第5話 奴隷《ファルス》
「データベース通りって言われても、僕の知識はクラウドサーバが提供してくれた情報だし。それ以外は、全部アリスが教えてくれた話じゃないか?」
僕が困ったように言うと、アリスは「やれやれ」って感じでティースプーンを回した。そして、ロイヤルミルクティを口に運ぶ。そんな仕草の一つ一つが優雅で気品に溢れて見え、とても女王様然としていたけれど、それがかなり背伸びしているんだってことに、僕は気がついていた。
アリスはいつも背伸びをして、自分の手の届かないものに手を伸ばそうとしていた。遥か遠くの何かを追い求めているように。
「少しは、自分の頭で考えなさいよ。この街には、女性しかいない――それはどうしてなのか? いったい、女性と男性の間に何が起きたのか? 男性はどこに消えてしまったのか? そもそも、男性とはどんな存在だったのか? それを考えているんでしょう」
「男性がどんな存在だって言われても、この街にいる女性の誰も、本物の男性を見たことがないんだよ? アリスだって。僕たち
危険で野蛮な男性の存在を記した全てのメディアが、この街では〈女性保護法〉と〈青少女保護育成健全条約〉に基づいて
過去の芸術やサブカルチャー、イラスト、小説、漫画、アニメ、映画、そう言ったメディアには、必ず野蛮で危険な男性が登場する。それらはとても暴力的で、破壊や差別で溢れている。
女性の尊厳を貶め、女性を消費するモノとして扱い、描いている。
〈
何の審査も検閲もなく、ただ垂れ流され、消費され、架空の空間でも貶められる女性たち。そういったメディアを喜んでつくり、創作し、アップロードし続ける男性たちに、多くの女性たちが深く傷つき、心を痛めた。それらを指摘し、改善を要求し、ネット空間を
そんな悲劇ともいえる過去の経験を活かして、この〈女性だけの街〉では全てのメディアに厳しい検閲が施される。女性省の〈青少女保護育成健全倫理委員会〉の検閲を通り抜けて提供されるメディアの全てが、優しく、穏やかで、健やかで、上品なもの。
女性が見るに相応しいメディア。
アリスは、それがお気に召さないみたいだった。
そこに男性が存在しないことに、強い不満と疑問を抱いていた。
「ねぇ、普通に考えてみて? 私たち女性と対になって生まれてきたはずの男性だけが、女性よりも危険で野蛮なんてことあると思う? たしかに、男性のほうが女性よりも筋力が強いかもしれない。体力もあって、肉体的に屈強であったのかもしれないけれど、だからといって全ての男性が危険で野蛮なんてことがあるかしら?」
アリスは眉間に皺を寄せながら、毎回一生懸命に自分の考えを伝えようとした。
その考えの多くが、男性を肯定的にとらえるもので、この街では禁忌に触れる危険な思想だった。許容されない古い思想。
だから、アリスの話を聞く時はいつも冷や冷やとした。
その
アリスは、いつだってその箱の中身をのぞこうとしていたから。
「でも、男性っていうのは女性を虐げて家の中に閉じ込めておくような、身勝手で横暴な存在だったって言われているよ? 家事をさせるためだけに家に置き、そして女性に雇用の機会を与えなかったって。それに選挙の投票権すら与えなかった」
「それは、十九世紀後半に起こった女性参政権獲得運動のことね? 確かに過去、女性たちには選挙で投票する権利すら与えられなかった。でも、その時代の女性たちが必至に戦ったおかけで、その後女性たちは選挙権を手に入れたし、雇用の機会も得たはずよ。この国でも欧米と呼ばれる地域に遅れてではあるけれど、選挙権も雇用の機会も獲得したはず。これは新しい波の前の話――第一の波、第二の波の話よ?」
アリスは、自分の知識をひけらしながら僕の言葉を待つ。
「でも、女性に対して――女性は、子供を生むための機械だって発言をする男性がいたって記録が残っているし。男性は女性を平等には考えていなかったんじゃないかなあ?」
「それは、たしかに許せない発言だわっ。私たち女性が、子供を生むためだけの存在なんて――しかも機械だなんて、本当に馬鹿げてる。とんでもない話よ。でも、全ての男性がそんな思想をもっていたなんてことがあるのかしら?」
「それに男性はDVやセクハラ、性暴力――痴漢やレイプっていう犯罪で女性たちを恐怖させたって」
「ええ、それも知っているわ。〈性別離〉前の世界では――世界中の女性の三人に一人が、生涯に一度は身体的暴力、あるいは性的暴力を受けていた。多くの女性が痴漢の被害に遭った。セクハラに悩まされていた。女性議員のような高い地位にある女性でさえ、約半数がセクハラ被害に合っていたというデータが残っている。ハリウッドと呼ばれた世界最大のショービジネスの世界でも、数々の女性――有名女優でさえも、プロデューサーに性的な行為を行うことによって仕事を得ていた」
アリスは、うんざりと溜息をついて続ける。
「男尊女卑という古い言葉が示す通り――とても男女が平等で、女性の意志や権利が尊重されていたとは思えないわ。レイプに関しては、悪魔の所業すぎて吐き気さえするわ。そんな男性は死刑でも生ぬるいって思うわね」
レイプとは、相手の意志に反し、暴力や脅迫、相手の心神喪失などに乗じ強要し人に対し性行為を行うこと。
レイプという言葉は、この「マーテル」ではすでに忘れ去られた過去の言葉。今では辞書にすら登録されていない。この〈女性だけの街〉でその言葉が使われることは全くなく、もしも公共の場でアリスのような幼い子供がそんな
いったい、どこでそんな知識を手に入れたのか?
アリスは、レイプという言葉が男性に無理やり犯されることだと知っていて、そのおぞましさと野蛮さに恐怖して顔を歪ませた。
「ほら、男性はやっぱり危険で野蛮なんじゃないか?」
「でも、本当にそうだったら人類はここまで繁栄していないんじゃないかしら? だって、〈性別離〉が行われる前の世界って人口が六十億を超えていたらしいのよ? 人類の歴史だって二千年を優に超えているし。そんな長い歴史の中で、常に女性が虐げられて男性の子供を産むための機械だったなんてことがある? 女性と男性は、もっと別の方法で繁栄してきたんじゃないかしら?」
アリスは納得がいかないと食い下がった。
僕は、とうとう口にしたくない言葉を口にする決意をした。
「でも、人類には奴隷っていう最悪の文化があって、男性たちは多くの女性を奴隷にしていたって記録に残っているよ。〈世界女性会議〉の宣言にだってあるくらいだし。奴隷は鎖で繋がれたり鞭で打たれたりもしていたらしいから、無理やり子供を産まされていたんじゃないかな?」
奴隷。
奴隷とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。
それは人類史において最も忌むべき歴史であり、最悪の所業。
多くの女性たちが、かつて男性の奴隷となり、自由や人権を与えられずに所有され、支配され、売買の対象になってきた。
そんな鎖から抜け出し、ようやく男性支配の
この街ができた時に発せられた世界女性会議の宣言の第四条には――
「今後、全ての女性が、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する」
と、記されている。
このことからも、女性が奴隷として扱われていたことが自明の理のように思えた。
〈世界女性会議〉とは、この「マーテル」の創設を後押しし資金提供を行った組織であり、現在この街を管理運営する〈女性省〉の前身。他にもUNウィメンや、いくつかの女性団体によって、この「マーテル」は創設された。
「たしかに、奴隷は人類史における究極の汚点だわ。だけど、それだって女性だけが奴隷にされて虐げられていたわけじゃないと思うわ。もっと多くの人が、奴隷にされていたんだと思うんだけれど? それに奴隷の定義を当てはめるなら、あなたたちファルスはどうなるの?」
アリスは青い目を真剣に光らせて尋ねる。チョコレート色の薄いおでこにはうっすらと汗をかいていて、彼女がとても真剣にこのことを考えていることが伝わってきた。
アリスは尋ねている。
僕は、どうなのかと。
僕たちは、女性たちの奴隷じゃないのか。
「ねぇ、アダム――私の男の子。あなたたちファルスは、私たち女性の奴隷じゃないって言える? 私たち女性に購入されるあなたたち――」
アリスは、僕の頬を撫でながら続ける。そして僕の胸に顔を埋めて鼻先を強く押し付けて、まるで子犬が匂いを嗅ぐみたいに。
「女性に尽くすように製造され、女性の命令に従わされるあなたたち。女性の性的生活及び生殖目的のためだけのつくられたあなたたちは――本当に女性の奴隷じゃないって言える? だって、多くのファルスは女性の気まぐれで廃棄され、子供を産んだからという理由だけで処分されるのよ?」
アリスは悲しそうに顔を歪ませて、青い瞳をにじませた。
その瞬間、僕の心は苦しくなった。
僕のオーナーが――僕の女の子が悲しんでいる。
僕の
「〈
アリスは、不安を抱いていた。
僕がアリスのことを心から好きかどうか。
僕が心からアリスに尽くそうと思っているのか。
心の底から奉仕しようと思っているのか。
僕はアリスを不安にして、僕の存在に疑問を抱かせている。
そう思った瞬間に、僕の中で繁殖をしていたカビはさらに広がり続け、苦痛の海となって襲ってきた。
だから、僕はアリスを安心させるように言った。
「アリス――僕の女の子。僕は、アリスに尽くせて幸せだよ。心から君に奉仕したいと思っている。これが僕の全て。これだけが、僕の存在している唯一の理由なんだ」
僕がにっこりと笑うと、アリスもにっこりと笑ってくれ。
それだけで、僕の苦痛は和らいで恍惚が広がっていくのを感じた。それはとても心地良く、甘美で、愛おしい感情だった。干からびた大地に雨が降るような、そんな天の恵みのような。
「私の男の子。あなたは――私の奴隷ではないって言い切れる?」
「言いきれるよ。僕はファルスなんだ。女性に尽くして奉仕するための存在だ。僕たちはその為だけに存在する。女性の性的生活と生殖活動のためにね。僕たちはモノで――ヒトじゃない。人権や自由なんて、そもそも必要ないんだ」
僕が笑顔でそう言うと、アリスは少しだけ寂しそうに笑った。
僕は、自分が何を間違えたのかまるで分からなかった。
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