第7話 Aten

 柱の間からのぞく夜の空を、少年はただじっと見上げていた。物心付いた時の暗い空の色とは変わっている。その、満点の星空を。

 自分を護ってくれていた兄王は死んでしまった。それが、苦悩の始まりだった気がする。何年もたった。もう、引き返せないところまできている。

 この何年間かで、幼いことは罪であると知った。自分に力はない。神の子と崇められる王という立場にありながら、実際には飾り物として玉座にあるだけ。あと幾年生きられるか。あと幾年…利用されていればいいのか。

 絶望の空に星が輝く。懐かしい都に戻りたかった。あの若く美しい神に会いたかった。

 先王が亡くなって、後見人となった男が全ての元凶である。宰相アイ。王を助けるのが仕事と大袈裟な身振りで言い放ちながら、この国を手中に収めている。この宮殿に少年が頼れる人物は既に一人も残っていなかった。宰相は彼の愛した都を捨てさせ、神さえも捨てさせたのだから。

 美しい都、アケトアテンを離れテーベに来た。アテン神の名を捨てアメンラーの名を戴いた。全て望んだことではない。唯一愛した神に顔向けができない。

 もう長い間、こうして塞ぎこんでいた。

 星は輝き続ける。何も変わらない。何も、…何も。

 昔は――少年が実際に体験したわけではないが、幾年もこの空は闇に覆われていたらしい。長い寒さと飢えがあった。この国だけではなく、隣国もそのまた隣国も。闇に覆われた空を恐れたという。

 人々は闇を神の怒りと恐れ、怯え続けた。しかし、それは先王の唯一神信仰への切り替え、遷都によって一応の決着を見たのだ。空は晴れた。アケトアテンで、アテン神だけを愛することで。この国は救われたのだ。

 今見える空をくれたのはアテン神だ。少年は今でもそう信じている。一度だけ会った、自分と同じくらいの歳に見える少年神。頼りなく見えた神だけれど、その言葉と不思議な容貌を今でも覚えている。

「ファラオ、宰相がお呼びです」

 声に振り返ると、無垢な目をした少年が立っている。自分と同じく、少年だけれど、肌の色も瞳の色も違う。そしてその声は押しつぶされたように皺枯しわがれていた。

 彼は遠い西の国から売られてきた奴隷だという。生贄として育てられた子供の一人だったが、彼が神に捧げられる前に空が晴れあがったため、生きた献上品としてこの国に送られてきた。

 つまり、彼の元に。

 時間が許す限り言葉を教え、いつしか笑顔が戻った。その存在は、寄る辺ない心の癒しとなった。しかし、長い奴隷生活のうちに潰された喉が戻ることはなく、彼は見目に似合わない皺枯れた声でしか喋られなくなっていた。

 その姿との差異が、憐憫を誘う。

「すぐに行く」

 答えると、彼はにっこりと笑んだ。必要なことしか喋らないのは彼自身、自分の声が醜いことを知っているためだ。神さまなら彼の声を治せたかも知れない。そう思うたびに少年は遣る瀬無い気持ちになった。

「ネフェルメケフェアト」

呼びかける。この異国の少年に名はなかった。だから勝手につけた名だ。振り返る青い瞳に笑みが浮かんでいる。少年は小さく肩をすくめた。

「二時間後に果物を運んでくれ。君一人で」

 彼は頷いて去って行った。その背に、一人思う。二時間後に、まだ命があれば、だけれど。

 宰相にとって、幼い王は必要であった。風除けでありよい乗り物だったのだ。しかしそうはいかなくなってきた。人はいつか、成長するのだから。

 宰相であるアイに神は居ない。恐ろしいものは何もないのだろう。そして、言いなりになっていた王を擁護するものが台頭し始めた今、王の存在は邪魔でしかなくなったようだ。

 アイは言った。今に、恐ろしいことが起きるだろうと。今のうちだと。

 期は満ちてしまった。恐らく、近いうちに自分は殺される。押し上げられるように出る杭となった今、命運は尽きようとしている。最後までただ流されるままで、誰も彼も、押さえる術を持たないままに。

 弱さは、罪であったのだろう。

 部屋に入る。人の気配はない。妙だ。呼び出した男が不在とは…。ふと、嫌な予感がした。慌てて踵を返し、駆け出す。

 心臓がはちきれんばかりに脈打っている。胸を押さえながら、回廊を走り、人気のない筋を折れ、自室に入る…と。

 明かりが消え去っていた。人の気配。けれど判る。よくないことが、起きた。濃厚な血の匂いに眩暈を覚えながら目を凝らす。人が、倒れているのが判った。

それは…

「ネフェルメケフェアト!」

 叫んで、その体を抱き起こす。少年は薄っすらと瞳を開いた。明かりの少ない室内でも、辛うじてそれがわかる。

「にて」

「なにを…」

「げて…に、げて…」

 途切れがちな言葉を何度も繰り返す唇に耳を寄せ、言葉を拾っていく。その全てが、自分が教えた言葉だった。彼はよく言葉を覚えた。けれど、それはこんなことをさせるためではなかった。

 王宮内で、唯一心を許せる者。唯一護りたかった者。この傷では、恐らく助からない。

 アテン神を裏切ったのは自分だ。彼を崇めたくとも、遷都をせねば妻を殺すといわれていた。彼女が最初からアイと密通していたことは最近になって知った。全ては仕組まれたことだったのだ。

 必死で囁く、その声が途切れたのは最後の一言を言い終えてすぐだった。震えていた体が動きを止め、その身はずっしりと重くなった。涙が零れたが拭う暇もない。その体を抱え上げて寝台に乗せると、彼は静かにその場を去った。

 『逃げろ』と。『アイは貴方を許さない』と。たったそれだけの言葉を漏らして、彼は息耐えた。

 このまま死んでしまう訳にはいかない。

 彼はそっと、王宮を抜け出す。死んだ彼のふりをすれば、そう難しくはなかった。まだ騒ぎは起きていない。生まれつき弱い脚を無理やり動かして、砂漠を目指す。

 縋れるものはない。ただひとりを除いては。

 重い装束を剥ぎさって、闇夜を歩いた。歩きなれない彼は靴を失い、何度も倒れ伏しながらも、只管に、捨て去った都に向けて。

 ただひとりの、彼の神を求めて――。

 日が昇り、じわじわと体温を奪っていく。幾度も倒れ、砂に足を取られ、よろけ、人影がさす度に砂の波に体を隠し、逃れ続けて。

 日が暮れ、また登り、日が暮れて。ついに止まった足は、都にたどり着いたからではなかった。熱い体。意識が混濁する。幾度もうわ言を呟き、ふらつく足元に力を入れることすらできない。吐くものもないのに嘔吐しながら、倒れこんだ柔らかな砂の上。

 彼は息絶えた。砂漠の真ん中で。

 王と呼ばれた彼の、それが最期だった。

 


「二人同じ時を歩めるように。今一度の生を、今度は平穏に生きなさい」

 唯蓮の声だ。囁くように、歌うように、聴こえてくる。

 目を開いた。ぼんやりと二つの影。見覚えのある二人は、ファラオとネフェルメケフェアト。手を繋いで、穏やかに笑っている。

 その死の寸前の姿ではなく、出会ったままの幼い姿で。彼らは笑って静かに目を閉じる。その体が青白く光るのが判った。

「来世に加護あれ」

 ファラオの手には錫杖。唯蓮の表情に過去に見た穏やかさがある。シドはわけも判らず安堵しながら消え行く二人を見上げた。

 青白い光が大きく膨らみ、弾けるようにして消えた。あたりに風が巻き起こり、カーテンを揺らしていく。その揺らぎが泊まる頃には、あたりに静寂が戻っていた。

「お帰り、シド」

 向き直った唯蓮が囁く。腹部が痛い。シャツを捲ると大きな青痣ができていた。結局何事だったのかと桂花を見れば、彼はもう一度謝ってきた。

「申しわけない。…霊媒いれものとして使わせていただきました」

 呼び寄せるのに必要だったと付け加え桂花は唯蓮を見た。彼は口の端を吊り上げ、無様な倒れっぷりが見事だったと笑った。

「夜が明けるな。明日には帰るぞ」

 ロンドンに、と付け足して彼はゆっくりと寝台にかける。窓からのぞく空は白みはじめていた。

 傍らを見上げると、桂花は黙って直立していた。その口元に柔らかい笑みが浮かんでいる。終わったと、何よりもその表情が言っている。けれど、まだ幾つも謎が残っている。なんとしても聞き出さねば。彼らはもう行ってしまったけれど。

 どう切り出そうか。

 シドは立ち上がり、窓の外を見た。地平線に金色の光が見えるけれどまだその姿は見えない。神の姿は見えない。

「私は少し寝るよ」

 唯蓮は言いながらひとり寝台に潜り込んだ。その気になれば幾日寝なくても平気だが、彼はわりによく眠っている気がする。

 寝台に丸まった彼はすぐ、死んだように動かなくなった。眠ってしまったようだ。

 桂花を見る。彼もまたシドを見ていた。

「アテンは日の光です」

「え?」

「太陽そのものでもあり、そこから加護をもたらす指先を持ちます。それが日の光」

 降り注ぐ光を見つめる横顔が、賢者のように聡明に見える。まだ十代のようでいて、老人のようでもあった。

 シドは食い入るようにその顔を見つめながら、やがて深い息を吐く。

「聞いていいかい?」

 問いかける。彼は浅く頷き、シドのほうを向き直った。

「いまいちよく判ってないんだ。結局どういうことだったんだ?唯蓮が約束を果たせなかったのは判ったが…」

 少し遅かったとはどういう意味か。シドには判らなかった。否、わからないことだらけだった気もする。困惑の態で見ると、薄く笑った桂花は静かに話し始めた。

「発端はここの親子です。父親は日光に弱いことを除けば人と共存できる種です。ただ母君は吸血鬼と人食いを両親に持っている」

 なるほど。ミシェルが襲いかかって来たのはそのあたりが原因かと今更ながらに実感して頷くと、彼は頷き返しながら続けた。

「ただ、母君はあの通り節度がある方だから遺体と輸血用の血液パックで生き延びてらっしゃるようです。このあたりは唯蓮に聞きました。ただ、ミシェル嬢はまだ幼い。自制が聞かずに襲いかかったようですが、恐らくご両親のどちらかが諌めたのでしょう」

 助けられたのはそれでか。

 まったく、気付かれなかったら死んでいたかもしれない。今更ながらに背筋が凍る想いがした。桂花は「まぁ偶には刺激になっていいと思ってください」と無責任なことを言いながら続けた。

「脱線しましたが、食料となる死体というものにどうやらミイラが含まれているようです。エジプト近郊で取れる人の干物、というところでしょうか」

 珍味ですね、と言い足すのは性質タチの悪い冗談だ。

「恐ろしい例えは止めてくれ」

「失礼。そこで、保存されていた特殊なカノポス坪の中身、即ちネフェルメケフェアトの内臓が食べられてしまった」

 当然の如く言った言葉に驚き、シドは顔を上げる。そうだ。あの二人は死後どうなったのか…そのあたりが気になっていたのだ。

 表情だけで察したのだろう。桂花は頷いて言葉を繋いだ。

「二人の死の顛末はご存知と思いますが…ああ、そうだ。ネフェルメケフェアトはアイの企みを聞いてしまって、ツタンカーメンの身代わりをしたようですよ。焦ったのはアイです。寝台に残っていたのは王ではなく、王の従者の遺体。消えてしまったツタンカーメンがどこに向かったのか全く想像がつかない。人の目もあり、おおっぴらには探せない。そこで彼は考えました。ここで、王を社会的に抹殺してしまえばいいのだろうと」

「つまり?」

「ツタンカーメンとして、ネフェルメケフェアトを埋葬することを思いついたのです。墓を暴かれなければばれることはない。王が後で戻ったとしても、偽者で押し通せる。万が一失った筈のアンク――唯蓮が持っていた錫杖、王の証ですね。あれを持ち帰ったとしても、ミイラにすること自体が復活するための儀式です。奇跡と騒いでおけばいい。幸い妻はもう抱き込んであった。かくしてネフェルメケフェアトは王墓に埋葬されることとなりました」

それでは、黄金マスクを被せられ棺に眠っていたのはネフェルメケフェアトだったということか。確かに、砂漠の真ん中で死んでしまった少年を探し出して埋葬するというのは些か非現実的だ。理解できたと頷くと、桂花は薄く笑った。

「しかしアイも一応その時代の人間ですからね。復活を恐れた。楽園での再会としても嫌だったのでしょう…忌避したいのは手にかけたネフェルメケフェアトです。信じてはいなかったでしょうが、念には念を押そうと考えた。ネフェルメケフェアトのカノポス壷は意図的に違う細工が施され、別の貴族のものとすりかえられた。そこで今回の悲劇が生まれました」

 悲劇。見つかったネフェルメケフェアトの内臓はこの館で食卓に上ったということか。些かげんなりとした表情を浮かべると、桂花は目を伏せ息を吐いた。

「当時の唯蓮ならば内臓がなくとも、その体を復活できた。死後の蘇生は今の彼には難しいのです。ネフェルメケフェアトの内臓が残っていれば、今の彼でもその体を人として復活させることが出来たかもしれません。私や、貴方のような人外としての復活ではなく、人として。私と貴方は唯蓮の一部から出来ているものですから、一片の組織で再生可能ですが…」

「待て、混乱してきた」

 死後は不可、ということは、シドは死ぬ寸前、唯蓮の一部を借りて再生したということか?桂花もそうであると?今の唯蓮は自分の要素を持たない生き物の復活は不可能で、昔ならばそれも可能だった…ということか。

 いやしかし、それなら何故パーツの揃ったミイラでも可能だというのか。そのまま問いかけると彼は小さく頷いた。

「まず、貴方は死ぬ直前に唯蓮が手を加えることが出来たんです。死んでしまったら不可能でしたが貴方は命あるうちに唯蓮の一部をもって作り変えられた。唯蓮が作ったものならば幾らでも再生が可能です。一部が残ってさえいたら。しかし人は皆、唯蓮の兄が作ったものの子孫ですから、そのままの再生は難しい」

 桂花はそこで一度言葉を切ると、理解しているか?と目で問うてくる。シドはこめかみを押さえながら考えを整理しようと努力した。

「現在残っているエジプトのミイラは、契約を果たすために私の力が篭った物が殆どで、再生の負荷はかなり軽減されます。私自身、唯蓮に近い姉と兄の力で出来ていましたしね」

 今は唯蓮の力で生きているけれど、と付け加える桂花を見つめながらシドは眉根を寄せる。

 そういえば桂花はアヌビスだった。シドはこめかみを押さえる。もはやついていけるレベルの話ではない。難解だ。

 力の質が近ければ、再生の補助になる。ミイラには差し詰め桂花がかけた復活のための魔法がかかっているということだろうか。

 シドは浮かんできた疑問を投げかける。

「唯蓮の兄弟でも近い遠いがあるのか?」

「例えば彼を殺そうとした兄は全く逆の位置にいました。比較的近い兄の方は殺された…聞いたのではないですか?噴火を抑えたと」

 そういえばそんな話をしていた。あれは、確か唯蓮がファラオに向かって発した言葉だ。黙って頷くと、彼もまた頷いた。

「あれも、殺された兄と唯蓮の力が近かったから出来たことです。ただ、あの直後今度は唯蓮が殺されかけ、姉の勧めで一族から外れる道を選んだ。そして」

 桂花は唯蓮を見つめた。その目に哀れむような色が見える。彼は深い眠りに落ちているのだろう。微動だにしなかった。

「唯蓮を残して、彼の一族は全滅したんです」

 思わず息を止めた。目を見開き、桂花を見る。桂花は引きつったような笑みを浮かべかぶりを横に振った。

「彼を殺せるのは彼の一族だけ。望まずして最後のひとりになりましたが、その力はもう残っていない。一部を除いて」

「待って、君は…」

「私は出来がいいだけで、貴方方と変わりません。彼の長兄が作った擬似的な神族でしかないですから。第一、私自身、地上に降りた時点で一度、死んでしまっている」

 驚いて目を見開いた。言葉もなく、交互に二人を見る。二人の深い繋がりが、漸く少し見えた気がした。

 桂花は恐らく、唯蓮を追って地上に降りたのだろう。もしかした彼を作った姉か、兄かが、唯蓮を守るよう命じたのかもしれない。

 詳細は分からないが、桂花は物騒な事を言い始めた。

「恨んでますよ。あと数秒遅かったら私はここにはいませんからね」

 人が折角追いかけたのに、と。彼は笑って唯蓮を示し、深く息を吐いた。

「唯蓮が神のままであったら、二人ともあの姿のままの復活が出来たはずですが」

 生まれ変わるのならば、二人が離れるのは間違いないだろう。

 次は幸せに生きられればよいけれど。

 昇った太陽を見つめて、シドは感嘆の息を漏らした。見渡す限りの黄金の土地。今も、王の体はこの砂漠のどこかに埋まっているのだろうか。けれどもうその肉体に意味はないのだ。彼の死後三千三百年もたっていたが、ちゃんと旅立ったのだから。

「次も、二人が一緒だったらいいだろうにね」

 なんとなくそんなことを呟いて、シドは窓を開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 胸にたまっていた疎外感も、消え去っている気がした。

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