第9話 ハートブレイク

 雨が降ってきたのは、その時だった。

 ぽつりと頭の上に落ちたかと思えばすぐに雨足は強まり、まるでスコールのように地面を打つ。


 ルンコはどこかぼんやりと、空を見上げていた。凛太朗は咄嗟に彼女の手を取り、雨宿りのために走る。


 広場の片隅に、象の形をした古びた滑り台がある。そのコンクリートの塊は中央がくり貫かれていて、小さなトンネルのようになっていた。

 凛太朗はルンコを連れて、そこへ避難する。


 凛太朗とルンコが身を寄せてやっとおさまるくらいのスペースしかない。


「……ずぶぬれ、だ」


 そう呟くルンコは、凛太朗の目線のすぐ下にいた。手は繋いだままだった。

 ルンコは額や頬に垂れた雨の雫を片手で拭っている。濡れた衣服越しに、体温が伝わってくる。


「ルンタロー、写真、見たいぞ」


 少し鼻をすすりながら、ルンコが微笑んだ。

 凛太朗は急に胸が詰まって、うまく返事ができないまま頷いた。


 二人でスマートフォンのディスプレイを覗き込んで、その日撮った写真を眺めた。


 いきなり激写されて驚いたルンコの顔にはじまり、変顔のオンパレード、からの、白目を剥いた凛太朗とのツーショット、ボーリングではしゃぐ姿に、ビリヤードのキューを持て余しているところ、ステーキを頬張りながらの満面の笑み、そして色とりどりの花火、その光に照らされた横顔。


 彼女と過ごしたのはわずか数時間ばかりのことなのに、なぜこれほど胸が苦しくなるのだろう。


「……たくさん思い出できたじゃん」

「でも、この写真は、あたしがいなくなったら、消えちゃうんだ」


 ディスプレイを指でなぞりながら、ルンコがぽつりと告げた。


「ええ……?」

「あたしが時空の迷子だから。誰かの記憶に残れないから。まえにも写真撮ってくれた人がいて、そのときも、消えた。……今まで、言い出せなくて、ごめん」


 ルンコは凛太朗の手を放してから、ぺこりと頭を下げる。

 凛太朗はなにをどう言ったら良いのかわからず、ただルンコを見つめた。

 彼女の言葉をどう捉えたらいいのだろう。


「でも、もしあたしが、時空の迷子じゃなかったとしても、どのみちルンタローは、あたしのことを、だんだん忘れていくよ」

「なに言って……」

「忘れたくない、絶対忘れないって、どんなに強く思ったって、すこしずつ、すこーしずつ、忘れていくんだよ」


 凛太朗は冷や水を浴びせられた気がした。

 忘れてしまうというのなら、それは彼女自身にこそ言えることなんじゃないのか。

 そして、凛太朗が予想した通りの言葉が続く。


「あたしの中のルンタローの記憶だって、長い時間をかけて、ゆっくりと、曖昧になっていくんだよ」


 そんなことをあらかじめ宣言されて、ハイそうですね、なんて言えるわけがない。残酷すぎやしないか。


 忘れたくないと思うのなら、なぜ忘れてしまうのか。凛太朗にはルンコの気持ちがまるで理解できない。

 たぶん、どれだけ考えたってわからない。今の自分じゃ、わからない。──だから彼女を繋ぎ止めることができないのだろうか。


 俯いたルンコはまたあの憂いを帯びたような目をしていた。

 電波少女とは思えないほど大人びて見える。それこそ本当にたくさんの時を超えてきたみたいだ。


「ああもう、なんだよ……」


 凛太朗は頭を抱えて呻き、それから勢いよく顔を上げる。コンクリートの天井に思いきり脳天をぶつけた。


「だいじょうぶか、しっかり、しろ」


 ルンコが凛太朗の頭を撫でた。

 凛太朗はどうにもやりきれない気持ちになって、彼女の手を取ろうか迷う。それでもやっぱり手を伸ばしたかった。

 小さな手をぎゅっと握る。


「こうしとけば、勝手に他の時空に行くとかできないし」


 ほとんどやけになってそう言うと、ルンコは曖昧に笑った。

 凛太朗の手の中で、彼女の指が動く。解かれるかと思った。だがルンコはそのまま五本の指をからめて、繋ぎ直す。


「ルンタローに会えて、たのしかったぞ。うれしくて、しあわせだったぞ」

「……俺もだよ」


 組まれた二人の手を見て凛太朗は、なんだか不器用な祈りみたいな形だと思う。

 ルンコがぽつりと呟いた。


「いつか、たしかなものが、ほしいな」

「ルンコ、言わせてもらうけど、俺は絶対、お前のこと忘れな──」


 その時だった。あまりに唐突に凛太朗の視界が靄がかる。そのまま麻酔でもかけられたみたいに意識が朦朧として、急速に遠退いていく。抗えない。


「ルンコ……?」


 ルンコの手をぎゅっと握り締めた感覚を最後に、凛太朗は深い眠りへと落ちていった。

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