09 モノローグ
科学者達は何も無い処からあの娘(こ)を取出した。
そして何も無い処にはあの娘の形をした孔が穿たれた。
取出されたあの娘には「ハジメ」という名前が与えられた。
穿たれた孔には「カガミ」という名前が与えられた。
「元(はじめ)」と「鏡」
それがわたしとあの娘の関係だ。
外見はそっくり同じなのに、わたし達を構成している要素は何もかもが正反対だ。
所詮、わたしはあの娘を取出した時の副産物に過ぎない。
写真のネガのようなものだ。
あの娘にはとても儚い命が宿った。
あの娘は一向に目を覚まさない。
生まれてから一度も、あの薄暗い部屋の大きな水槽から出て来ない。
今あの娘は何を思い、何を考えているのか。
わたしと出会ったら、あの娘は何と言うだろうか。
双子のように、親しくしてくれるだろうか。
それとも、自分のネガを見て、気味悪く思うだろうか。
そして、わたしは。
わたしはあの娘と話したとき、どういう感情を持つだろうか。
姉妹愛のような微笑ましい感情が芽生えるだろうか。
それとも、ネガであるわたしは本物であるあの娘を妬み、憎むだろうか。
本物であるあの娘はとても弱弱しく命を繋いでいるのに、わたしは到って普通だ。
他の多くの人々と同じように暮らし、同じように喜怒哀楽を習得した。
いや、普通ではないのか。
何時か何処かで誰かが言っていた。
「普通の人など居ないのだ」と。
多くの人がそうである状態を人々は普通と呼び、そうでなければ異常と呼ぶ。
でもそれは遍く平均値を示しているだけなのだ。
個性を全て押し殺し、自分を表すステータスが全て平均値の人など、この世には居ない。
誰もが何処か異常であり、その状態こそが唯一普通のことなのだ。
だからわたしは普通では無い。
ハジメが人間ならば、わたしは人間と正反対の生物だ。
わたしは一体何者なのだろう。そしてあの娘は誰なんだろう。
あの娘と話をしてみたい。
そして、わたし達は何者なのかを確かめたい。
あの娘が生まれたからわたしが生まれた。
それだけはわたしにとっての真実だ。
あの娘が居なければ、わたしはこの世に飛び出してくる事など無かったのだから。
でも。
きっとあの娘とわたしは触れ合う事が出来ないだろう。
あの娘が取出された痕に残った孔がわたしなのだ。
わたしはドーナツホールのような物なのだ。
何も無い部分であるわたしが実体を伴っている事が、既に異常なのだ。
そんなわたしがあの娘と出会ってしまったら。
わたしはあの娘と共に消えてしまうだろう。
元々何も無い所から取出された二人なのだ。
出会えばお互いを埋め合い、また無に還るだけなのだ。
何事も無かったかの様に、其処には静寂が残るだけなのだ。
だからわたしはわたしだけを消して仕舞おうと思った。
わたしが消えて仕舞えば、わたしと反応してあの娘が消えて仕舞う事は無い。
会話もしたことが無いのに、何故かわたしはあの娘に消えて欲しく無かったのだ。
わたしが消えた瞬間に、あの娘が目覚めるような気がして。
わたしの持つ魂と呼ばれる物が、あの娘に宿るような気がして。
だからわたしは屋上に登った。
死んで仕舞うという事が、わたしには良く解らなかった。
空を眺めるとカラスが数羽飛んでいた。
彼らは彼らの目的で、今あの場所を飛んでいるのだろう。
生きる為に、死なない為に。
人は良く「死にたくない」と口にする。
それはカラスも同じなのだろう。
でも、何故死にたくないのだろう。
世の中には色々な生命で溢れ返っている。
そのどれもが死ぬことを良しとせず、生きることに必死になっている。
「死」という事象は生命にとって無条件に「恐怖」の対象と成る物なのか。
そう仕組んだのは誰なのか。
例えば其れは脊髄反射という反応にも表れている。
高温の物体に不意に手を触れてしまった時、人は瞬時に手を離す。
この時、手を高温の物体から離すという行動は、脳を介さずに行われる。
即ち、通常人間が行動の基準としている脳の判断を無視して仕舞っている。
これは触覚からの「熱い」という信号が、脳を経由していては火傷を負うからだ。
だからこの信号は脳まで届かず、脊髄でUターンして手の筋肉を動かし身を守る。
此れは全て、生命の危機を回避する為の防衛本能である。
自らの命を守るための行動は、脳からの愚鈍な指令など待っていられないのだ。
それなら。
人は何故こんなにも苦悩するのだろう。
命を繋ぐだけならば、脳など必要ないのだ。
むしろ脳が発達して仕舞ったせいで、時として人は自らの命を断つ決断を下す。
わたしは、その心境を知りたかった。
ヒトという生物が欲した知恵の実とも言うべき大脳が時に死を選ぶ理由。
死なない為に発達したとは言い難い、淘汰されても不思議でないヒトの思考。
死んでしまえばそれが分かるのかも知れないと思った。
「死後の世界」という、取り留めの無い事を飽きもせず人々は話の種にする。
それはとても真面目なものから、時にはお笑い種にもならない陳腐なものまで。
そんなものは、死んで見なくては分からないのに。
「一度死んで、死後の世界を垣間見て戻ってきた」という人も居る。
しかしそれを信じるに足る根拠を示すことは出来ないのだ。
人がいくら信じようと、我々が獲得した大脳は世界などいくらでも紡げて仕舞う。
世界中の宗教が死後の世界を唱えている。
SF作品やファンタジー小説など、現実世界では起き得ない世界だ。
そんな経験なんて到底出来そうも無い事でさえ、ヒトは簡単に想像してしまう。
「死後の世界」なんてものは精精その程度なんだと思う。
だから、本当にそれを確かめる為には、死んで見るしかないと思った。
そこで気付いて仕舞った。
結局わたしも大脳の導きによって「死」を選択する結論に至ってしまった事に。
カラスを眺めてそんな事を考えていたら、急にわたしを呼ぶ声がした。
見知らぬ人が汗だくで息を切らせながら何か言っている。
・・・どうやらわたしに「死ぬな」と言いたいらしい。
彼はカゲリという名前で記憶喪失なのだそうだ。
記憶を失っているにも関わらず、やはり彼も「死」を良しとはしてくれない様だ。
でも彼は
「どうせいずれは死ぬんだから、死後のことはその時考えれば良い」
と言った。
どうやら、この人はわたしとかなり違う死生観を持っている様だ。
そう思った途端、この人ともっと話をしてみたいと思った。
そしてわたしは思考が偏っている事に気が付いた。
確かに「死後の世界」は死んで見なければ分からない。
でも、死んで仕舞えば生きている間にしか知る事の出来ない事を見逃してしまう。
わたしはあの娘の鏡だけれど。本物では無いかもしれないけれど。
それでも、生きている。
そしてわたしは生を受けたこの世界について、まだ何も知らない。
それなのに「死」についてばかり考えていた。
知ることの出来ない世界だから「死」は時に蠱惑的なのかもしれない。
でも、生きているから出来る事、知れる事、考えられる事が在る筈だ。
現にわたしは、ついさっき会ったばかりの彼から既に多くの発見をしている。
だからカゲリの言う様に、死後のことは死んで仕舞ってから考えることにしよう。
お姉ちゃんもわたしが死ぬと悲しいと言ってくれた。
わたしはそんな事にも気付けていなかったのだ。
お姉ちゃんが死んだら、わたしはとても悲しいと容易に想像出来ていたのに。
自分の死後の世界は自分だけの物ではなかったのだ。
わたしが死ねば、遺された側にもわたしが死んだ後の世界が続いて行くのだ。
あの娘がどう思っているかは判らないけれど。
直接話をすることは永遠に叶わないかもしれないけれど。
それでもわたしは生きることを選ぶことにした。
せめてお姉ちゃんとカゲリが居てくれる間は。
わたしの死を悲しんでくれる人がいる間は。
今度会うときはカゲリにドーナツについて尋ねてみよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます