第18話 ログ《改竄》


 翌日、僕とミケはアリスの住居に向った。


 かつてアリスと僕が暮らしていた家族の家ではなく、彼女が女性省に入省してから入居した女性省の寮の一室へ。寮とは言ってもかなり高級なマンションで、入居者のほとんどが女性省の省員か、その関連施設で働く女性だった。


 淡い紫色の外観をした建物。

 遠くから見ると巨大なラベンダーが咲いているように見えた。

 アリスの部屋は最上階で、部屋の窓からは女性省を含めたこの「マーテル」が一望できた。お菓子箱のように可愛らしい街並みが。

 

 遠くのほうには、この「マーテル」をぐるりと囲む蛍光の緑色の壁が見えた。あの壁が、野蛮で危険な男性たちのいる外の世界と――この安全で清潔な女性だけの街を隔てる国境線。

 この街並のどこかにアリスがいるんだと思うと、僕は彼女の名前を大声で叫びたくなった。僕は皮肉なまでに澄み渡った青空を見つめて、自分の無力感に苛まれた。


 アリスの部屋は、ごく一般的なデザイナーズマンションの一室だったけれど、とても丁寧に整頓されていた。整頓されいるというよりも完璧に整理され過ぎていて、アリス個人を特定できる物が一つもなかった。誰かがこの部屋に訪れて、部屋の中を物色するであろうことが事前に分かっていたかのように。


 部屋には備え付けの家具以外何もなかった。大きなリビングと三つある個室は、寝室を除いて空っぽで使用された形跡すらない。キッチンの冷蔵庫も空。非常食の一つもない。棚に並んだ大量のサプリメントはどれも一般的になもので、ごく普通の家庭が揃えているものと変わりない。接種するサプリによって、その女性の体質や抱えている問題が容易に判断できることを、アリスは誰よりも知っていたのだろう。


 昨夜アリスの公共記録にアクセスをしてみたけれど、医療記録は一つも残されていなかった。省内で行われている健康診断の結果すら、きれいさっぱり消されていた。


 この部屋も、それと同じ。

 クローゼットの中の衣装は全て無地のもので、柄の入った衣類は一つもなかった。真っ白なシャツ、真っ白なズボン、真っ白な下着、それらが几帳面に畳まれている。女性省の黄色い制服だけがクローゼットに彩りを添え、白いコートもハンガーにかかったままだった。


 この部屋には、アリスの痕跡を残したものは何もなかった。

 かつて、アリスの部屋は華やいでいた。

 彼女らしさで埋め尽くされていた。

 個性豊かなアリスが、そのまま投影されたような素敵な部屋だった。

 

 なのに、この部屋は完璧なまでに個性というものが排除されていた。

 無個性で、

 無機質で、

 無味無臭。


 まるで顔の無い誰かが暮らしているかのような――がらんどうの部屋。


「いったい、この部屋でどんな暮らしをしていたんだ?」

 

 僕は、アリスがこの何もない部屋に一人きりでいることろを想像してみた。その光景があまりにも寂しくて、悲しすぎて、僕はたまらず泣きそうになった。


「どうやらあらかじめこうなることが分かっていて、この部屋には何も残していないみたいだ」

 

 部屋を調べ終え、しばらく席を外していたミケが言う。


「おそらく、この部屋にはほとんど帰ってきてなかったんだろう。聞き込みを行ったところ、このマンションでアリスを目撃したという女性はほとんどいなかった。隣で暮らす女性も、彼女と顔を合わせたこともなければ、物音一つ聞いたことがないと言っていた。入退室のログも書きかえられていて、どれくらいの頻度でこの部屋に帰ってきていたのかはまるで分からない」


「マーテル」では、全ての情報を指先の遺伝子情報で管理している為、監視カメラなどは一切設置されていない。施設の入退室、商品の購入記録、口座への入出金記録、公共機関への乗降者記録などの公共の記録は、指先をインターフェースとした遺伝子情報によるログのみとなっている。

 そのため、ログ情報が故意に書き換えられてしまうと、それを追跡するは非常に困難になる。


 この「マーテル」自体が、公共を維持する女性たちの非常に高い公共性やモラルによって運営されているため、高度な犯罪性を帯びると、途端にそれまでのシステムが機能しなくなるという欠点が今回の件で浮き彫りとなっていた。高度な犯罪は数十年で数件しか起きておらず、暴力沙汰すら年間十件も起きないこの〈女性だけの街〉では、犯罪という言葉すら絶滅しかかっている。


「マーテル」では、痴漢やレイプと言った犯罪だけでなく、殺人、強盗、傷害、詐欺、交通事故と言った犯罪も、基本的には男性の犯罪だと考えられていた。なので犯罪に対する抑止と警戒が、これまで非常におろそかにされてきたと言える。


 平和で安全で清潔な街の欠点が、女性であるアリスによって指摘されているようだった。


「次はどうするべきか? 何か心当たりはあるかな?」

 

 僕は尋ねられ、考えた。


「アリスの両親宅を調べることはできる?」

「マルタ様の家か? ウカに許可を取ってもらおう」

 

 ミケはそういうと、指先二本を耳元に当ててウカと通話した。

 僕たち「擬似男性ファルス」は、自分の身体ボディを端末にしてネットワークに接続することができる。通話アプリをインストールしていれば、自分の身体ボディを通信端末として連絡を取り合うことも、メールアプリがあれば脳内メモリにメールを受信して、それを網膜に映し出すことも可能。


 これらの技術は、ウェアラブルコンピューターをさらに発展させた〈インナーIコンピューターCインターフェイスI〉と呼ばれるもので、体内にインプラントする有機ナノマシンによって実現されている。〈女性だけの街〉の外、危険で野蛮な男性たちのいる世界では、ほぼ全てのヒトが体内に〈ICI〉をインプラントして、それを社会的インフラとしているという。


 この〈女性たちの街〉ではその純潔の肉体を不必要に汚すとして、「ファルス」にしかインプラントされていない。女性たちの体は子供を産むための神聖なものであるという、聖母主義マリアイズムの理念に基づく考えだった。


「マルタ様の家の調査許可が下りた」


 しばらくするとミケはウカに許可をもらい、僕たちはアリスの両親宅に向かった。

 アリスと僕が一緒に暮らしていた家に。

 

 がらんどうの部屋を後にして。

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