第4話 夢

 詳しい話といっても特に何もなかった。買い取った様々な骨董品。それ以後起こり始めた怪奇現象。実体のある彼らと違い、所謂霊のようなものであること。そしてそれが少年であること。

「毎晩現れますからここに居てくだされば判りますわ」

 婦人はそう締め括り、話はそれまで。部屋に引き上げてからかなり経つ。外を眺めようとしたが、暗くて何も見えない。多分夜も更けているのだろう。

 時差ぼけでよくわからないが、眠たいのは確かだった。

「退屈だな…」

 思わず漏らすと、背後で桂花が笑う。

「そうも言っていられませんよ。本物が居ますからね」

「ユーレイ?」

 おっかなびっくり問いかけると、桂花は浅く頷く。

「危害は加えて来ないはずです。未熟なものですからね。…今夜が勝負でしょう」

 言った彼は上着を脱ぎ、ハンガーにかける。そしてそのままドアの方に向かった。

「休んでいてください。唯蓮についていますから」

 戻ってこないだろと予想しながらシドはお休み、と声をかけた。桂花は寝ないといったら本当に寝ない。唯蓮と何かが起きるのを待つのだろう。一瞬ついていこうかと思ったが、邪魔になるのは明白で、シドは大人しく寝具に包まった。明かりを消す。

 ドアが閉まる気配がした。

 シーツからは薔薇の香りがした。ベットメイクも完璧。こんなふかふかのベットに寝るのははじめてだ。横を向き、丸くなりながら深く息を吐く。慣れない気候に疲れたシドはすぐに浅い眠りをさまよい始めた。


*


 はじめに聞こえたのは、子供の悲鳴だった。すぐにそれが自分の声であると気付く。浅黒い肌の男たちに荷物のように抱えられ、投げられる。覚悟した衝撃はなく、妙にふわふわした感覚が残る。

 揺れる視界。船の上か?耳慣れない言葉、音は暫くして消え、変わりに光が訪れた。

 砂の大地。巨大な神殿。それらが見える砂の上で、手を縛られ、転がされて、恐怖に震えた。男たちは荒々しく何かを捲し立てていたが、一喝されて立ち去って行く。

 もっと恐ろしいものに引き渡されたのか?そうは思ったが、その声は大人のものではない。混乱しながらあたりを見回す。

「――?」

 声を掛けられたようだ。反射的に見上げた先に少年が居る。少し離れた所からこちらを見る彼は、浅黒い肌をしていた。端正な顔立ちだが、無表情だ。恐怖を覚えて竦むけれど、逃げも隠れもできない。

 運んできた男の遠のく気配もやがて消え、その場に二人きりとなった。今からどうなるのかわからない。目前に居るのが子供だからといって安心はできない。目を硬く瞑って息を殺す。体が震えているのが判った。

 少年は周りを見回すとゆっくりとこちらに近づいてきた。跪き顔を覗きこみながら早口で何かを言う。言葉がわからない。首を横に振ると、彼は黙って腰から短刀を抜き、腕を縛る縄目を解きながら、自らの胸元を指した。

「トト・アンク・アメン」

 名前だろう。直感したが、乾いた唇で反芻できたのはトトの部分だけだった。やにわに、はにかむように笑った彼は、首を横に振り、今度は別の単語を口にする。

「ペル・アア…」


*


 そこで途切れたのは、現実の声に驚いたからだった。ドアの向こうから、微かに聞こえる。

「きましたよ、唯蓮」

 妙に落ち着いた桂花の声。そして、二つの足音がゆっくり遠ざかる。彼等を追おうか。迷っているうちに、シドは妙なことに気付いた。遠ざかった気配は二つ。…しかし、室内に何者かの気配があるのだ。

 慌ててシーツを剥ぎ、辺りを見回す。手指に生暖かい汗が滲んだ。自分に何ができよう?恐怖で身が竦む。何の武器も持っては居ない。

 夜、勝手に室内に入って声もかけてこない人間なんて、知り合いではないことは確かで、今もじっとこちらの気配をうかがっているようだ。否、そもそも人間なんだろうか?あの二人に限ってまさか、とは思ったがひょっとして、霊は逃げたのではなくこの部屋に入り込んだのでは?

 カーテンが揺らめく。閉めたはずの窓が開いていた。薄明かりに照らされた室内に、白っぽいものが翻る。

 来る!思ったときには遅い。首元を締め上げるのは人の指ではない。蜘蛛の糸のような細いものが巻きつけられている。声がでない。ギリギリと凄い力で締め上げられて、直ぐにも首が折れてしまいそうに感じた。

 白い影は見えるが、驚いたことに力を入れて震えているわけでもなく、両の腕を掲げるようにして平然とシドを吊り上げて居る。

 人間ではない――。そう直感する。

 ゆっくりと、腕が下がっていく。どさ、とベットに倒れこんだシドの上に、白い影が覆い被さってくる。

 二人はどこかに行ってしまっている。助けは来ない。絶望的だ。

 もう、駄目だ。

 目をギュッと瞑るとすぐに、首元に硬いものが押し当てられた。それがなんなのか、よくわからない。少し尖っていて、小さなものとしか思いつかない。

 なんだか恐ろしい予感がする。何とか押しのけねば、と思ったときには遅い。

 ずぶっ、と皮膚が破れる感触がして、首筋に宛てられていた何かが突き刺さる。慌てて口を開くけれど酸素は入ってこない。空を掻く指に触れるものもない。

 声もなく、シドは意識を手放した。

  


*


 

「トースト、食べられますか?」

「…痛!」

 反射的な言葉で、返事をしたつもりはなかった。その言葉が何を意味するものなのかもよく判って居なかった節がある。

 全くかみ合ってない言葉にもかかわらず、すぐに返答があった。

「申しわけない。あなたから目を離したのは私の落ち度でした」

 誰か喋っている。思いながら目を向けると傍らに唯蓮がいた。といっても唯蓮がそんな殊勝なことを言うはずもない。逆を向き直ると桂花が立っていた。

「刺し傷と擦過傷、全治…」

 いいながら彼は脈をとる医者のように腕時計に視線を落とす。そして言い足した。

「あと四時間ですね」

 シドは慌てて起き上がり辺りを見回した。昨日と変わりない室内。ただし、朝日が差し込んでいる。

「また助けてくれたのか?」

 二人を交互に見ながら問うが、唯蓮は首を横に振る。

「部屋に戻ったら倒れていた。よかったな、ひょっとしたら骨の一片も残ってなかったかもしれない」

 珍しく無邪気な笑顔を見せる唯蓮が恐ろしい。息を詰まらせながら首に触れると、緩く包帯が巻いてあった。

「引っ掛けて締め付けないように注意してください」

 多分死にます、と桂花は付け加えながら、ベットの上に食事の乗ったトレイを乗せてくれる。驚いて回りを見回すと唯蓮は椅子を引っ張って座り、桂花は回り込んでその傍らに立った。

「食べながらでいい。何を見たか話せ」

 要するにそれは、飴と鞭の尋問だった。

 食事を取りながら、襲われた顛末を簡潔に話す。眠っていたから抵抗が遅れたこと、相手は何も言わなかったこと。脅迫目的でもなく襲い、殺さずに逃げた。それが何を意味するのか、シドにはよくわからなかった。

「夢は見た?」

「エジプトっぽい夢だった」

「話してください」

 促され、言葉を繋ぐ。漠然とした夢で曖昧な表現が多くなったが、唯蓮は怒りはしなかった。

「…やはり」

 桂花が呟く。何がやはりなのか、さっぱり見当もつかない。シドは二人の表情をじっと眺めたが読み取れるものは苦悩のみ。黙っていると、唯蓮が口を開く。

「待ってるんだ、誰かを」

「…」

 桂花は黙ってチラリ、と唯蓮を見る。唯蓮は指を噛みながら苛々と足を組んだ。正直言って怖い。シドは話題を変えようと問いかける。

「何か手がかりはあった?もう捕まえたとか?」

 唯蓮は応えない。代わりに、桂花が口をはさむ。

「霊は意識体ですから物理的な束縛は無理ですよ」

 シドはますます混乱しながら、ちらり、と唯蓮を見た。今日も様子がおかしい。いつもの余裕が感じられない。

「名前は覚えてないんだな?」

 唯蓮の問いが指すのは、恐らくシドの見た夢の中身だ。二度名乗ったと思われる彼の最初に発した三つの単語。シドは首を横に振る。

「トトがついた」

「曖昧で涙が出るな。でも多分…」

 唯蓮は再び言葉を切り、考え込む。シドは居心地悪げに身動ぎしながら桂花を見上げた。彼は相変わらず薄笑みを浮かべるだけで、特に言葉を発しはしない。桂花は何か知っているような、そんな気がした。

「あの夢に意味はあるのかい?」

 小声で桂花に問う。桂花は小さく頷いてちらりと傍らの唯蓮を見た。彼が目を伏せ、考え込んでいるのを見つめながら、静かに答える。

「感応したんだと思いますよ。昨日現れた彼の意識に」

「…」

 そんな大それたことだったとは。目を丸くしていると唯蓮が小さく鼻を鳴らした。

「どうもおかしい。アレは悪霊ではなかった」

 彼が言っているのは多分、件の幽霊のことだろう。悪霊ではないといっても現にシドは襲われ、あと四時間の怪我だ。思ったが口には出さず、唯蓮が吐き出す言葉に耳を傾ける。

「彼らは礼儀ただしい――なにより」

 肘を突いて顎を支えながらも、その視線は思索の海に沈むように伏せられていく。

「あの子は死んだ」

 呟いた唯蓮は立ち上がり、二人に背を向けた。細身の体は音も立てずに室内を歩き回る。

「しかし体は…確か博物館にあったはずだ。辱めを受けるいわれはない。いや、彼は’あの子’ではないか」

 桂花は黙っている。シドはただ、唯蓮の動きを目で追った。部屋の隅から隅へ、早足で進む彼は突如、立ち止まって姿勢正しく向きを変える。

「約束…なんだった?」

 唯蓮は誰かと約束をしていた?そういえばここについたときもそんなことを呟いていた。徘徊する霊、危害を加えるはずがない彼、約束を思い出せない唯蓮。

 約束?誰との?そして、

 『あの子は、死んだ?』

 誰が?

 幽霊のことだろうか。わからない。唯蓮は苛々とベット脇に立つと、唐突に言った。

「博物館だ。急げ」

 シドは一瞬硬直したが、数秒の後、慌ててベットから飛び起きた。

 シャツを掴む。ボタンも一つ飛ばしでかけ、ネクタイを締める暇もなくズボンを履き変える。連れて行く気なのは有難いが彼は遅いと感じれば容赦なく置いていく部類の人間だ。

 ひとりでこの屋敷にいる勇気はさすがになかった。

 階段を降りながらネクタイを締め、丁度通りかかったサミーラを呼び止める。唯蓮が用件を告げた。

「エジプト博物館へ行きたい」

 言うと彼女はすぐに車を呼びにでてくれた。その後を追い、玄関先に出ると、少しして車が滑り込んでくる。

 三人共、ものも言わずに乗り込む。


 車は勢いよく滑り出した。

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