第5話 Per-Aa

 市街地にでて十五分。近くに車を待たせて博物館に駆け込む。

 ひんやりとした空気。やはり日陰は涼しいと思いながら、前を進む唯蓮の後を追う。彼は一直線にひと気の多い一角に突っ込んで行った。シドは背伸びをして目を凝らすがそこに何があるか見えない。立ち止まり、黙って人垣の方を向いている唯蓮を、次いでその横の桂花を見る。

「何?」

「黄金マスクですよ」

 黄金マスクといえばツカンカーメンだ。驚いて目を白黒させていると桂花がそっと耳打ちしてきた。

「貴方が聞いた言葉をよく思い出してください。恐らく…トト・アンク・アメン」

「そんな感じだ」

「トュトュ・アント・アメンはツタンカーメン、ペル・アア即ち宮殿に住まう者。ファラオのことです」

 驚いて目を見開いた。ツタンカーメンといえば呪いとマスク。夢を見せた幽霊はそんな人物と会っていたというのか?

「待て…待って、どういうことだ?ツタンカーメンって紀元前の…」

「今に判ります。唯蓮、どうです?」

 いつも通り微笑を浮かべたまま問いかける桂花に、

「お前、覚えてるんだろう?」

 唯蓮は忌々しげに吐き捨てながら踵を返す。憎々しげな顔。気圧されながらも恐る恐る後に続く。桂花は応えない。シドの視線に気づいてか、小さく肩を竦めた。

 唯蓮は黙って建物を出ていく。二人とも早足でその後を追った。

 彼は車に乗り込むと、

「テルエルアマルナ」

と、短く指示を出す。

「どういうことだ?どこにいく?」

 後から乗り込んだシドが問うが、唯蓮は答えない。桂花は最後に乗り込んで、何故だか、小さく頷いた。

 車は滑り出す。元々この世のものではない。物凄いスピードで道の真ん中を走り始めた。ぶつかるんじゃないか、とひやひやしたが、対向車にぶつかろうにも互いにすり抜けてしまうようだ。

 3Dアトラクションさながらのスリリングな光景に目を奪われるシドをよそに、桂花が小さく呟く。

「思い出したようですね」

「大体な」

 唯蓮は不機嫌そうに返すとそれきり黙りこくった。話が読めない。車は既に郊外に出ている。シドは驚いた。

「どこまで行くんだ?」

 問いかける。唯蓮は視線もくれない。桂花はシドを見て口を開いた。

「テルアル・アマルナ…捨てられた都です。屋敷の中をさまよっている少年の霊が探しているのは主の姿」

 桂花はそこまで説明してちらり、と唯蓮を見た。頭痛がするのかこめかみを押さえた唯蓮はドアに寄りかかるようにして目を伏せる。

「この車がこの世のものでなくてよかったですね。運転手さんは少し、個性的ですが」

「?」

 言われて窓の外を見ると、車は物凄いスピードで川の上を走っている。

 慌てて上体を捻り運転手を見れば、それが人ではないのがすぐにわかった。ハンドルを握る手指も、スーツから覗く首元も、なにより顔全体に、皮も肉も存在しない。骨しかない。

 くらくらしながら体勢を戻し桂花を見る。彼は唯蓮の腕に触れた。唯蓮は珍しくそれをぞんざいに振り払い、拗ねたように身を縮めている。

 桂花は小さく息を吐くと、そっと問いかけた。

「唯蓮、カノポス坪の中身は?」

「他の貴族のものだった」

「では…」

 桂花は何かを言いかけたが、結局それきり口を噤んだ。唯蓮は表情を曇らせ、憂鬱げに外を眺める。土ぼこり一つ上げず、車は砂の上を滑った。

 観光客の脇を通り過ぎ、遺跡を抜け、たどり着いた人気の少ない場所。降り立った三人は静かに辺りを見回す。

「気配はないな」

とは唯蓮の言。気配を手繰るなんて芸当ができないシドには相槌も打ちにくく、黙って桂花を見る。彼は薄く笑っていた。

 唯蓮は不愉快だと言いたげに鼻を鳴らす。

「シド、覚えておけ」

 唯蓮の声に向き直ると彼は眉根を寄せ、忌々しげに砂を睨みながら顎で桂花を指した。

「これがコイツの本性だ。下僕の癖に私を試すようなことばかりする…」

「ご自分で思い出さねば意味がありませんよ、唯蓮」

 シドは話が見えないと二人を交互に見る。唯蓮は黙ってどこかに向かい始めた。桂花はそれを追うことはせず、シドに向き直る。

「貴方にも、そろそろお伝えせねばなりませんね…」

 言った彼の瞳が、どこか憂鬱気に揺らいで見える。シドは黙って桂花を見た。

「もう気付いているでしょうが唯蓮はこの世界ができた頃から生きています」

 気付いてなど居なかった。シドは飽きれ交じりの弛緩しきった顔で桂花を見た。桂花は逆に驚いたように目を見開く。

「…まさか気付いてない?あの人は紀元前の人物との約束を果たしに来ているんですよ?」

 言われてシドは、それらが自分がしたように、誰かの意識に同調した夢や、感応能力によるものではないことを知った。実際に会って、誰かと約束していたというのか。

 言葉も出ないといった顔で桂花を見上げるシド。桂花は困ったように笑いながらそっと唯蓮の向かった方向に目を向ける。

「…けれど唯蓮は遠い昔に多くの記憶を封じてしまった。私のことすら覚えてなかったんです」

 その背はもう見えない。桂花は遠い過去を思うように目を細め、そのまま黙した。シドは驚き半分疑い半分で桂花の表情を伺いながら控えめに呟く。

「とてもそんな風には見えないよ?」

言うと、彼は笑った。彼らしくない明確な笑いだった。いつも口元に張り付いた薄い笑みではなく、胸の奥から滲み出るような笑顔。何故か泣いているようにも見えた。

「私が嫌がる唯蓮に思い出させたのです。彼は世界各地でいろんな人と約束をしたままそれを忘れてしまった。だから…こういう仕事をして、過去を清算しようとしているんです」

 約束を破り過ぎているから。と付け足して、桂花は唯蓮の後を追って歩を進め始めた。向かうのはテーベの方向だと呟きながら、見えない足跡を追う。遺跡を抜け、岩肌のむき出しになった砂漠地帯へ出る。

 見出したその背はかなり小さくなっていた。炎天下、焼けるように熱い体を引き摺って、シドは桂花に続いて唯蓮の後を追う。

 視界が揺らぐような熱気、白く染まる大地。どこまでも青い空と、幾ら追いかけても縮まらない距離。目が眩む。以前ならすぐに倒れていただろうと思うが、シドの意識は遠のくことはなかった。この体が以前と違うことをシドはようやく実感する。

 そうして、一時間も歩いただろうか。

 砂漠のど真ん中で唯蓮が立ち止まるのが見えた。ガクリ、と折れた膝は地に付き、その体はぐらりと傾ぐ。シドは慌てて駆け出そうとするが、勿論無駄だ。到底間に合わない。その体が地に付く…思った瞬間

「!」

 真横を疾風のように通り過ぎた何か。いつの間にか視界には二つの影。膝をつく桂花と、その腕の中で意識を失っている唯蓮だ。シドは慌てて駆け出す。息をつきながらその傍らに辿り着いた時にはシャツが汗で張り付いて散々な有様だった。覗き込んだ唯蓮は虚空を睨んでいる。意識はあるのか?ないのか。まさか彼に限って日射病というわけでもあるまい。

 じっと見つめる瞳の青。その深さに惹きこまれるような気がした。

 刹那―――。

「シド?」

 遠く、桂花の声が聞こえた気がした。青い瞳。それと同じ青い、青い渦に呑まれるような気がして、たまらず目を閉じた。

 そしてそのまま、シドは砂のベットに伏す。

 暑い太陽が照り付けていた。

 

*


 暗い空を見上げる人々が見えた。不安と恐怖の入り混じった顔をしている。

 シドたちとは違い、よく日焼けした肌に、薄い着物。装束の形態から現代の人間ではないことがわかる。

 視界は暗い。夜だろうか。あたりを見回すこともなく、地面に降り立った。衆目の中、空から降り立ったというのに、彼に驚きの声をかける者はない。注意を向けるものはない。

 たった二人を除いて…。

 小さな男の子を抱えた男がいた。その男と、その腕の中の子供だけがしっかりとこちらを見ている。目が合った。その瞳にはえも言われぬ色がある。

 心の震え。それは感動だ。人目も気にせず彼らは膝をつく。民のうちで最も美しい装束を纏い、最も高貴な立ち居振る舞いをしながらも、彼らだけは膝をついた。

「アテンの神よ」

 男は言った。傍らに降ろされた男の子は男を真似て膝をついたまま、じっとこちらを見つめている。

「アテンの神よ、どうぞ我らをお救いください」

 自分はそんな力はない。いつもなら戸惑うけれど、シドは感じる。頷く自分を。

 また、誰かに感応している。誰だろう…。

 思っているうちに急激に視界が白く染まった。そしてすぐ、黒く反転していく。

 一度訪れた闇。

 徐々に戻る光とともに、寂れた街の風景が見えた。

 同じ場所だ。そして、そこには一人の少年が立っている。先ほど腕に抱かれていた子供だと思ったのは直感だった。面立ちがよく似ている。彼はやはり確りとこちらを見ていた。

 自分は同じように空から降りるけれど、今度は傍らに従者を連れている。

 悠然と笑むと少年は驚いたように目を見開き、すぐに地に伏した。

「兄君はどうした?」

 自らが発したその声に驚いて、シドは目を見開いた。その声は紛れもない、唯蓮のものだったのだ。慌てると同時に自分を知覚してしまった彼は、同調していた唯蓮から離れてしまった。

 しかし、そこで目覚めはしない。結局、そのまま、第三者として事態を傍観することとなった。

 離れてみればなるほど。今より少し若い気はするが、それは間違いなく唯蓮だった。寄り添う黒のジャッカル…違う、アヌビスだ。唯蓮はエジプトの神様だったのか?俄かに信じられない。ただ、口を出すにも声を出す体がない。ここは誰かの意識の中だ。

 シドは注意深く二人と一匹を見つめた。

「皆死にました。次は、私です」

「顔をあげてもいいよ。君は私と同じだね」

 労わるような柔らかな言葉。アヌビスが小首を傾げ、主を仰ぐ。その仕草に誰かを思い出した。すぐには判らなかった。

 けれど、じっと見つめるうちに気付く。どことなく、桂花に似ていた。

「アテン神は全能の神ではあられないのですか」

 唯蓮は悲しげに首を横に振る。そして、再度促した。

「体を起こして、私を見なさい」

 少年は漸く身を起こす。

 憔悴した顔。どこかで見たような…。少しして気付く。襲われる直前に見た夢で、縄を切り、笑いかけてくれたのはこの少年ではなかっただろうか。

 立ち上がった彼の膝元を、唯蓮のしなやかな指が払う。その爪は今のような毒々しい黒ではなく、花の咲くような淡い桃色に染まっていた。

「私は唯一の神の多くある息子の一人。だが、兄弟は殺し合い、どんどん数が減っている」

 内緒だよ、と囁きながら、唯蓮は少年の手を取った。

「一番上の兄が死んだ時、ここよりずっと西で聖なる山が爆発した。空が暗くなったのはそのせいなんだよ」

 私にできたのはそれを治めることだけだと囁いて、唯蓮は悲しそうに目を伏せた。頼りない神であると、そう自嘲しているようだった。

「この世に全能というものはない。私たちは君より多くのことができるだけの、異質な生きものだ。けれど、君が望むのなら」

 言った唯蓮を諌めるような仕草をするアヌビス。唯蓮は彼の方を向いてゆっくりと首を横に振り、少年に向き直った。

「できることがあるかもしれない」

 少年の目に失望はなかった。悲しみはいや増したがそれだけだ。それを見て取ったか、唯蓮は寂しげにだが笑った。

「私も私が不甲斐ない。最も未熟なのだ」

 末弟だから一番力が弱い、と付け足して首を傾げる彼は、今のような擦れた小意地の悪さを持っていなかった。暴きたくて暴いているわけではないが、なんとなく唯蓮に悪い気がして、シドは苛々と足を踏みならす。

 それでも勿論、目前の二人は気付かない。

「私のところに、異国から送られてきた奴隷が居ます」

 少年は静かに語り始めた。シドは思う。恐らく、屋敷で同調した少年霊のことだと。そうするとこの少年が主になるのだろうか。身形もいい。きっとそうだ。見つめる先で少年は俯き、言葉を探す。

「私はきっと殺される。いつかそうなったら…彼に行き場はない。殺されるかもしれない」

 彼は言葉を切り、確りと唯蓮の目を見た。唯蓮は黙って続きを待つ。

「どうか、彼が若くして死んでしまったら、その魂を永遠に…」

 少年の頬を涙が伝う。未来を悲観してか。しかしそれは単なる虚像ではなく、殆ど確定した実像としてしっかりとそこにあるのだろう。

 唯蓮は悲しげに眉根を寄せて頷く。

「約束しよう。その者の安息を」

 言うと、少年は安堵の息を漏らし、薄い笑みを漏らした。

「…神にお願いをするにも私には供物を得る力がありません。しかし」

 少年は言いながら握っていた錫杖を差し出した。シドは漸く気付く。それが、旅立つ前日唯蓮が握っていたそれであることに。

「私が持ちうる最高の物です」

 唯蓮は静かにそれを受け取った。

「忘れぬよう、契約の証として預かろう。いつか――」


 相見あいまみえる、その時まで。

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