08 平面と球

 カガミは午後から用事があるらしく、十二時前に病室を後にした。

 先日自殺未遂を犯したというのに、実にさっぱりとしている。いや、其れは俺の一方的な印象に過ぎず、彼女には彼女なりに悩みが有るのかもしれない。さっきのドーナツの話でもそうだが、彼女は普通なら気にならない様な事でも、深く考え込んで仕舞う性質なのかもしれない。彼女が先天的にそういう性格なのか、十川先生との生活に於てそういう性質を獲得したのかは分からないが、彼女は哲学的だ。自殺という方向にさえ考えが及ばなければ、優秀な哲学者、或は心理学者に成れる素質を持っているのではないだろうか。記憶喪失の大学生がそんな偉そうな事をいえる立場では無いのだろうけれど。

 そんな事を考えながら昼食を食べ終え、暇なので読書でもしようかと思っていた処へ、斉藤と永子が二人して病室にやって来た。

 「どうだ、少しは記憶が戻ったか?」

 例によって斉藤は俺の着替えを持って来てくれており、洗濯籠へ投げっ放しの俺の洗濯物をビニール袋に回収した。

 「いや、特に此れといって思い出した事は無いな・・・ただ、無意識に思い出している部分は多少有るみたいなんだ」

 例えば看護師に咄嗟に自分の平熱を伝えたり、後は・・・カガミを屋上に見つけた時に、何か思い出しかけた様な気がしたのだが、結局思い出せず仕舞いだ。

 「あ、カガミちゃんに会ったんだ。私も最近知り合ったの。十川先生を訪ねて研究室に来てた処へ居合わせたの。あの子可愛いよね~。ちょっと不思議な感じだけど」

 其れに関しては同感である。ただ、俺としては永子も変わり者の部類だと思うのだが。

 「そうか?永子も変わってると思うぞ」

 どうやら斉藤もそう思っていた様だ。俺が同意すると永子は「そんなことないよー」と拗ねた様な顔をした。

 「いやまぁ、うちの研究室に居ると普通の奴でも色々と考える様になるからな。そういう意味では俺もお前も大差ないのかもな。記憶を失う前の影利も不思議な奴だったしな」

 俺も同類だったのか。名誉なのか不名誉なのか判じ兼ねる評価である。

 「俺は高校は文系で、其処からこの学部に入ったからな。理系出身のお前の話はなかなか面白い話が多かったよ。未だに答まで辿り着けてない話も幾つかあるしな」

 果たして俺はどんな話を斉藤にしたのだろう。記憶恢復の一助になるかもしれないと思い、俺が斉藤にどんな話をしたのか尋ねてみた。

 「そうだな、例えば“平面と球”の話とか」

 確かに数学的な響きである。“数式Aで示される平面と数式Bで示される球の接点を求めなさい”なんて問題は如何にも高校数学で習いそうな内容である。

 「そう、理系だとそういう問題まで解くみたいだな。で、まあ平面と球が接するという状態は、数学で扱う座標の一点で接する訳だ」

 「それはそうでしょう?私も文系だったけど、それは想像付くわ。要はボールが地面に乗っかってる様な状態でしょ?」

 永子が相槌を打った。どうやら永子には初耳の話題らしい。

 「イメージとしては其の通りだ。でも一之瀬が疑問に思ったのは球と平面が一点で接するって処なんだ」

 俺が話した事なのに、話が見えない。

 「そもそも、数学で扱う“点”つーのは、広がりを持たない物だろ?」

 「そう・・・だな。点には面積は無い。便宜上、座標軸をノートに書いて点を黒丸で描いたり、二次曲線を描いたりするが、厳密には点に面積は無いし、線にも幅は無い」

 永子の顔には「其の手の話は苦手です」と書いてあった。

 「いや、そんなに難しく考えなくても良いんだよ。例えばx軸とy軸の交点、つまり原点を黒丸で描くとするだろ?でもそれは飽く迄も便宜上なんだ。その黒丸をどんどん拡大してみると、黒丸の左端と右端では座標が違うだろ?つまり、視覚的に判り易くする為に、目に見える形で点を描くけれど、本来は数学で扱う“点”というのは面積を持たない物なんだよ」

 これは俺でも説明出来た。何処の誰が教えてくれたのかは思い出せないが、俺の頭の辞書にはそう記載されていた。

 「うーん、まぁ、何となく解ったかな。面積があるって事はその端っこ同士は違う座標って事だよね?だから、本当に点を表そうと思ったら、点を鉛筆で描いちゃいけないし、座標軸も幅の有る線が引けないってことよね」

 表そうとすると表せないっていうのも面倒な話ね、と言いながら、永子はやはり数学に対する苦手意識の拭えない顔をした。

 しかし、俺の方はここまでの話で、記憶を失う前の自分が疑問に思った事が推測出来た。

 「俺が斉藤に訊いたのは“面積の無い筈の点で球と平面が接する状態とは如何なる状態か”という疑問か?」

 「何だ、思い出したのか?」

 思い出した訳ではない。同じ人間の考える事だ。過去の自分の思考をトレースするように、たった今俺が同じ疑問を抱いただけだ。

 「そうか、記憶を取り戻したのかと思ったんだが、糠喜びだったな。でも、その推測は正解だ。正に同じ疑問を俺は記憶を失う前のお前に投げ掛けられたんだ」

 確かに疑問だ。接点というからには球と平面は接しているのだろう。接しているという状態は、通常は面積を伴うものである。

 しかし、数学で用いる“点で接する”という表現は、その短い表現の中に矛盾を含んでいる様に思える。接触面積が0ならば、通常の感覚ならばそれは触れていない状態だ。にも拘らず、数学では極普通に「接触面積0で触れる」事が許されている。

 例えば、本当に完璧に平面な地面の上に、完璧な球体を乗せたら、その球体は地面に触れているのか触れていないのか。

 さらに言えば、もし其の球体に重量が在ったならば、接点での圧力は如何なるのか。圧力は“重量÷面積”だ。そして数学はその面積が0だと宣う。一方で数学は割る数、分数で言うなら分母に当る数に0を置く事をタブーとしている。何故ならば、分母が0という状態は明瞭とした定義が出来ないからだ。

 例えば

 x^2=x ・・・式①

 という二次方程式①を解く場合、通常ならば

 x^2-x=0 → x(x-1)=0

 と変形して、x=0,1 という解を得る。

 しかし、式①の両辺をxで割ると

 x=1

 となり、x=0 という解は得られない。此れは x=0 という解が在るにも関わらず、両辺をxで割る、つまり0で割るという作業を行って仕舞ったからである。

 此れは一例に過ぎないが、数学では“0で割る”或は“分母に0を置く”行為は不都合な場合が多々発生するのである。

 つまり数学は“球と平面は面積0で接するが、その接触点での圧力は求めるべからず”と言っているのだ。何とも理不尽である。物理学と数学は仲の良いジャンルだと思っていたのだが。

 「結局、俺も未だに良く解ってないんだが、工業分野では球と平面の接触面積を求める数式がちゃんと在るんだ。まぁ、そりゃそうだよな。“この板がどの程度の重量の球体を支えられるか”なんて話は設計分野じゃ頻出だろうし、其の時に“分母が0なので解りません”じゃあ、話にならないからな」

 先の永子の話ではないが、地面に置いたボールは確実にある面積を以て地面に接している。そして其れは、ボールの大きさが大きいほど、接触面積も大きくなるであろう事は、誰しもが感覚的に理解している事だろう。

 「で、その工業で使う数式はどうやって接触面積を求めてるんだ?」

 数学的には0で在る物にどうやって値を付与しているのか。

 「ヘルツの応力というらしいんだがな。其の式には物性値が入っている」

 えらくあっさりした返答だった。物性値とはその物質固有の性質を示す値の事である。

 例えば水の沸点は100度だが、エタノールの沸点は約78度といった様な、物質によって異なる値を“水の物性値”とか“エタノールの物性値”と表現する。此れは沸点に限らず、融点や密度、比熱、硬度等々も物性値である。

 「つまり、工業的な視点で見ると“歪まない物質”なんて物は無い訳だ。ある材質の平面の板にある重量の球を乗せると、どんな板でも少なからず歪む。そこで接触面積が生じる。接触面積が生じれば、その面積と球の重量から圧力が求まる。工業的には目出度し目出度しだ。実用的な分野では必ずしも厳密な数学は役に立たないって事だな。近似式やら経験式を駆使してモノ作りってのは成立してる訳だ」

 そういうことか。まぁ、それは納得できる話だ。そもそも完全な平面、完全な球体なんてものを工業は想定しない。ゴム板に鉄球を乗せればゴム板は沈み込み、ゴム板の反発力と球の重量が釣り合った所で球が保持されるだけだ。

 「つまり頭の中では想定出来るけど、実際にはそんな物は無いから考えるだけ無駄ってこと?」

 永子が実も蓋も無い事を言った。

 「それを考えるのが山研なんだよ」

 斉藤はニヤリと笑った。

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