第7話 「黒き獣」
現れたのは、全長4メートルはありそうな黒い獣。
獅子を彷彿させるかのような頭には、鋭い牙と太く発達した湾曲型の角。背中まで伸びているたてがみは灰色で、他の部位の毛よりも硬度が高そうに見える。手足の鋭利な爪は地面を掴むために発達しており、尻尾の先端には凶悪な輝きを放つ刃がある。
おそらく肉食獣が変異した魔物だろう。
だがここまで巨大なものだと、元になった肉食獣も大型だった可能性が高い。
「グルルル……」
黒獣は低く唸りながら山頂への道を塞ぐようにして距離を詰めてくる。
周囲は木々で囲まれており、そこに入り込めば黒獣の狩場に身を投じるようなもの。策もなしに行ける場所ではない。かといって後方は崖。唯一の退路は吊り橋だが、急いで渡ると足場が崩れる可能性もある。また橋を落とされるようなことになれば、崖下に真っ逆さまだ。
どうする……。
現状況で言えば魔物の方が有利だ。強靭な身体を持つ魔物は多少のことでは死にはしないが、俺達はあの牙や爪で引き裂かれるだけで絶命する。
それにもしかすると……こいつは俺達がここに来るまで待っていたのかもしれない。
多少なりとも知能があるとなれば、一度引いてきちんと作戦を考えた方がいい。しかし、下手に背中を見せれば間違いなく殺られる。
「あはは……これは思ってたよりやばそうかもぉ」
「やばいとか言うならにやけるな!」
「先輩、小声で怒鳴るとか器用だねぇ」
「
魔物を目の前にすると固まってしまうといったことを言っていた気がするが、今のところオウカの顔に過度な緊張は見られない。
退魔の刀を手にしたことで多少は改善されたのか、それとも仲間が居るために安心しているからなのか。
明確な答えは今は分からないが、動けないことはなさそうなので不安材料はひとつ消えたことになる。
「下手に逃げれば崖に落ちて終わりだ。俺とハクアが適度に戦って注意を惹く。その間にオウカとアシュリーは橋を渡れ」
「ちょっルーくん、あたしも一緒に戦……」
「先輩」
咎めるような感情の乗った声にアシュリーは口を閉じた。
ハクアが多少なりとも感情を出していただけに、彼女の言おうとしていることを理解したのだろう。
「アシュリー、今すべきことは戦うにしても安全に立ち回れる場所に移ることだ。だから今は言うことを聞け」
「……うん。分かった」
「隙を見て逃げろよ」
言い終わるのと同時に地面を蹴った。黒獣の左側へと回り込む。
ハクアもほぼ同時に動き始め俺とは反対側へ回っている。長年傭兵として活動していただけあって、こちらの意図は理解してくれているようだ。
最優先は時間稼ぎ。
だが出来ることなら攻撃手段やその威力を確認しておきたい。可能ならば部位ごとの肉質も知っておきたいところだ。それを知っているのと知らないのとでは、立ち回りに大きな違いが出てくる。
黒獣は迎え撃つつもりでいるのか、俺達に気は配っているように見えるがその場を動こうとしない。
ならばこちらも手を出さず……、という考えも浮かぶが、それが理由でアシュリー達を標的にされても困る。
注意を惹く意味でも一撃入れる。
そう決めた俺は、魔法で身体能力を最大まで高めながら一気に踏み込んだ。
「ッ……!」
無声の気合と共に放った居合いは、黒獣の前足に直撃する。
斬れたのは表面だけ。伝わってきた手応えから判断するに体毛が硬いわけではない。だが幾重にも重なっているようで、皮膚に辿り着くまでに威力が殺されてしまうのだ。
となると……。
背中に伸びているたてがみは通常の体毛より見るからに強靭。死角から攻撃を防ぐ鎧として機能するはずだ。
俺の刀でも通るか分からないだけに狙いなら背中以外。それでいて同じ場所を何度も攻撃して傷口を広げるしかない。
「グルゥ……!」
煩わしいものを払うように黒獣が前足を振るう。
屈むことで回避。黒獣からすれば軽くひっかくつもりでやったことなのかもしれないが、肌を撫でた風圧からして十分致命傷になり得る。
本当に人間の身体は脆弱だ。もう少し頑丈なら寿命を削っているような感覚も和らぐだろうに。まあそれ故に人間は人間なりの強さを身に付けたわけだが。
「そ~い!」
気の抜けた声を発しながらハクアは跳躍し、身体を捻って勢いを付ける。すれ違いざまに抜刀し、黒獣の角に一太刀入れた。
黒獣の意識がハクアに移ったところを見計らって俺も一度距離を取る。
「手応え……あるわけないよねぇ。とゆか硬すぎ」
「ふざけてる場合か」
「いやいや、これでも緊張感マックスだよぉ。新人騎士に任せる仕事じゃないよね。無事に帰ったらお爺ちゃんに文句言いたくなるよぉ」
だったらもう少しシャキッとした声で話せ。無気力そうな間延び声で言われても説得力は皆無だ。
なんてハクアに構っている場合じゃない。この魔物、俺が戦ってきた中でも上位の強さだ。自然発生の魔物でこれほどの魔物が生まれるものだろうか……。
可能性としてはゼロではない。
だが今この国には、魔人を始めとした新世代の生物兵器を研究している連中が暗躍している。
もしかすると、この魔物もそいつらが人工的に生み出したのではなかろうか。ありえないどころか、自然に発生するよりも可能性が高そうなだけに質が悪い話である。
しかし、今はそんなことよりも目の前の敵だ。
「グルラァ……!」
今度はこちらだ、と言わんばかりに黒獣は、頭に生えた角で地面を抉り破片をこちらに飛ばしてくる。
致命傷にはならないが目にでも入れば視界を奪われる。そうなれば格好の的だ。
俺とハクアは飛び退くようにして破片を避ける。
だが黒獣は気にした様子もなくハクアへと跳躍し、前足を振り下ろした。ハクアは身軽な動きで回避したが、前足が振り下ろされた地面がひび割れている。もしも直撃していたならば……言うまでもない。
「そんな大振りじゃ当たらないよぉ」
「グルガァァッ!」
挑発じみた言葉を理解したのか、黒獣は激昂を発しながら大きく身体を捻った。
次の瞬間――。
勢い良く振り回された尻尾がハクアへ襲い掛かる。尻尾の先端には鋭利な刃があるだけに直撃をもらえば真っ二つだ。
とはいえ、ハクアも相当な戦闘経験を積んでいる。それだけに間合いを読む力は優れており、反撃に移るためにギリギリで回避できる範囲へ後退した。
「え……」
その声が耳に届いた時には、ハクアが宙を舞っていた。
ハクアの立ち位置は尻尾が届かない場所だった。俺の目から見てもそれは明らか。にも関わらず何故当たったのか。それは尻尾が伸びたからである。
おそらく黒獣の尻尾は、他よりも関節が多く柔軟。そのため勢い良く振れば鞭のようにしなり、一時的に関節が伸びることで攻撃範囲が広がるのだろう。
「ハ……ハクアッ!?」
「某のお任せを!」
飛び出しそうになるアシュリーを制しオウカが大地を駆ける。
オウカの鍛え抜かれた脚力は凄まじく、見る見る距離を詰めていき跳躍。ハクアが落下する前に彼女を受け止めた。
「ハクア殿、ご無事ですか!」
「あいたたた……まぁ何とかねぇ」
いつも以上に力のない声だが、見たところひどい外傷はない。手にしていた刀と鞘で直撃は防いだようだ。
しかし、大木をへし折りそうな一撃を生身の人間が受けたのだ。
それを考えると、どこかしら折れていても不思議ではない。たとえ折れていなくても、まともに動けるようになるには時間が必要になるはず。
最初の一撃で出来た傷がまだ完全に塞がっていないところを見るに、この魔物の治癒力は一般の魔物よりも低い。攻撃性に特化している代償なのかは知らないが、こちらからすればありがたい話だ。
攻略の手掛かりや大まかな攻撃手段も分かった。それにハクアの治療のためにも一度引く必要がある。
そのためには俺が時間を稼がねばならない。多少の危険は覚悟で黒獣へ踏み込む。
「せあ……!」
すれ違いざまに前足を斬る。
速さでは多少こちらに分があるようだが、一太刀で出来るのは掠り傷程度。絶命には遠く及ばない。
だが今必要なのは黒獣の注意を惹くことだ。傷口の度合いなんてどうでもいい。あいつらが橋を渡るまでの時間を稼ぐ。
「グルガアァァッ!」
黒獣は自分の周りをちょこまかと動き回る俺に苛立ちを覚えたのか、前足や尻尾を振り回す。
一撃でももらえば死に繋がりかねない状況で立ち回り、注意を惹くために斬撃を入れ続ける行為は、台風の中心地に身を置くかのような気分だ。
それでも……最後までやり遂げる必要がある。そうしなければ、あいつらを守ることができない。
「ルーくん!」
「ダメですアシュリー殿。下手に介入してもかえって邪魔になるだけです」
「でもルーくんが……」
「某が行きまする。アシュリー殿はハクア殿を連れて先に行ってくだされ」
「……大丈夫なの?」
「某は古くから魔物狩りを生業にしてきた村の出。アシュリー殿よりも魔物には慣れておりまする。また使っている得物から予想するに某よりアシュリー殿の方が力はあるでしょう。ハクア殿の治療も急いだほうが良いですし、ここは適材適所です」
「……分かった」
嵐のような攻撃を掻い潜りながら一瞬視線だけ動かす。
アシュリーがハクアを運ぶのか……オウカがそのまま抱えて行っても良かったと思うが、筋力的に考えれば妥当な線だな。
ただ安心もしてられない。
獣の習性を考えれば、背中を見せている相手を優先して狙う可能性がある。アシュリー達が移動を始めるとなると、黒獣の注意をさらに惹きつけなければ。これ以上踏み込むのも危険だがやるしかない。
「もう少し付き合ってもらうぞ」
振りかざされる凶器を紙一重で避けながら前足に一太刀ずつ丁寧に当てていく。
すると徐々に両前足を使う回数が減り、角や牙を使った攻撃が増えてきた。だが動きは単純。むしろ攻撃の振り幅が前足よりも狭いだけに避けやすい。
そう思った直後。
眼前になびいたたてがみが迫ってきていた。避けるのは無理だと判断した俺は、鞘を立て代わりにして受け止める。
前足や尻尾の一撃より格段に軽い。
だが硬質な毛の束が勢い良くぶつかれば人間の動きは確実に動きが止まる。たとえ一瞬であってもこの戦闘においては致命的だ。
「グルル……」
捕食者の目が真っ直ぐに俺を射抜く。
後方または上に跳ぶかと考えたが、尻尾を振り回されたら直撃をもらいかねない。
間一髪のところで受け流す方が安全だと踏んだ俺は、来るであろう攻撃に備えて右手にある刀を握り直した。
「魔剣鍛冶殿、助太刀致す!」
黒獣の間合いに踏み込んできた人物はオウカ。黒獣の首筋を狙える絶好の位置だ。
オウカの瞳は迷うことなく黒獣の首を見据えており、手にした刀をすでに抜き始めている。迫り来る危険に黒獣は気づいたようだが、このタイミングでは間に合わない……はずだった。
「あ……ぁ……」
神速の抜刀は、鞘から刀身が半分ほど出たところで時が止まったかのように静止している。
オウカの顔色は青ざめ何かに怯えるような表情を浮かべている。そんな状態でも刀を抜き放とうとしているが、刀を持つ手がそれを拒絶するかのように震えて先に進む気配はない。
そんな獲物を捕食者が見逃すはずもなく、地獄へ続く大口が開かれオウカに迫る。そのため
「ち……」
半ば反射的に俺は動いていた。
黒獣の頭目掛けて跳躍し、前に回転しながら黒獣の右目へ刀を振るう。眼球は一般の生物と大差はないらしく、あっさりと刃が通って血しぶきを上げた。それに伴って黒獣の悲鳴を漏らす。
「何でこっちに来た。死にたいのか!」
「す……すみませぬ。ですが」
「御託はいい。それよりさっさと退くぞ」
オウカの手を引いて吊り橋へと向かう。
どうやらアシュリーはすでに吊り橋を渡り終えている。あとは俺達が渡りきるだけだ。
黒獣の立ち直りが早ければ最悪橋を落とすしかないが、いくら黒獣でもこの崖を飛び越えてくるのは不可能。それにこの高さから落ちれば相応の衝撃が掛かるはず。落下位置が悪ければ重傷または絶命もありえる。近隣住民には悪いがこちらとしては悪い話ばかりではない。
チラリと後方を窺うと痛みから立ち直った黒獣と目が合った。
追いかけてくるつもりか。だがお前の巨体で勢い良くこの橋を渡れば、俺達と一緒に崖下に落ちることになってもおかしくない。
そんな俺の考えを読み取ったのかは分からないが、黒獣は吊り橋の手前で止まり大きく頭を上げた。
不味い。
そう直感した時にはすでに遅かった。
巻き上げられるように破壊された吊り橋は大きくうねりを上げ、俺とオウカを宙へ放り出す。
「っ……ルゥゥゥくぅぅぅん!」
アシュリーの悲鳴にも等しい叫び声が耳に届いたが、熟練の魔法師でもなければ空を飛ぶなんてことは出来ない。
無論、俺は熟練の魔法師ではない。ただの鍛冶職人。現状において何も出来やしない。
ただ唯一出来ることがあるとすれば、手を握っていたオウカを引き寄せながら抱き締めることだけ。俺は彼女の身を守るような形で崖下へと落ちていった。
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