が極短時間の間で繰り返されていると考えられている。対生成というのは、プラスマイナスという属性は間逆だが、それ以外の質量やスピンといった性質を同じくする粒子が同時に生成する事だ。其の様な粒子を互いの反粒子、又は反物質と呼ぶ。例えば電子の反粒子として陽電子が知られている。逆にこの反粒子同士が出会うと、特定の電磁波を出して消滅する。此れを対消滅と呼ぶ。

 WD計画は粒子ではなくヒトの形で対生成を行う事を目的としていた。つまり、真空状態に非常に高いエネルギーを与える事で、ヒトを取出そうという趣旨の実験だ。故に“ヒト”と“ヒトと相反する性質のモノ”が生成される事が予測された」

 駄目だ。考えるな。俺の考えが正しいとするならば、カガミは五十%の確率でヒトでは無い。この箱を開けては駄目だ。結果が収束して仕舞う。残り五十%の確率でカガミはヒトであるかも知れない。しかし、カガミとハジメという馬鹿馬鹿しい程に安易なネーミングが意味する事は・・・


 「ハジメは”ヒト“。カガミは”ヒトの反物質”だ」

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