第6話 幽霊


 目を開くと、ベットの上にいた。屋敷に戻ったのだろう。左右に唯蓮と桂花。朝目覚めた時と変わらない風景だ。

「見たな?」

 唯蓮の問は短かった。シドは頷きゆっくりと身を起こす。あたりは既に暗い。二、三度左右に首を振り、シドは静かに息を吐いた。

 あの杖を持ってたということは唯蓮は約束を果たさなかったのだろう。或いはそれより先に返すべき彼が消滅してしまったか。

 否、それならば彼はその墓にでも返すのではなかろうか。考えていても仕方ない。

 シドは顔を上げる。

「約束は果たせなかったのか?」

 唯蓮は黙って頷いた。前に突き出されたその指が一度強く握り締められ、すぐに開く。眩い光とともに現れた錫の先は滑るような楕円、その真下で横に渡る短い鋼と十字を描いている。

 アンク――生命の象徴たるエジプト十字だ。

「これを返しに来た。が…少し遅かった」

 唯蓮は呟いて目を閉じた。憔悴しきっているように見えた。そういえば唯蓮も倒れていたのではなかったか。

「唯蓮は大丈夫なのか?」

 思わず問いかけると、彼は少し驚いた顔をした。後、小さく笑う。

「案ずるな。私は死ねない体だ」

 呟く声は自嘲に塗れている。シドは慰める言葉もなく口を噤み、桂花を見た。彼は相変わらず薄く笑んでいる。何故だかその顔に怒りを覚えた。

 八つ当たりみたいだし、理由も判らなかったが。

 桂花は恐らくシドが抱いたそんな感情に気付いてた。その上で笑顔を消し去らず、ゆっくりと立ち上がると、古臭い燭台に灯された蝋燭の炎を、指先で摘むようにして消し去った。

 室内を闇が覆う。意図が読めず黙って首を左右に振るシドの傍らで、唯蓮も立ち上がる気配がした。

「来ましたね」

 声を潜める桂花。恐らく、頷いている唯蓮。桂花はシドの耳元で座っていればいいと囁いて唯蓮の側に回りこんだ。

 瞬く間に掻き消える二人の気配。煙のように消え去り見えなくなった二人を探すように視線が泳ぐが、すぐにそれを止めた。

 明らかに異質な気配が再び、部屋に入り込んでいたからだ。

 シドは息を殺す。寝たフリをするべきか?否、不自然だ。今はあの二人が居る。姿は見えないが、彼らは口の割りに優しいのだから。

 キョロキョロと見回した視界に、白い影が揺らいだ気がした。シドは慌ててそちらを向き、恐ろしい速さで迫る金糸の髪を見た。腕を伸ばす。抵抗くらいしてやると伸ばしたそれをすり抜けて、その細い影は懐に飛び込んできていた。

 キュッ、と何かが皮膚と擦れた音。滑っていくその細い何かを掴もうと、指を伸ばすが、もう遅い。首を締め上げられると身構えた。

 が――。

「そこまでです。それ以上動いたら少し、痛い目をみますよ」

 囁くような声は桂花のものだ。動きを止めた姿を、シドはまじまじと見上げる。見知った姿だった。

 この体のどこにそんな力があったというのか。なにより…シドが何をしたというのだろう?

 しかし、そんな疑問はすぐに払拭された。

「ミシェル、彼を食料にするのは止めてくれないか」

 冷静な声は唯蓮のもの。シドの上で硬直している少女は涙をこぼしながら駄々っ子のようにかぶりを振った。

「おなかがすいているならこちらにおいで。私は君らが好きだよ」

 唯蓮はいいながら燭台に明かりを灯す。薄明かりに真っ白い肌が映える。無邪気な顔をして少女はゆっくりと立ち上がった。その指にピアノ線。暴れられないよう、周到に用意していたらしい。些か大雑把だが、意識を奪う目的だったのだろう。

「桂花」

 呼ばれた桂花は突きつけていた短刀を引き、鞘に収めると、ゆっくりと唯蓮に向けて放った。器用に受け止めた唯蓮はそれを再び抜き去る。

「おいで」

 声は優しい。しかし握るのは凶器。シドは声も出せずにその光景を見つめた。ミシェルは誘われるまま唯蓮の元に跪く。駄目だ、と叫ぶか悩む。

 逡巡するシドの前で、唯蓮はミシェルに柔らかく微笑みかけた。

「いい子だ」

大きく振りかぶられた短刀が、空を切る。シドは咄嗟に目をぎゅっと瞑る。助けなければ――。反射的に踏み出しかけた一歩を、背後から羽交い締めにするように止められた。

 ザクッ、と鈍い音がした。

「っ!」

 シドは目を見開く。痛々しい。けれど、思っていた光景とは違った。高速で背後に回り込んできていた桂花は、静かに戒めを解く。

 腕が切り落とされるかと思うほど深く、皮膚を切り裂いた短刀。けれど、それが傷付けたのはミシェルではない。唯蓮は自らの腕を深々と切り裂いていたのだ。

 しかし、そこから血飛沫が飛ぶことはない。確かに血は流れているようだ。けれど、その出血は明らかに人間のそれとは違った。岩肌を滲むように湧く清水のように、滲むような出方をしている。

 唯蓮は血液を零さないように用心しながら、その腕を差し出す。

「よく我慢した」

 ミシェルは肩で息をしながら、恐る恐る指を伸ばす。震えている。潤んだ瞳に浮かぶ満ち足りた色をシドは見つける。真っ白な喉元が、浅ましく鳴るのを見る。ミシェルは小さな舌を差し出して、その血に唇を押し当てる。

 滴る血を飲み干す姿は異様だ。シドはそこに来て漸く、彼女が人とどう違うか気付いた。

「吸血鬼の血と、人食いの血と、雪男の血。どれが一番濃厚なんでしょうね」

 嘆息するのは桂花。シドはミシェルの喉が動くのを眺める。恐ろしいと思った。ひょっとして首に突き刺さったのは彼女の牙だったのか。…恐らくそうだ。

「暫くの飢えは癒えよう。私が神であった頃ならば、一生困らなかったのにね」

 可哀相な子だと呟きながら、唯蓮はその髪を柔らかく撫でた。ミシェルは唇を離すと、うっとりと目を細める。その姿はどこか赤ん坊を思い出させた。

「この子を恨んではいけないよ、シド」

「わかってるよ唯蓮」

 人も肉を喰らう。彼女たちには人しか食べられないだけで、本質は同じ。どちらも、罪の上に生きているのだから。彼女も本能の命じるままにシドを襲ったに違いない。恐らく、空腹に耐えられなかったのだろう。

「君は人の匂いが濃いからね。元が人間だから…今だって私の血が少し混じっただけだ」

 そういえば、神であった頃と彼は言った。先ほどまで見ていた夢も含めて、イマイチ実像が掴めなかったが、彼は昔、神であって、今は違うのだろうか。唯蓮は黙って桂花に視線をやる。桂花は察したらしく静かにミシェルの元に歩み寄り、そっとその身を抱き上げた。無抵抗の彼女をベットに乗せる。

 シドは慌ててそこを綺麗に直した。根拠もなく、女の子が寝るにはむさ苦しすぎる気がした。

「さて…昔話でもしようか。あちらの部屋に移ろう。本命は、もう少し夜が更けないといけないみたいだ」

 唯蓮はいいながらよろよろとドアを開ける。桂花は手を貸すことなく、シドを挟んで最後に部屋を出た。

 シドは眉根を寄せる。桂花が怒っている気がした。そしてそれは、主の人のよさに由来するのだろうと思った。自分を助けた時も、ひょっとしたら同じようなことになったのかもしれない。何となく、そんな気がした。


*


 唯蓮の部屋も内装が対になっている以外は全く違いがなかった。勝手に椅子に掛け、唯蓮を見る。彼は窓の外を見つめながらゆっくりと口を開いた。

「大昔、神と呼ばれた生き物が居た。私の父、そして兄弟たちだ。人を作ったのは私の兄。私が生まれる前の話だ」

 唯蓮はそこで一度言葉を切った。シドは戸惑いを隠す術を知らず、桂花を見る。彼は長い足を組み、背を正して座っている。何も補足すべきことはないと、その横顔が言っていた。

「人が神と呼ぶ者が何人も居た。けれど、そこで諍いが起きた。父が死に、殺し合いが始まった。幼かった私は姉に護られて無事だった。しかしある日…」

 こめかみを押さえ、黙った唯蓮に代わり、

「実兄に殺されそうになった」

桂花が呟く。驚くほど感情のない、冷めた声だった。受けた唯蓮も少し驚いた顔をしただけで全く平静だ。他人事のように呟く。

「そうだったか?そして逃げた」

 姉を置いて、それは覚えている。そう付け足して唯蓮は桂花を見る。桂花の目には凍えるような怒りがあった。唯蓮にではなく、過去に対する怒りなのだろう。熱い感情ではない。氷のように冷えた炎。逆に恐ろしい。

 シドは黙って二人を見る。話が大きすぎておとぎ話としてしか受け取れない。しかし、それでいいのだ。幾ら考えても過去は変わらないわけで、あれこれ聴くのも気が引ける。話半分といったら失礼だけれども現実と思えないのなら端から割り切ったほうがいいと思った。

 唯蓮は静かに続ける。

「ちょうどそれが彼と約束をした時期だったんだろう。神なんて立場にあったら兄に殺されてしまうわけだから、私は立場を捨てた。記憶と一緒に」

 うんざり、といった顔をしているが、きっと純粋だった彼は甚く傷付いたのだろう。シドはそれを見て取った。

 桂花が薄く笑む。

「そこで、多くの契約が果たされぬまま地上に残った。今回もその一つです」

 いいながら、立ち上がる桂花。唯蓮は黙って息をつく。その手指に握られたままの杖を見て、シドは漸く気付いた。

 その杖に引き寄せられるだろう、彼を待っていたのか。

「大誤算だ。まさかこんなことになるなんて」

 諦めたような唯蓮の言葉が印象的だった。言葉が途切れるとともに室内を覆う沈黙。

 そして、突如現れる、青白い光。

 薄い色の髪と青い瞳が闇に浮かぶ。労働に使役された肌はくすんでいるが、それでもまだ白い。

 誰であるか。シドはすぐに気付いた。黙って悲しげな彼を見つめる。あの日、モノのように投げられ、王に会った、あの少年だ。

 唯蓮はゆっくりと立ち上がる。

「王に頼まれてきたよ」

 唯蓮が静かに歩み寄る。少年の霊は一度怯えて後退る素振りを見せたが、杖に気付いて踏みとどまる。唯蓮は彼の前で膝をつき、視線を合わせた。

「アテンだ。わかる?」

少年は戸惑いながらも頷く。唯蓮の指が、少年の喉を撫でた。

「大丈夫。これで普通の声も出る」

 少年は驚いたように目を見開き、喉元を押さえた。生きているような仕草。けれど、その体をすり抜けて、背後の壁が見えている。彼に実体はない。

「わ…私を護ってくれると、ファラオが」

 唯蓮は優しく笑い、遅くなったと付け足した。少年は戸惑ったように首を横に振り、唯蓮を見た。

「けれど私はいいのです。王をお救いください」

 唯蓮は驚いたように息を詰めすぐに目を伏せた。項垂れ、沈み込むように俯く姿。

 そして…。

「ごめん。もう無理なんだ。もう…」

 吐き出された、言葉。

 あの日から、三千年も経ってしまった。顔を伏した彼が泣いている気がして、シドは黙って目を逸らす。見てはならない気がした。だから、顔を背けた。

 けれど…。

「シド、申しわけないのですが」

 桂花の声を耳元で聞いた瞬間、あばらに酷い衝撃を感じた。叩き込まれた拳は桂花のもの。知覚しても遠のく意識をつなぎとめることはできなかった。意識が薄れていく。

 視界に一瞬の闇。それはすぐ濃紺に変わった。

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