05 カラスと少女

 案の定シーツの染みを発見した看護師(しかも運悪く先日醤油の染みを発見した看護師と同一人物である)に、半ば呆れられながら二度目の有難いお説教を頂戴した翌日、俺はふと病院内を散歩して見ることにした。散歩と言うより散策と言ったほうが正しいだろうか。思えば入院以降、病室に見舞いに来てくれる人が事の外多く、日中はほとんど病室に居た。食事は病室に運ばれてくるので、一日の移動は廊下を出て直ぐの所にある自動販売機までか、一階にある売店(ちなみに病室は二階である)までの往復しかしていない。

 出歩いて見ると、流石は大学病院だけあって敷地はかなり広かった。総合病院なので老若男女問わず人が出入りしている。中庭も広く、其処には気分転換がてらなのかリハビリがてらなのか、散歩をしている人々が数人居た。俺もそれに倣って中庭を一周して見ることにした。俺の病室のある病棟は出口が中庭と反対方向にあったので気づかなかったが、この中庭は俺の病室からも眺められる位置に在る様だ。先日永子が持ってきてくれた花が生けられた花瓶が目印となり、下から自分の病室を確認する事が出来た。

 庭の小道の脇には花が植えられている。見舞いに持参する花に鉢植えはご法度だが(永子も其処は心得ていたのか、ちゃんと切花だった)、此処の花はプランターに植えてある。良く見ると地面は砂利の様な土質で、植物を直に植えるには適さないのかもしれない。見るとプランター毎に花の種類も違う様だ。どれを見ても花の名前などひとつも分からないが、興味を惹かれて順番に眺めて見た。黄色一色で小さな花が集まって一株を成している物、花の種類は同じだが色が青、白、ピンクと様々な物、未だ蕾でどの様な花になるのか不明な物など、実に種々の花々が植えてあった。

 花に夢中になる余り、人通りの少ない小道に入って仕舞った。プランターもあと二つで其の先は途切れている。どうやら位置としては病院の脇にあたる場所のようだ。先程見ていたのが病院の正面だとすると、其処から九十度回り込んだ場所である。

 俺の病室は二階だが、病棟は五階建てであり、屋上には高いフェンスが設けられていた。正面からは見えなかったがフェンス越しには洗濯物が干してある(というか、態と外から見えにくい場所に干してあるのだろう)。俺は斉藤の親切心に甘えて洗濯物を任せているが、自分でも洗濯は出来るようだ。そういえば備え付けの洗濯機(有料)が五階にあるという説明を看護師から聞いた様な気もする。其の時の俺は記憶喪失と言う奇異な状況を飲み込めず、入院時に受けた説明は朧気(おぼろげ)にしか覚えていない。

 ヒラヒラと風に靡く洗濯物を暫しぼうっと眺めていると、一人の少女が屋上に現れた。洗濯物を取り込むには少し時間が早い。其れこそ気分転換に外の空気でも吸いに来たのだろうか。確かに天気が良いので屋上で風に吹かれるのは気持ちが晴れるかもしれない。等と取り留めの無いことを考えていた矢先、先程の少女がフェンスをじ登り始めた。

 その行動は明らかに奇行だった。フェンスはかなりの高さがあるが、乗り越えてしまうとその先に足場はほとんど無い。危ない!と思うと同時に脳裏に記憶の断片が顔を覗かせた様な気がしたが、それに構っている場合では無かった。俺は大いに動揺し、少女を止めるべく屋上まで駆け上がった。後にして思えば看護師や病院関係者に知らせることを優先すべきだったのかもしれないが、俺が最短距離で、最短時間で少女の元に辿り着かなければ、何か取り返しの付かない事態に陥って仕舞うという一種の確信に近い焦りが、俺の足を一直線に少女へと向かわせた。

 中庭から駆け出し五分は経過しただろうか。これだけの時間が掛かってしまえば少女がフェンスを乗り越え、最悪の事態を遂げている可能性もある。焦燥感と緊張感と急な運動のせいで心臓が張り裂けそうだ。やっとのことで階段を駆け上がり、屋上へ続くドアを開けた。

 少女の姿は目の前のフェンス周辺には無かった。しかし階段をぐるぐる回りながら必死に駆けたので、先程の中庭に面しているフェンスがどちらの方角にあるのか判らなかった。屋上を囲む四方のフェンスを出来る限り素早く見渡す。すると、右手の方向に少女の姿を見つけた。しかし安心は出来なかった。少女はフェンスを乗り越え、足を投げ出すように屋上に腰を掛けて座っていた。何故か空を眺めている。最悪の事態を頭の片隅に描いていた俺にとっては少々意外な光景だった。俺はてっきり、少女が自らの命を絶とうとしていると思っていたからだ。それに対して、少女はどこか緊迫感に欠ける様子でぼうっと空を眺めている。

 俺は少女を極力驚かせない様にゆっくりと少女に近づき、声を掛けた。

「き、君。そんなところで・・・何を・・・」

 喋ろうとしたがまだ息が上がっていてそれだけしか言う事が出来なかった。危ないから戻ってくるように伝えようと思ったが、なかなか次の言葉を発することが出来ない。

「・・・カラスが沢山」

 少女は俺の存在には気づいた様だが空から目を離す事はなく、空を舞う数匹のカラスを見てそう言った。

「あの子たちは、わたしには区別出来ないけれど、きっとそれぞれ違うカラス。それぞれに生きる意志があって、それぞれの思いで空を飛んでるんだよね」

 少女のゆったりとした口調に俺は少しだけ落着いた。未だ少女は屋上の淵という非常に危険な場所に座っている訳だが、どうやら直ぐに飛び降りるような気配は無かった。

「と・・とりあえずそのカラス談義はこっちに戻ってからにしないか。其処は危ない」

 カラス談義なんてものは正直どうでも良かったが、とにかく少女をフェンスの内側に戻したかった。危なっかしくてカラスどころではない。

「お話、してくれるの?」

 少女にとってはどうでも良い話では無いのかもしれない。

「あぁ、幾らでも話すさ。だから頼むから戻って来てくれ」

 目の前で人が死ぬなんて耐えられそうもない。俺は屋上に備え付けてあった緊急時用の防災器具の中からロープを見つけ、体にしっかり結ぶよう、少女に言った。万が一戻ってくる時に足を踏み外さないとも限らない。俺は少女が結んだロープの反対側の端を自分の体に巻きつけ、さらにフェンスに結んだ。これならば、最悪足を踏み外しても落下することは免れられるだろう。

 事の外、少女はすいすいとフェンスを登り、何事も無かったかのようにキョトンとした表情で無事フェンスの内側へ戻ってきた。

「お兄さん、すごい汗。そんなに今日は暑くないよ?」

 誰のせいで汗だくになったと思っているのか。と、多少不満に思ったが、今は少女が安全な場所に戻ってきた安堵感の方が強かった。今までは必死だったので少女のディティールを掴んでいなかったが、改めて向き合うと予想以上に幼い印象だ。中学生くらいだろうか。薄い青色の病院着を着ている。目は大きいのだろうが半目が常態なのか、少し眠た気な表情である。髪は腰程まである長髪で艶の在る漆黒。細身でかなり華奢な印象がより幼さを強調している。

「君がフェンスを乗り越えているのが中庭から見えたんだ。もしや自殺でもする気なのかと思って急いで走って来たんじゃないか。何でまたあんな危険な処に・・・」

「自殺・・・そのつもりだった・・・」

 また一気に鼓動が早くなるのと同時に、厭な汗が背中を覆った。あんなに落ち着いてカラスを眺めていた少女が、本当に自殺する気だったと言うのか。自殺前の人間と言うのはもっと切迫した表情なり悲壮に満ちた表情なりをするものではないのだろうか。

「自殺って・・・何故」

 言った後に質問が単刀直入過ぎた事を後悔した。普通なら自分が死にたくなる様な理由をべらべら喋りたくはないだろう。

「生きてる意味が解ら無くなったから。じゃあ死んだら何か解るかもって。でもカラスを見てたら何だか考え込んじゃって・・・」

 生きている意味が解らないという事と解らないから死のうという事はそう簡単にはイコールで繋がらないと思うのだが。その間には苦悩や葛藤や不満や欺瞞や嫉妬や怨恨と言った負の衝動が募り募って、最終的に自分では如何にもなら無いと判断して仕舞って初めて死のうという決意に行き着くのではないだろうか。

 もちろん、少女にもそう言った苦悩が在ったのかもしれない。しかし、今の口調からその類の心境は感じ取れなかった。

 彼女の言葉からはむしろ純粋に生きる意味を知る為に死のうとしたというニュアンスが含まれていたように思う。

「 “死んで何かが解るかも”って・・・死んだらそこで何もかも終わりじゃないか」

 自分で言っておいて何だが、平々凡々な決まり文句である。でも、決まり文句として定着する程に、それは人間として当たり前の事ではないだろうか。

「あなたは、死んだことが有るの?」

 無い。死んでいたら俺は此処には居ない。例えこの世界が電極を刺された脳味噌が構築したものだとしても、その脳味噌は生命活動を営んでいる筈だ。

「死んだことが無いのに、死んだ後の事が解るの?」

 それは・・・確かに死んでみないと解らない事かも知れない。でも、そこで何かが解ったとして、それを生者に伝えることは出来ない。そんな事に意味が在るだろうか。

「それでも、わたしだけは死後の真相を見ることが出来るかもしれない。其処は今居るこの世界よりも満ち足りているかもしれない」

「そうだけど・・・君はこの世に、その未練だとか執着というものは無いのか?例えば、将来の夢とか」

 将来の夢・・・そんな物は俺だって未だに明瞭としていない。目下捜索中の俺の記憶の中には“将来の夢”が含まれているだろうか。

「将来の・・・夢・・・」

 少女は呟いた後、暫く沈黙した。沈黙が気まずくなってきたところで、耐えられずに俺が次の言葉を発した。

「すまん、今のは俺の質問が悪かった。実はそんなものは俺もまだ持っていないんだ。それどころか、俺は今記憶の一部を失っていて、将来の夢どころか家族と会ってもそれが本当に自分の家族かどうかすら良く解らないんだ。でも、不思議と死のうとは思わないな・・・記憶が戻れば生きる目標を見つけられるかもしれないと楽観視してるのかもしれないし、いずれ必ず死ぬんだから、死んだ後のことは死んでから考えれば良いと諦めてるのか、その辺りは自分でも解らないけれど」

「記憶が無いの?」

「そう、記憶が無いんだ。と言っても、ご覧の通り喋れるし歩けるし、箸だって使える。でも、こと人間関係に関する記憶や、ここ数年の記憶はその多くを無くしてるみたいなんだ」

「そう・・・」


 また暫く沈黙が流れた。しかし、今度は彼女が沈黙を破った。

「そうかもしれない」

 何に対しての発言か判らなかった。

「いずれ死ぬんだから、死んでから考えれば良い。そうかもしれない。わたしもそう考えることにする。死ぬまでは生きてみる事にする。生きている内にしか考えられないこと、多分きっともっと在る。あなたと話して、そう思った」

 記憶喪失の俺に対しての同情・・・では無いように思うが、俺の言葉の何処かに、自殺を思い留まらせる効果が在った様だ。少し安心した。

「そうさ、きっと生きているからこそ解る事もきっと沢山ある。君も此処に入院しているのなら、俺はいつでも話し相手になるよ。実は君がフェンスを乗り越えようとしているのを中庭から見た時、俺の失った記憶が少し戻りそうな衝撃を受けたんだ。結局思い出せなかったんだが、君と話していると俺も何か思い出せるかもしれない。だから、自殺は止めて俺と話をしてくれないか」

 半分は自殺から彼女を遠ざける為の方便だが、記憶を取り戻せそうな予兆が在ったのは本当だ。そして、この少女と話す事は、何かとても大切な事に辿り着くヒントがあるような気がしてならなかった。

「俺は一之瀬影利。この病棟の201号室に居る。君の名前は?」

「カガミ」

 如何いう字を書くのだろう。「鏡」だろうか。

「片仮名でカガミ。皆そう呼ぶから、多分それがわたしの名前」

 自己紹介にしては妙な言い回しだが、思えばカガミは掴みどころの無い喋り方を一貫している。これが彼女の常態なのだろう。

「カガミか、良い名前だ。よろしく」

「よろしく、カゲリ。またお話しに行く」

「いつでも良いよ。大抵は病室に居るから」


「カガミ、こんな所に居たのか・・・ん?一之瀬君か?」

 聞き覚えのある声に振り向いた先には十川先生が立っていた。

「君達がこんな所で会っているとは思わなかったが・・・何だそのロープは。電車ごっこにしては結び方も変だし、そもそも君らはそんな歳でもないだろう?」

 やはり飄々とした口調である。俺はそっとカガミに「自殺未遂のことを先生に話してもいいか?」と耳打ちしたところ「大丈夫」との返答だったので、俺は事のあらましを十川先生に説明した。

「自殺!?どうしてそんな・・・」

 先生は驚き、且つとても心配そうな表情を浮かべていたが、カガミを叱りはしなかった。

 カガミはカガミで多少申し訳なさそうな表情を浮かべたが

「死んでみないと解らないことが在ると思ったから・・・でもカゲリと話して止めたの。皆いつかは死ぬんだから、その後の事は死んでから考える事にしたの」

 と、素直な言い訳?を先生に伝えた。

「そうか・・・改めて聞くが、何か辛い事が在ったとか、悲しい事が在ったとか、そういう事では無いんだな?」

「・・・無い」

 実に素っ気ない返事である。まだ申し訳なさそうな顔ではあるが。

「其れなら良かった・・・のか如何かは判らないが、取り敢えず最悪の事態は避けられた様だな。私の監督不行き届きだ。一之瀬君には迷惑を掛けた。すまなかった。カガミを助けてくれてありがとう」

 お礼を言われる様な大それた事をしたつもりは無かった。ただ、死なせてはいけない、そう思って必死になっていただけだ。しかし、十川先生はこれ以上感謝し切れないといった様子で、何度も俺に礼を言った。

「少なくとも、俺はカガミが死んで仕舞ってはとても悲しいんだ。だから俺の為にも、死のうなんて思わないで欲しい」

 その言葉に呼応したようにカガミは薄っすらと涙を浮かべた。しかし表情は嬉しそうだった。そして少し照れた様な表情で

「ごめんなさい。ありがとう」

 と言ってくれた。短い言葉だったが、その気持ちは我々二人には十分に伝わったはずだ。その言葉を聞いた途端、急にこれまでの緊張から開放され、疲労の波が押し寄せてきた。

「随分頑張ってくれた様だな。君も未だ入院中の身だというのに。すまなかった。また見舞いに行くよ。今日はゆっくり休んでくれ」

「ごめんね、カゲリ。わたしもまたお見舞いに行く」

 お見舞いも何も、カガミも入院中ではないのだろうか。

「わたしは入院していない。でもお姉ちゃんと良く此処に来る」

「お姉ちゃん?」

 誰の事を指しているのだろう。

「あぁ、言い忘れていた。この子は十川カガミ、私の妹だ」

「んあ?」

 思わず変な声を出して仕舞った。意外な展開だが、先程の先生の心配な表情を思い出すと、確かにカガミと先生の間に深い繋がりがある事は予想できた。しかし、よもや妹だったとは。本日数度目の衝撃的な事態に、俺はいよいよ疲労困憊し、病室に戻ることにした。

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