第23話 名刺《ファムファタール》

 僕は手に持った名刺カードをくるくると回しながら、そこに書かれた情報を読み取った。


〈ファムファタール〉

 かつてフランスと呼ばれていた国の言葉で「運命の女」――または「悪女」を意味する単語。

 

 この艶のある黒地の電子ペーパーは、その名を冠したクラブの名刺。

 怪しげな白の筆記体で書かれた「Femme fatale」の文字が、ヒトを堕落させる蛇のように踊っている。名刺の表面に触れると、クラブの位置情報や通話IDなどのタグ情報がホログラムで表示される仕様になっている。このクラブについての説明も表示され、そこには――


「〈性別離ディボース〉以前の、本当の女性らしさを取り戻すことができる魅惑の空間。一夜限りの女性になることができる秘密のクラブ」


 と、書かれていた。


 僕は一人きりの地下鉄メトロの車内で、この名刺カードを渡してくれたアリスの母親との会話を思い出していた。


「この名刺は、アリスがあなたの簡易サーバの中に隠していたモノよ。どこでこんなものをもらったのかは分らないけれど、当時の私は、娘の経歴の汚点にならないようにと、それをこっそりと回収しておいた」

 

 僕は、黒い名刺カードを受け取ってそれを眺める。

 カードの表面には踊る筆記体で「ファムファタール」。


「このクラブのある場所は、この女性たちの街で最も公共性とモラルの低いと言われている区画です。堕落した地区〈ソドム〉や――この街の〈足のプランタ〉とも呼ばれています」

 

 僕は、表示された位置情報を検索してみた。

 マーテル最南端の一区画。

 女性の〈足の裏〉と呼ばれる区域。


「それを見つけた当時は、まさかアリスがそんな場所に行くんなんて、と考えていたけれど、今思えば――あなたを失ってからのアリスは、度々そこに出かけていたのかもしれない。これは、あなたに渡しておきます。アリスを見つける手掛かりになればいいんだけれど」

「ありがとうございます。必ずアリスを見つけます」

「あなたは、私を恨んだり憎んだりしていないの?」

 

 アリスの母親は、思いつめた表情で僕を見つめる。

 アリスによく似た青い瞳で。


「いいえ。あなたを恨んだり憎んだりだなんて感情は抱いたことも、考えたこともない」

 

 僕は、素直に僕の気持ちを口にした。


「あの調査の場で僕を廃棄処分にしようとしたあなたの決断は、正しかったと思っています。たとえ今、アリスをこのような状況に追い込んでしまったのだとしても――あなたの立場で下したあの決断は、間違っていなかった。それに僕は、あなたに感謝しているんです」

「感謝? いったい何に?」

 

 マルタは、信じられないと目を見開いた。

 意味が分からないと。


「あなたが僕を廃棄処分せずにいてくれたおかげで、僕はもう一度アリスに再会できるかもしれない。僕の存在理由は――それだけです。それだけが、僕の喜びです」

 

 母親は目に大粒の涙を溜めながら、表情を大きく歪ませた。

 目の前にとても歪んだモノを見つけたように。

 ヒトのカタチをしたモノである僕を恐れているみたいに。


「私たちは、いったいなんてものを造り出して、それを使い続けてきたのだろう? 私たちは、ヒトのカタチをもてあそぶべきではなかったのかもしれない」

 

 母親のその悲痛の言葉が、僕にはどうしても理解できなかった。

 僕たちは女性の性的生活及び生殖のためのモノ。

 そのように造り出して、使用してきたのは目の前にいる女性たちなのに。

 僕たちはそのためだけに存在しているのに。


 僕は、アリスが幼い頃に尋ねた言葉を思い出した。


「私の男の子。あなたは――私の奴隷ではないって言い切れる?」


 僕が言葉を返すと、アリスは寂しそうな顔で笑った。

 その笑顔の意味が分からなかった。

 今、娘と同じ瞳で僕を見る彼女の言葉の意味も。

 

 それでも、その言葉が僕のメモリを震わせた。



 

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