第36話 僕の女の子《私の男の子》
「アダム」
目を開けると、そこには僕がはじめてマテリアルな瞳で映した女の子が――アリスが立っていた。両手で黒い銃を構えていた。
僕の背中で鈍い音が二つ鳴る。
そして、アリスは僕に駆け寄って僕の伸ばした手を両手で捕まえた。
「ハロー、私の男の子。無事で良かった。でも、こんなにボロボロになって」
「アリス?」
僕は、夢を見ているみたいだった。
アリスが僕を迎えに来てくれるなんて、まるで考えていなかった。アリスは、もう僕のことを必要としていないと思っていた。もう僕のことなんて忘れてしまっていて、僕なんかいなくてもなにも問題ないんだって思っていた。
「私のせいで、こんなに傷ついて。ごめんなさい。迎えに行くのが遅くなって。ほんとうにごめんね」
アリスは大粒の涙を流しながら、僕をそっと抱きしめた。震える鼻先を僕の頬にあてて、まるで僕の匂いを嗅ぐように僕の頬を撫でる。犬がじゃれつくみたいに。
そして、もう二度と離さないと言うように、これまでの時間を埋めるように――アリスは僕を強く抱きしめ続けた。
「アリス、ハダリのファルスは無事?」
「安心して、
アリスは、腰のベルトから下げた
「外で警護していた同じ型のファルスたちも眠らせてあるから、しばらくは安全だと思う」
アリスはそう言って、しばらく会話する時間があることを示した。
僕は、アリスを真っ直ぐに見つめた。
「アリス、どうして僕を連れて行ってくれなかったの? どうして、僕を必要としてくれなかったの? 僕は、アリスのためだけに存在しているのに」
僕が拗ねたように不満を漏らすと、アリスは僕を見て困ったように笑った。僕を抱きかかえて、僕の頭を自分のふとももに優しくのせる。
幼い頃、女学校の廊下の隅で膝枕をしてくれた時みたいに。
僕は、アリスの膝の上でアリスの顔を見上げた。
彼女は青い瞳をにじませながら、僕を懐かしそうに見つめていた。そして、僕の頭を優しく撫でてくれた。黒い薄手の手袋がひんやりとして気持ち良かった。
「アダム。そんなふうに文句を言えるようになったのね? それに、女性省の命令に背いて私を探そうとしたり、女性省のファルスから逃げ出そうとしたりするなんて――ずいぶん、逞しい男の子になったのね」
アリスはとても嬉しそうにそう言った。
大人びた女性の顔で。
アリスはもう小さな女の子じゃなかった。
成長し、成熟した立派な女性だった。
僕だけが、彼女と出会ったままの小さな男の子の姿で、アリスはとても年の離れたお姉さんになってしまっていた。
そのことが、僕は少しだけ悲しかった。
アリスと一緒に歩めなかった時間を寂しく、そして悔しく思った。
「アリスのせいだよ。アリスがいなくなったりするからだ。僕は、アリスに会うためにいろいろしなくちゃいけなかったんだ。だけど僕は逞しくなんてなってないし、情けなくて、みっともない。本当なら、僕がアリスを助けてあげたかった。力になりたかったんだ。ずっとそう思ってた」
僕は、自分の今の状況を客観的に見て答えた。
本当なら、僕がアリスの危機を救って、僕の膝の上にアリスの頭をのせてあげたかった。
でも、立場は完全に逆だった。
僕が助けられて、アリスの膝の上に頭を乗せている。
「そんなこと気にしなくていいのよ? 私だって、ずっと思ってた。もう二度と、アダムを失いたくないって。今度は、間に合って――助けられて良かった。あなたを失わずにすんで、本当に良かった」
アリスは、そう言うと青い瞳からぽろぽろと涙を落した。
アリスの涙が僕の顔を静かに濡らす。
まるで優しい雨が降っているみたいに。
きっとアリスは、僕を失うことになった八年前のあの日のことを、ずっと気にしていたんだと思う。あの日の傷をずっと胸に抱えながら、今日まで過ごしてきたんだと思う。
もう二度と、僕を失わないように。
「だから、アリスは僕を再起動させなかったの?」
「そうよ。あなたを危険な目に合わせたくなかった。あなたを目覚めさせたら――あなたはどうしたって私に付いてこようとしたでしょう?」
「あたりまえだよ。だって、それが僕の存在理由の全てなんだ。アリスのために、僕はいる。そうするに決まっているじゃないか?」
「ありがとう、私の男の子。でもね、私はそれが不安だったの。それが、とても怖いの」
「不安? 怖い? どうして?」
僕は、意味が分からなくてそう尋ねた。
「ねぇ、私の男の子――それは、本当にあなたの感情なの? あなたは心から私に尽くしたいって、奉仕したいって、本当にそう思っているの? それが、〈
アリスは僕に対して不安を抱いたていた。
幼い頃にそう尋ねた時と同じように。
あの時、僕な何も考えることなく、僕はアリスのために存在していると言った。
〈
そしてそのことが、アリスを追い詰めた。
アリスを孤独にしてしまった。
僕は、ミケから聞いた〈
僕の中にある、この「マーテル」の「ロボット工学三原則」。
確かにその三原則は――「
それでも、今のこの感情は僕のものだとはっきりとそう答えられる気がした。
アリスに抱いている好意も、
アリスに尽くしたいと思うこの感情も、
アリスのために存在しているんだという意志も、
その全てが、僕の本当の思いだと断言できるような気がした。
もちろん、それには何の根拠もない。
証明する方法だってない。
だけど、僕は今アリスのためにこの場所にいる。
それだけで十分な気がした。
それだけが僕の真実。
僕の本当の気持ち。
それをうまくアリスに伝えたかったけれど、それはなかなか難しいような気がした。自分の心の中の景色を伝えることが難しいように。
だけど、僕はそれをなんとか伝えようと思った。
「アリス、僕はここにいるよ」
僕は自分の小さな
アリスの心に、僕の思いを注ぐように。
僕の思いが、アリスの心を満たしてほしいと願いながら。
「僕は、自分の意志でここにいるんだ。誰に命令されたわけでもなく、自分の意志でこの場所にいるんだ。ただアリスに会いたくてここにいる。これだけは、僕の本当の気持ちだと思う。僕は、全てが終わる前に目覚められて良かったよ。こうしてアリスに会えた。それに、アリスの力に――助けになれる」
僕の言葉を聞いたアリスは、今までよりも大粒の涙をこぼした。青い宝石のような涙が幾つも頬を伝って顎の先から滴る。
「ありがとう。私の男の子」
そしてアリスは、にっこりと笑ってくれた。
だから、僕もにっこりと笑った。
「どうしたしまして。僕の女の子」
「それじゃあ、今からアダムの力を貸してくれる? 今夜、全てを終わりにするわ――二人で一緒に」
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