第39話 招待状《チェシャ猫》

 ロクスソルス社は無人だった。

 

 最上階までが吹き抜けになった円形のエントランスには、「ファルス」どころか警備用のロボットすらいない。あらかじめ僕たちが訪れることを知っていたかのように人払いがされていて、完璧な静寂に包まれている。

 しかし、同じように無人だった女性省と違って、ロクスソルス社は僕とアリスを待ち受け――

 

 そして、僕たちに招待状を送っていた。


「これって、猫?」

 

 ロクスソルス社のエントランスに、一匹の猫がホログラムで映し出される。デフォルメされた猫は丸々と太っていて、ヒトを小馬鹿にしたような笑顔を浮かべている。そして三日月の瞳で僕たちを見つめると、太い尻尾を揺らしながら笑い声を残して姿を消してしまった。


「シシシシシ」と。

  

 消えた猫はエントランスから伸びる廊下の先に現れ、僕たちを小馬鹿にするように「シシシシシ」と笑ってまた消えた。


「どうやら、私たちを案内してくれるみたいね?」

 

 アリスはその招待状を受け取る気らしく、猫を追って先に進もうとした。


「ついて行って大丈夫なのかな?」

「さあ」

「さあって」

「向こうも、話し合う用意くらいはあるんじゃないかしら? このまま不毛なかくれんぼをしていてもしょうがないんだし」

「わかった。先に進もう」

 

 アリスはとくに気にした様子もなく真っ暗な廊下を進み、招待状の案内に従った。

 

 デブ猫は僕たちをエレベーターに乗せて、最上階のボタンを押すように指示する。そしてエレベーターが動きだすと、大きな三日月の目と同じく、三日月のような口だけを中に残して消えてしまった。


 最後に「シシシシシ」と大きく笑って。


「今の猫、たぶん『不思議の国のアリス』のチェシャ猫をイメージしたんだと思うわ。私の名前に合わせた招待状ね」

 

 アリスは、楽しげに言った。

 まるで、遊園地のアトラクションに乗っているみたいに。


「ねぇ、アダム。この事件が全て終わったら、二人でゆっくり過ごしましょう? たくさんの本を読んだり、たくさんの映画を見たりして」

「うん。僕もアリスとゆっくり過ごしたい。今度は、僕がおいしい紅茶を入れるよ」

「そうね。アダムのいれてくれたお茶を飲むのも悪くないわね。今のあなたなら、きっとおいしい紅茶が入れられると思うわ」

「うん。僕は、もっとたくさんのことができるよ。アリスのためにもっと色々なことができるし、僕の女の子のためにもっといろいろなことをしてあげたいんだ」

「ありがとう、私の男の子。あなたにそう言ってもらえて――また私の女の子って言ってもらえて、とても光栄よ。女の子って年齢ではなくなってしまったけれど」

 

 アリスはそう言うと、成長してしまった自分の体を見て気恥ずかしそうに笑った。


「僕にとっては、いつまでも僕の女の子だよ。アリスがどれだけ大きくなったって――おばあちゃんになったって、ずっと僕の女の子だ」

「眠っている間に口がうまくなったのね? それに、こんなに逞しく立派になって。とってもうれしいわ。私がおばあちゃんになっても――ずっと、私のそばにいてね?」

「うん。僕はずっとアリスのそばにいるよ。いつまでだって」

 

 アリスは僕を見下ろしながら、僕の頬にそっと手を伸ばした。

 そして優しく僕の頬を撫でて、にっこりと微笑む。

 

 それだけで、僕はとても幸せだった。

 それだけで、全てが満たされた。

 

 他には、何もいらないってくらい。

 

 このままロクスソルス社の最上階になんて行かず、この街の真実や未来なんて放っておいて、二人でどこか遠くに逃げてしまいたかった。

 逃げた先で、二人で静かに過ごしたいと心から思った。

 

 でも、僕の女の子はそれを望んでいない。

 

 アリスは、この街とこの街の全ての女性たちの未来のために、自らの危険を顧みずに、真実にたどり着こうとしている。

 

 真実の扉を開こうとしている。

 

 僕にできることは、アリスが真実にたどり着くことを手伝うことだけ。

 彼女が伸ばした手を支えることだけ。

 

 ただそれだけのことが、僕にとっては全てで――僕の存在意義。

 僕は今、自分の意志でこの場所にいる。

 

 それがたとえ〈女性優先機構レディファースト〉によって仕組まれたものでも――強いられた意志や、感情だったとしても、僕はそれで構わないと改めて思った。

 

 僕を見つけてくれた女の子。

 僕に名前をつけてくれた女の子。

 僕の特別な女の子。

 

 僕は、アリスのそばで全てを見届ける。

 そして僕たちは、最上階にたどり着いた。

 

 エレベーターの扉が開き――


 この街の真実の扉が開いた。

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