もちまわり

 貴方には秘密がある。

 とても人には言えない秘密だ。

 貴方は一人暮らしを始めてからその秘密に”気づいた”。そして貴方の一人暮らしは”ひとり”ではなくなった。

 最初は気のせいだと言い聞かせ、顕著になってくると酒に酔った、疲れている、寝不足だのと言い訳をひねり出し、最終的には己の正気を疑った。

 貴方が幸いにも正気を保ったまま、秘密と共存を続けていられるのは、”秘密”が友好的な性格であるおかげだろう。最初の戦慄は、もはや笑い話になりつつある。


 貴方は鏡の向こうのあなたと、実に仲良くやっている。


 ***


 帰宅すると貴方は鞄を置くのももどかしくただいまを言う。ちゃぶ台に置かれた鏡に映るあなたはすでに部屋着で、軽く片手を上げて「おかえり」と迎えてくれた。貴方も手早く着替えるとあなたと寸分違わぬ格好になり、薄い座布団に座って缶酎ハイをあける。水滴がつき始めた缶を、卓上鏡にそっとぶつける。


「乾杯」

「おつかれ」


 口の動きだけが違った。それ以外は”鏡写しのように”貴方たちは見つめ合い、同じ動作で缶を口に運び、喉を鳴らして旨そうに飲んだ。「嗚呼」感嘆のタイミングも一緒だ。


「今日はどうだった」

「ちょっとアレなことがあってさぁ」

「聞かせてよ」


 興味津々の様子で身を乗り出してくる鏡のあなた。そんな姿勢だから、貴方の語り口にもついつい熱が入る。先輩のミスを貴方のせいだと勘違いした上司に指摘を受けたこと。最近異動してきた同僚が使えないこと。言ってしまえばテンプレート通りの愚痴で面白さもクソもないのだが、鏡のあなたは真剣な顔で聞き入り、欲しいところで相槌を打ってくれる。貴方が気持ちよくなる意見もくれる。冗談めかせばしらけず笑ってくれる。

 いつの間にか貴方は二本目の缶を開けている。コンビニ限定の新商品だ。鏡像であるあなたも同じ缶を開け「この味初めてだ」とはしゃいでいる。

 鏡のあなたは、貴方に非常に近い。貴方と同じ食事を喜び、貴方と同じ酒を好む。貴方は一度「何か食べたいものはないか」と聞いてみたが、返答は「そっちの好きな物が好き」だった。

 鏡像だから嗜好の一致は当たり前なのかもしれない。だが貴方は他に「鏡像の自分」を持っている人物を知らないので、中には本体と気が合わない鏡像もいるのかもしれない。

 それを確かめる術はない。これは絶対の秘密だ。知られたら檻のある病院に投げ込まれてしまうか、怪しい研究所でモルモットにされてしまうに違いないのだから。

 だから貴方は鏡像の存在が露見することを恐れる。

 同時に、鏡像が”いなくなって”しまうことも恐れる。

 家族と一緒に住んでいたときは、一人になりたくてなりたくて気が狂いそうだったのに。

 いま貴方は「おかえり」を言ってくれる鏡像を、心から必要としていた。


 ***


 最初は風呂場だった。

 貴方が越してきた当初から風呂場の鏡はひどく汚れており、いろいろと試してみたが改善されたようには見えなかった。今でも定期的に磨いているが、輪郭と色がなんとなくわかる程度しか映らない。

 その鏡の、映り方が変なのだ。

 勿論鏡が汚いので、はっきり何処がおかしいとは言えない。

 貴方は気味悪く思ったし疑問に感じたが、振り返っても何もない。光の反射だとか疲れ目だとかを理由に掲げ、貴方は違和感を踏みつぶすことで己の常識を守っていた。

 次は洗面所だった。

 当然洗面所の鏡に向かって歯を磨いたり顔を洗ったりするわけだが、奇妙な現象がぽつぽつ起こりだした。

 頻発したのは、鏡像と目が合わないことだ。

 鏡に焦点を合わせると、向こうが急いで追いついてくるような感じなのだ。最初はこちらも疲れ目で片付けようとしたが、貴方は浴室でのことと重ね合わせて戦慄した。

 この鏡に映っているのは、自分ではないのかもしれない。

 それが妄想に属する考えであるという自覚はあった。しかしそうでなければ納得がいかなかった。

 そしてある日、決定打がやってくる。

 貴方は風呂上がりで、ドライヤーを使っていた。しかし、手が滑って取り落としてしまったのである。思わず「あっ」と口に出し、反射的に下を見た。そのまま拾っておけば良かったのだが、貴方は視界の端の違和感に吸い寄せられて、視線を正面に戻した。

 鏡像のあなたは、ドライヤーを持ったままだった。

 動けないまま見つめ合う二人。

 床で温風を吹き出し続けるドライヤー。

 やがて、ばつが悪そうな顔で、鏡像はドライヤーを落とした。

 

 ***


 それから数日、貴方は鏡を見ないように暮らした。洗面所にはチラシを貼り、風呂場の鏡はブルーシートで塞いだ。卓上鏡は伏せ、顔が映るのを恐れてカーテンを引きっぱなしにした。

 実際に見たのは風呂場と洗面所だけだが、それ以外にまでついてこない理由はない。エレベーターがなかなかに鬼門だった。中に鏡がついているものが多いからだ。ガラス張りの建物も危ない。貴方は極力目を伏せて過ごした。よく磨かれた車に自分の姿が映り込んだときなどはぞくりとしたものだ。見たくないのに、瞬きのタイミングが違いやしないか、手の置き所が違いやしないかとつい確認してしまう。

 貴方は目に見えて消耗した。普段意識せずとも、姿が映る物というのは実は溢れているのだ。その膨大な「恐るべきもの」を休む間もなく恐れていれば、消耗するのは火を見るよりも明らかである。

 ある夜、貴方は半分寝ながらスマートフォンを弄っていた。読み込みが遅いので再起動を試みて、画面をぼうっと見つめながら機動を待っていた。

 真っ暗な画面に、貴方の暗い顔が映っている。

 そのことに気づいた途端、鏡像は閉じかけていた瞼をしゃんと開き、手が届くならばすがりついてきたであろうという様子で”喋った”。


「ごめん、まさかこんなことになるとは思わなくて……」


 ***


 さすがに非常識きわまって、貴方は動揺も恐怖も飛び越えてしまった。ひょっとしたら、あの晩貴方は狂ったのかもしれない。しかし、誠心誠意謝罪してくる鏡像を見ているうちになんだか申し訳なくなって、別にいいよと言ってしまったのであった。その一声で鏡像は、主人を迎える犬のように喜んで、ありがとうと言ったのだった。

 鏡像は家の中でしか話しかけないという約束を向こうから持ち出し、貴方もそれに同意した。そして貴方はエレベーターの鏡にもガラス張りの建物にもおびえなくて済む暮らしを手に入れた。

 同時に話し相手も手に入れた。むろん貴方とて友達が居ないわけではないが、致命的な共有事項があるとやはり話が進む。鏡像のあなたは貴方の生い立ちからなにから全てを把握していた。家でつまらなさそうにしていると鏡像のほうから積極的に話しかけてくれるし、かといって自分語りをするでもなく貴方に喋らせてくれる。そして貴方の話を真剣に聞いてくれる。どれだけくだらない、つまらない話であってもだ。

 これで仲良くなるなというほうが無理であろう。貴方と鏡像は急速に親しくなっていった。鏡像は鏡像であるからして、鏡に映ったものにならば触れることができる。酒もつまみも一人分でサシ呑みができるのだ。そして相手は聞き上手な”自分”である。盛り上がらない方がおかしい。

 没入する相手ができたせいで仲間同士の飲み会は欠席しがちになり、恋人ができたかと勘ぐられ、それを否定する日々。恋人なんて何になろう、この素晴らしき理解者の前では。

 今夜もコンビニの缶酎ハイと乾き物で、貴方は鏡像と語り合った。傍から見れば貴方が愚痴をこぼしているだけなのだが、鏡像は煙たがるそぶりを見せず、貴方にそうと気づかせない。あなたはただ、気の合う友人と対等に話をしているつもりだった。


「……で、……だから、嫌になるよ。鏡の中はどうなの」

「別に。鏡は鏡だから、薄っぺらで退屈だよ。だから話せるのを楽しみにしてるんじゃない」

「気楽でいいなあ」

「そうかなあ。そっちの方が面白そうで羨ましいよ」


 貴方はもうだいぶできあがっていた。明日が休日であるのをいいことに、ロング缶を二本開けていた。今まさに三本目を開けるところだ。


「じゃあ代わってよ」

「本気?」

「本気本気。楽そうだし」

「わかった、”代わろう”」


 鏡像が手を差し伸べてくる。

 貴方も手を伸ばした。

 いつもなら冷たい鏡に阻まれて、触れあうことはできない。何度も指を重ねて笑い合ったから貴方は知っていた。

 それがどうだ。

 今夜、板子一枚向こうの地獄は、”板”を噛み砕いて貴方に牙を剥いた。


 ***


 あなたは頭を押さえながらゆっくり起き上がった。外が薄明るい。呑みすぎて、こたつで寝てしまったらしかった。身体のあちこち、特に頭が痛い。二日酔いだ。休みだからいいようなものだが、それにしたってやりすぎた。反省する。飲み会ならまだしも、一人でこれだけの呑むなんて。

 そこまで考えて貴方は疑問を抱く。ひとりじゃない。誰かと一緒に居たような気がする。友人を誘って宅呑みをしたのか。それにしてはゴミが少ない。そもそも自宅に呼ぶとしても、何人かで集まるのが常だ。なのに記憶では二人だった。

 洗面所に向かうあなたは気づかない。

 卓上鏡の中から、暗い表情の貴方がその背を見つめていることに。


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未発表作品

2017年執筆

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