第35話 死《ヒト》
その時が来ても、僕は自分が考えていた以上に落ち着いていた。焦ることも、恐れることも、怯えることもなく、それを迎え入れる準備ができていた。
ハダリの「ファルス」が二人――僕が拘留されている部屋の扉をゆっくりと開けて入って来る。二人は双子のように同じ顔で、同じ体格で、同じ黒の制服を着ている。
そして、仕草までまるで同じだった。鏡写しにしたみたいに。
「D69。これからお前の廃棄処分を行う」
「お前を、廃棄処分用の
「おとなしくついて来てほしい」
「できることならば、手荒なことはしたくない」
二人は腰から下げた
僕は、落ち着いた気持ちのまま双子を見つめた。
「安心してくれ。今さら抵抗するつもりはない。これ以上、女性省に迷惑をかけようとは思っていない。それに、廃棄処分されるのは慣れている。なんて言っても、これで二回目だからね」
僕のとびきりの冗談を聞いても、双子は全く表情を崩すことはなかった。
そのことで、僕は深く傷ついた。
僕は、双子に肘を掴まれながら部屋を後にした。
長い長い廊下。
真っ白な床。
その白さは、やはりとても暴力的で、やはり全てを塗りつぶしてしまいそうに見えた。僕を白い絵の具で消して、まるでなかったことにしてしまうみたいに。
そんな廊下を歩いていると、僕は目的地まで永遠にたどり着くことはないんじゃないかと錯覚した。一歩一歩廊下を進むたびに、僕は廃棄処分に――僕という存在の消滅に近づいている。
ヒトで言うならば、死に向っている。
僕は今、死に向って歩いている。
そんなことを考えた。
八年前に一度廃棄処分の決定を下された時――そして、実際に機能停止にさせられた時も、僕は今みたいにとても落ち着いていた。それをとても当たり前なことだと、自然なことだ受け入れていた。
あの時、僕は自分が廃棄処分にさせられてしまうことよりも、アリスのことを心配していた。僕を失ったアリスが、これから先うまく〈女性だけの街〉でやっていけるのかと不安になった。
あの時、アリスが僕に言った最後の言葉が――僕の頭から離れなかった。
「こんなの、絶対に間違ってる。あなたたちをモノのように扱うなんて――いらなくなったら廃棄処分にしてしまうなんて、絶対に間違ってるわ。こんな街、絶対に間違っているのよ。私は、こんな世界認めない。絶対に認めないわ」
そこに籠っていた彼女の決意を、怒りや憎しみのようなものを、僕はとても怖く思った。アリスを歪ませて、間違った道に進ませてしまうんじゃないと。
今、再び廃棄処分にされ、そのための死への道を歩いているこの瞬間も――僕はアリスのことだけを思っていた。
アリスが、再び僕を失うことを考えた。
僕はまたアリスを悲しませて、彼女を危険な道へを進ませてしまうかもしれない。僕のせいで、アリスは間違った道を歩んでしまうかもしれない。
アリスが今、間違った道を進んでいるのかどうかは分からない。
それはこの街や、この街で暮らす女性にとっては正しい道なのかもしれない。
この街の未来に繋がる道なのかもしれない。
それでも、僕はアリスに危険な道を進んでほしくなかった。
僕とはじめて出会ったあの時みたいに、青い宝石のような瞳をわくわくと輝かせながら、にっこりと笑っていて欲しかった。
アリスを追い詰めてしまったのは――僕だ。
今ようやく、僕はそのことに気がついた。
僕の存在が、アリスをとても複雑なところに追い込んだ。
だから、僕はこれ以上アリスを複雑にして、孤独にして――この世界の片隅に追いこんでしまうわけにはいかなかった。
あの時、僕は「だから」と思った。
「だから」、廃墟処分されてもいいと。
だけど、今は「でも」と思った。
「でも――」
僕は、廃棄処分にされたくない。
それがこの街のためであり、僕が尽くすべき女性たちのためだとしても。
この街の公共を維持する女性省の決定だとてしても。
その決定が全てにおいて正しかったとしても。
僕は、それを受け入れてはいけなかったんだ。
「でも、僕は廃墟処分にされるわけにはいかない」
そう思った時、僕は震えた。
心の底から。
僕は、自分が死んでしまうことがとても恐ろしかった。不安がこみ上げ、恐怖に駆り立てられ、
僕の
はじめて感じる死の恐怖に、恐れ慄いていた。
僕は、死にたくなかった。
ここで終わりなんて考えたくなかった。
僕は、はじめて死というものと向き合った。
死とは、なんだ?
僕という存在が消滅してしまうとは、どういうことなのだろう?
自分だけが世界から切り捨てられ、それでも世界は僕を置いて進み続ける。
僕の存在なんて、まるでなかったみたいに。
僕のこの感情や、記憶や、思いや、過去が、全て消えてしまう。
僕という個が消失してしまう。
世界は存在しているのに。
こんな恐ろしいことがあるなんて知らなかっ。
ヒトは、こんな感情と向き合って日々を送っているのだろうか?
ヒトは、いつか自分の存在が消えてしまうことを知っていながら、理解していながら生きている。全てが無に消えてしまうことを分ったうえで、日々を送っている。
それでも、ヒトは多くのものを残して、そして未来を繋げて生きてきたのかと、僕は今さらになって思い知らされた。
いや、いつか消えてしまうからこそ――死が存在するからこそ、ヒトは多くのものを残し、残そうと生きているのだろうか?
それが生殖行為――セックスをして、受精して、妊娠をして、子供を産むということなのだろうか?
過去から未来へと、連綿と受け継がれてきたヒトという種。それは小さな蝋燭の火を受け渡しながら、長い道のりを旅することに似ているように思えた。
蝋燭が消えてしまう前に、別の蝋燭に火を灯す。
ヒトという名の火を。
一度も途絶えることなくヒトという種を残し続けた女性たちを、僕は心から尊敬した。
僕は、なにも残していない。
僕は、アリスと子供をつくりたかった。
野球チームがつくれるくらいのたくさんの子供をつくりたかった。
アリスに、僕という存在が世界に在った証を残して欲しかった。
気がついた時、僕は一心不乱に駆け出していた。拘束された腕を解き、でたらめに双子を殴りつけて、僕は必死に逃げだした。
僕は、訳もわからずに泣いていた。
死にたくなくて、消えてくなくて、アリスに会いたくて――泣いていた。
泣き叫びながら廊下を駆け抜けて、女性省のエントランスを――その先の出口を目指した。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
アリスに会いたい。
アリスに会いたい。
アリスに会いたい。
僕はようやくエントランスにたどり着き、大きなアーチ形のガラス扉を見つけた。
その扉に手を伸ばそうとした。
その瞬間、激しい衝撃が僕の視界と思考を焼く。
突然目の前が真っ白になって、僕はそのまま地面に仰向けに倒れ込んだ。僕は
でも、
僕は、自分が冷たい石ころになってしまったような気がした。
アリスの母――マルタのように。
「D69。余計な手間はかけさせると言ったはずだ」
「お前も、それを了承していたはずだ」
双子は僕の動きを止めるように警棒を数回振って、僕を痛めつけた。
僕は意識を失わないように必死に耐えた。
「ここを抜け出せても、外を警護しているファルスがいる」
「どの道、お前はここで廃棄処分になる」
「できる限る無傷で回収したかったが、これ以上暴れられても困る」
「ここで廃棄処分する」
僕は歯を食いしばり、床を這いつくばりながら扉を目指した。涙を流し、涎を垂れ流しながら。そして喉の奥からうめき声を上げながら。まるで生まれたての赤ん坊のように這って前に進んだ。
必死に手を伸ばして、その扉を――未来を掴もうとする。
みっともなく、情けなく、みじめで、あまりにも無力だったけれど、僕はその扉に手を伸ばし続けた。
死にたくないという感情と、
アリスに会いたいという思いだけで。
背中で冷たい金属の音が鳴る。
それが
僕は、手を伸ばし続けながら目をつぶった。
もうだめだ。
ここまでだ。
僕は、死を受け入れるしかなかった。
引き金を引く音が聞こえる。
電磁加速された短針が発射された。
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