07 ドーナツホール
厭な汗をかいて目が覚めた。昨日階段を駆け上がった時にかいた汗とは明らかに別種の汗である。
汗が冷え、布団の中だというのに肌寒さを感じる。
いや、この肌寒さはさっきまで見ていた夢のせいなのかもしれない。
しかし夢というのは、其のほとんどがそうであるように、起きた途端にその内容を忘れて仕舞う物である。今回もそうだった。とても厭な夢だったという事だけは覚えている。この汗は夢の記憶よりも確かに、その夢が悪夢だったことを物語っている。
時計を見ると午前七時を差している。病院の起床時間は午前六時であり、その時刻に院内放送が流れ起床を促されるのだが、俺はそれに気づかず一時間程寝過ごした様だ。そろそろ朝食の運ばれてくる時刻である。どうにも汗が気持ち悪いので、俺はタオルで身体を拭き、下着を着替えた。
朝食を運んできた看護師に「顔色が悪い」と言われ、体温を測った。三七度三分。俺は元々平熱が高いので、微熱といったところだ。看護師が念のため今日はあまり出歩かず、安静にするようにと言って病室を去った。
・・・平熱が高い?
俺は自身の事を忘れている。しかし、実に無意識的に俺は「平熱が高い」と看護師に伝えた。記憶が戻りつつあるのだろうか。そう思うと、微熱特有の倦怠感は有るものの、気分的には少し楽になった。悪夢のことも、さして気にするようなことでも無いように思えて来た。食欲はあまり無かったが、朝食も完食した。
朝食を終えて一息ついた頃、カガミが病室にやって来た。
「おう、よく来たな。あれ?学校は?」
「今日は土曜日」
そうか、今日は土曜日か。入院してからと言うもの、生活リズムは病院に管理されているが、病院生活自体は単調なので、曜日の感覚が鈍っていた。それにしても、まだ朝も早いというのにカガミが見舞いに来てくれたのは少し嬉しかった。
「またカゲリとお話がしたかった。迷惑?」
カガミは不安そうにそう尋ねた。勿論そんな事は無い。
「全然。いつでも来てくれて構わない。入院生活は暇でしょうがないからな」
カガミは安堵の表情で微笑みを浮かべ「これ、お見舞い」といって紙箱に入ったドーナツを手渡してくれた。中には種類の違うドーナツが五つ入っていた。
「ありがとう。結構高かっただろう?お金払うよ」
「そういうのはヤボって言うんだよ、カゲリ。しかもお姉ちゃんにお金は貰ったし。だから、わたしのも買った」
意外とちゃっかりしている。俺は相変わらず食欲は無かったが、食後と言うのは甘い物が食べたくなるものである。さらに言えば、ここで食べないのはそれこそ野暮だろう。見るとカガミは既に自分が食べたいドーナツを手に取っている。俺が食べなければカガミも遠慮してしまうかもしれない。
残り四つのドーナツのうち、俺は一番プレーンなドーナツを選んだ。ついでに十川先生の持ってきてくれた珈琲も淹れた。カガミはブラック珈琲は苦手だが、砂糖とミルクを入れると飲めるそうだ。見ればスティックの砂糖を二本も入れている。
「甘いのが好き。あと珈琲は薫りも好き」
薫りに関しては同感である。何故か珈琲の薫りは俺を落着いた気分にさせてくれる。
俺達はドーナツと珈琲で少し早めのティータイムを始めた。
「カゲリはドーナツの穴って食べたことある?」
唐突にカガミが話しかけてきた。流石は十川先生の妹、いきなり意味深な質問である。
「それは・・・例えばドーナツを作るときに円盤の生地から繰り抜かれた部分を食べたことがあるか?っていう質問か?」
恐らくそういう質問では無いだろうと思ったが、一応確認した。
「違う。そういう意味じゃない。例えば、今此処にあるドーナツの穴を、カゲリは食べることが出来る?」
矢張りそういう類の質問だったか。俺を見舞う人間はこの手の話が好きなのだろうか。俺は好きなので一向に構わないが。
「うーん、ドーナツ一個を全部一口で食べられたなら、それは穴ごと全部食べたことになるのか・・・?。でも俺の口の大きさじゃそれは出来ないから、どうしても途中で穴が外と繋がってC字になるな。その時点でドーナツの穴は穴じゃ無くなるから、多分俺はこのドーナツの穴を食べる事は出来ないな」
自分でも思うが、何とも微妙な回答である。
「それならカゲリは、小さいドーナツなら一口で穴ごと食べちゃうね。じゃあ、ドーナツの穴だけを食べることはできる?」
だいぶ難易度が高くなってきた。ドーナツの穴だけとなると、もっと厳密にドーナツの穴の定義を決めなくてはならないのではないだろうか。そもそもドーナツの「穴」と表現した場合、それはドーナツの円環形状によって囲まれた空間の名称であって、要は何も無い所に名前を付けているに過ぎない。数字のゼロの様なものだ。どうでも良いが、数字のゼロもドーナツのような形をしている。
「例えば“此処にゼロ個の林檎が在ります。どうぞ召し上がれ”と言われても、林檎を食べる事は出来ないよな。此処には何も無いんだから。それと同じじゃないかな。ドーナツの穴っていうのは、ドーナツに囲まれた何も無い部分に名前を付けている訳で・・・」
「“何も無い”の定義は何?空洞?それとも真空?この間読んだ本には“真空も本当は何かがみっしり詰まっている”みたいな事が書いてあった。確か量子論の本。難しくてまだ全部は読めていないんだけど・・・」
量子論、言葉は聞いたことがあるが、内容は詳しく知らない。確か、先日の永子との会話で話題となったシュレディンガーの猫も、元は量子論に関する話だったか。
「そう、シュレディンガーは物理学者の名前」
“何も無い”の定義か。先ほどの俺の説明では“ドーナツの穴”イコール“ゼロ個の林檎”と言うことになってしまうだろう。そもそも、林檎がゼロ個在るという状態は、文法上は特に問題がないが、「元々其処には幾つかの林檎があり、その状態から林檎が減って行き無くなった」というニュアンスを想起させる。此れは、言葉が放たれた瞬間から遡った過去を聞き手に連想させる事に外ならない。一方で「其処にドーナツの穴が在る」という文章は、林檎ほど連想が付いて回らない。何故ならば、ドーナツの穴というのは元々何も無い部分であるからだ。ドーナツを食べて穴だけを残したという状況はなかなか想像出来ない。つまり、何も乗っていないテーブルを見せられて、「ゼロ個の林檎が在る」と言われるのと「此処にドーナツの穴がある」という表現では、同じ何も乗っていないテーブルを指しているにも関わらず、聞き手の印象は大きく変わるのだ。
「ドーナツの穴っていうのは、ドーナツと表裏一体なものなんじゃないかな。確かにドーナツの穴と表現した場合、それは穴の部分だけを指し示した言葉だけど、それは其処にドーナツが在って初めて成立する言葉だ。つまり、ドーナツの穴っていうのは何も無い部分に名前を付けているけれど、それは何かが在って、それに対して無いことを主張してるんじゃないか?。上手く表現出来ないけれど、穴が無いとドーナツらしくないというか、穴が在るからこそドーナツはドーナツとして成り立って居るというか・・・」
ドーナツの穴はドーナツのアイデンティティ足り得る物ではないだろうか。因みに、穴が無いドーナツというのも在ることは知っていたが、此れもまた野暮な話だろう。「ドーナツの絵を描け」と言われて穴の無いドーナツを描く人はほとんど居ないだろう。それくらい、ドーナツの穴はドーナツを象徴している。
「何も無い空間だけれど、それがドーナツらしさを象徴してる・・・確かに、わたしもそう思う」
俺の返答は「ドーナツの穴を食べられるか」という質問の回答には成っていないのだが、どうやらカガミは何かを納得したようだった。なので、俺は逆にカガミに問いかけてみた。
「だからやっぱり、俺は穴の開いた形のドーナツが好きかな。あの形だからこそドーナツを食べるときに少しウキウキした気分に成るんだと思う。因みにカガミはドーナツの穴は食べられると思うか?」
「食べられると思う」
意外にも即答だった。カガミの中には明確な答えが在るのだろうか。
「即答だな。どうして食べられると思う?」
「だって、ドーナツの穴を残している人を見たことがないもの」
成る程。
「わたしはドーナツホールだから」
カガミが小声で何か呟いた、
「何だ?良く聞こえなかった」
「ううん、何でもない」
気にはなったか、カガミはドーナツを食べる作業に集中してしまった。
或いはあまり触れられたくない話題なのかもしれない。そう思い、俺も残りのドーナツを食べた。
C字型になったドーナツを見て、矢張り穴がある方がドーナツらしいと思った。
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