第32話 男の子/女の子《アダム/アリス》
「アリス」
成長したアリスを見た瞬間、僕の心は大きく震えた。
こみ上げる感情の波に飲み込まれて、僕は一瞬自分がどこにいるのか分からなくなった。まるで、夢の中にいるみたいに。
そして、その光景のあまりの現実感の無さに、僕の思考は真っ白に塗りつぶされた。この街の暴力的なまでの白さに押し潰されるみたいに。
それでも、アリスは僕の目の前にいる。
腰のあたりまで伸ばしたライ麦色の髪の毛。
チョコレート色の肌。
宝石のような青い瞳。
何もかもがアリスのままだったけれど、その全てが成長して成熟していた。
大人の女性になっていた。
アリスはすらりと引きしまった体の上に、黒いボディスーツのようなものを身に着けていた。それは、黒いゴム製の薄皮を一枚張り付けただけのように見えた。金髪を頭の高いところで一つ結びにして、額にはゴーグル型の
僕の視線はアリスの顔からその体に、そしてすらりと伸びた両手に移っていく。
その手の先は――
真っ赤な血で濡れていた。
まるで、赤い手袋をはめているみたいに。
とても厳しい表情を浮かべたアリスが注ぐ視線と両手の先には、オフィスの椅子に座ったまま目を瞑る女性がいて――それはアリスの母親だった。アリスの血に塗れた赤い手は、動かない母親の頬に当てられている。
アリスの母親は、石のように固まったままぴくりとも動かない。アリスも時間が止まってしまったみたいに、その活動を止めていた。対面している娘と母親の向こう側は一面ガラス張りで、夜の
まるで、一枚の悲劇的な絵画を見ているようだった。
そんな光景にのみ込まれて、僕はアリスを前にしても何も言葉にできずにいた。この沈黙と静寂を壊してしまうのが怖った。一言発しただけで全てがばらばらに崩れ落ちてしまいそうにで、僕はただその光景を見つめることしかできなかった。
そして、不意にアリスが扉のほうに視線を向ける。
ゆっくりと。
しずかに。
そして、彼女は見てはいけないものを見てしまったように、僕と視線を合わせて驚きで目を見開いた。信じられないと。アリスの表情には戸惑いの色が濃く浮かび上がったけれど、それでも取り乱すことなく僕をしっかりと見据える。
僕の知らない、成長して成熟した大人の女性の顔立ちで。
「アダム?」
アリスは僕の名前をはっきりと呼んで、やはり信じられないと小さく首を横に振る。まるであり得ないはずものを、幽霊を見たように。
アリスの足元の白いカーペットが、どんどん赤く染まっていく。
アリスの母親は石になったまま。
「あなたが、どうしてここに? まさか――お姉さまが?」
アリスは僕がこの場所にいることの原因に思い至って、表情を苛立たせた。怒りの感情すら滲ませながら目を細めて、どうしたらいいのかと表情を困らせる。予期していなかった事態を前にして、小さく舌打ちをする。
僕の女の子は――アリスは、僕と再会したことを喜んではいないみたいだった。
そのことが、僕をとことん傷つけた。
「アリス、これはいったいどういことなの? アリスの母親は、どうなってしまったの?」
僕が震える声で尋ねると、アリスは一瞬悲しそうな表情を浮かべた。深い絶望の色を滲ませた。そして僕の問いと視線から逃げるように母親に向き直り、その頬を優しく撫でてた。自分と同じ褐色の肌をそっと。
まるで、最後の別れを告げるみたいに。
「ママは、死んだわ」
そして、簡潔に告げる。
感情の籠っていない、冷たい石のような声で。
「死んでいるって、どうして? まさか――」
僕は、その先の言葉をのみ込んだ。
その先の言葉を言いたくなかった。
そんな事実と向き合いたくなかった。
「私がやったと思う?」
アリスはそっと尋ねる。
僕は、その問いに答えられなかった。
だって、アリスの片方の手には大きな銃器が――
「ねぇ、アダム。あなたは、お姉さまに私を見つけるように――私を拘束するように言われているんでしょう? どうする? 私をここで取り押さえる? アダム。あなたは――私をどうしたい? 私は、どうするべきだと思う?」
アリスは、冷たい声で尋ねる。
僕との再会を、まるで歓迎していないと言うように。
僕たちは、まるで敵同士みたいだった。
この瞬間、僕たちの間には越えられない高い壁がそびえ立っていた。
国境線が引かれていた。
女性と男性は、絶対に相容れないと暗に示しているように。
「そんなこと、どうだっていい」
僕は、声を大にしていった。そんなことは、どうだっていいんだって。
僕にとって、アリスが今何をしているかとか、これから何をしようとしているとかか、何をしてしまったのとか――そんなことの全てが、どうでもいいことだった。
僕にとって重要なことは、一つだけ。
そのたった一つの大切なことのためだけに、僕は今この場所にいるんだ。
「僕は、僕の女の子に――アリスに会いに来たんだ。ただ、それだけなんだ。それ以外のことは、どうだっていいよ」
僕は、叫ぶように続ける。
「アリスに再会できれば、それで僕はいいんだ。僕は、アリスに会いに来たんだ。そのためだけに――僕は、ここにいるんだ」
僕がそう伝えると――アリスは青い瞳を見開いて、そしてそっと滲ませた。彼女はとてもつらそうに表情を歪めて、とても申し訳なさそうに僕を見つめる。
僕は、アリスにそんな顔をしてほしくなかった。
アリスには、いつだって僕のそばで笑っていてほしかった。
ただ、それだけで良かったんだ。
「アリス、どうして僕を連れて行ってくれなかったの? 僕は、アリスの――アリスだけの男の子なのに。どうして、僕を必要としてくれなかったの? 僕は、もうアリスにとっていらないモノなの?」
僕は、勇気を振り絞って尋ねた。
その答えを聞くのはとても怖かったけれど、僕はもう僕の中から溢れ出すものを、こみ上げるものを――そして、アリスへの思いを抑えることはできなかった。
「私の男の子」
アリスは、ようやく僕のことを「私の男の子」と呼んでくれた。
それだけで僕はとても幸せだった。
こんなに嬉しいことは他になかった。
「アダム。ごめんめ。あなたを暗い部屋に閉じ込めたままにしちゃって。本当にごめんね。私も、できることならあなたについて来て欲しかった。あなたを、一緒に連れていきたかった。でも――」
アリスがその先を口にしようとした瞬間、オフィスの中に無数の人影がなだれ込んできた。アリスの言葉をかき消して、その言葉や思いや感情を踏みにじってしまように。
そんな嫌な足音が響き渡る。
全てを踏み潰してしまうような足音が。
オフィスに入ってきたのは、ハダリの七人の
「ちょっと待ってくれ。僕がアリスと話をするから、乱暴なことはしないで」
僕は、彼らを止めようと大声を上げる。
「D69。我々の職務を邪魔しないでほしい。
僕は、自分の身柄が拘束されることについて驚きはしなかった。
僕は女性省に明確な背信行為をしていたという自覚があった。ただ、これ以上アリスのために行動をすることができないと思うと、それだけが残念だった。それだけが心残り。
「アダム、あなたは私のために自分の身を危険にさらしてくれたのね? ありがとう」
アリスは、僕を見てにっこりと笑った。
ハダリのファルスは、警棒を構えたまま徐々にアリスに近づこうとする。
彼らは意識をクラスドサーバに接続し、サーバから与えられる〈自警モード〉に移行することで、「
クラウドサーバが提供する〈自警モード〉は、女性官の承認によって起動することが可能な行動ソフトウェア。
つまり、女性省はすでにこの状況を掌握している。
僕の軽率な行動が仇となって、このあアリスの居場所を女性省に知らせてしまったのだろうか?
僕はアリスの足を引っ張ってしまった。
「私の男の子。これから何が起こっても――私を信じていてね?」
アリスは、僕を見つめながら続ける。
僕に自分を信じるように言う。
「この街は、私たちが思っているような女性たちの
そう言うと、アリスは電磁加速短針銃を構えた。
そして、それを背中の一面の窓ガラスに向けて連射する。
激しい物音と共に、砕けたガラスが夜の闇に落ちていく。光を灯した雨のように。または空から降り注ぐ天使の羽のように。
アリスは打ち出される短針とともに駆けだしていて、割れた窓ガラスと共に夜の闇に飛び出して行った。夜空を駆けるように。
「アリスっ」
ハダリの「ファルス」たちが呆然と立ち尽くす中、僕は割れた窓の淵から身を乗り出して、アリスが落ちていく虚空を見つめた。アリスは長いトンネルの底に消えていくみたいに、ゆっくりと僕の視界から消えていく。
まるで、夜の闇に溶けてしまうように。
アリスは、またしても僕の目の前から消えてしまった。
手の届かない場所に行ってしまった。
銀色の糸のようなものが暗闇を切り裂くように光ると、それでアリスの痕跡は完全に消えた。おそらく、巻き取り式のカーボンナノチューブを使用してこの場から離脱したのだろう。つまり、命綱の要領で落下した。
この高度からの自由落下を制御するには相当の訓練が必要なはずだけれど、アリスなら問題なくそれを習得しているだろうと思った。
僕は、一先ずアリスがこの場を無事に脱出できたことに安堵したけれど、またしても置いて行かれてしまったことに僕は深く傷ついた。またしても僕は連れて言ってもらえなかった。アリスに必要としてもらえず、この場に一人取り残された。
そのことが、やはり僕をとことんまで打ちのめした。
僕は呆然と立ち尽くしたまま、状況に身を任せた。そしてハダリの「ファルス」に身柄が拘束される中、アリスが僕に残した言葉の意味を考えいた。
この街は、女性たちの楽園じゃなく檻。
鳥籠から女性たちを解放する。
その言葉の意味を、僕は計りかねていた。
僕自身が檻に閉じ込められた――鳥籠の中の鳥なのだから。
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