第3話 雪の朝

 寒い。体を動かそうとすると鈍い痛みが走る。ぎしぎしと音を立てそうな不器用さでまぶたを開けた。マットレスではない固い感触。そうだ、昨日はあのままソファーで寝たんだっけ。首を回すとパソコンが目に入った。完全に仕事のことを忘れていたことに気付く。しまった。今日は寝る時間が取れないかもしれない。背伸びをする。よし、目が覚めた。立ち上がると、僕のベッドには月姫が気持ちよさそうに寝ていた。社交辞令でもベッドを使いますか、なんて言うんじゃなかった。彼女はそれが当然のようにお礼も言わずにベッドに寝そべった。しかしまあ、と僕は改めて月姫の寝顔を眺める。絶望的に美しかった。天使が降臨したのかと思う。余計に疲れが出た気がする。その美しさでプラマイゼロなんて、きっとフェアじゃない。うん。立っていると寒さを思い出した。暖房はおやすみモードでつけっぱなしにしていたが、それでも部屋の空気は涼やかだった。エアコンのリモコンを探るついでに、そっとカーテンを開く。いつもの朝より眩しい。一瞬目を細める。その先には一面の銀世界。雪はあれから降り続いたらしい。いつもの景色が一変している。いつもの朝の音もどこか遠い。まるで魔法のようだ、と思う。いつもの世界を変える雪が。見慣れないせいだろうが。


「おー!!すげー!!」


見ほれている僕の隣で、大きい声がした。いつの間に起きたのだろうか。月姫が感嘆の声を上げた。僕が驚いていると、月姫は満面の笑みをこちらに向けた。


「おはよう!雪!雪ってすごいんだな、ってだじゃれみたいだな。」


「…おはようございます。」


 朝日に照らされた彼女の笑顔が、雪が見せる光景より綺麗だ、なんて思わなかったことにしよう。



「俺、積もった雪初めて見る!こんなにまぶしーんだな。」


「僕も久しぶりです。」


「昨日思ったんだけど、お前のお袋、こういう景色に感動したのかもな。」


「え?」


「名前だよ。雪!」


「ああ、どうなんでしょう。他に思いつかなかっただけじゃないですか?」


「お前、面白くないこと言うな-。大事にしろよ。親からもらった二つ目のプレゼントだろ。」


「プレゼント?」


「そ。一つ目は命、二つ目は名前。そして世界を見るんだ!」


言いながら、月姫は窓を開けた。澄んだ冷たい空気が体に当たり、くっきりと僕の輪郭を世界に浮き上がらせるような錯覚を覚えた。


「うほー!寒い寒い!」


言いながら彼女は裸足で狭いベランダに出た。


「冷たい!すごい!ふわふわだ!」


「風邪を引きますよ」


「おい!踏んだらきゅっきゅっていうぞ!」


「静かに。まだ朝早いんですから」


「すごいぞー!きれいだー!」


聞いちゃいない。溜息をついて、僕はダウンジャケットを持って来て、埋まっていたベランダ用のスリッパを雪の中から救出する。「気が利くな」と彼女はダウンを羽織って、雪を丸めだした。僕はエアコンの暖房の設定温度を高くし、窓を閉めようとした。


「おい、お前は作らないのかよ?」


「何をですか?」


「何をって、雪だるまだよ。雪が降ったら雪だるまを二つ作って、キスさせるんだろ?」


「身近な方に韓流が好きな方がいらっしゃたんですね。ちなみに僕はネックレスなんていれませんよ。」


「韓流?何だそれ?」


知らんのかい。余計な知識を披露してしまった。なぜか恥ずかしい。


「とにかく、僕は作りません。仕事があるんで」


「仕事ってのは、この景色を楽しむ時間もないもんなの?」


「そうですね。」


「へえ、つまらないもんなんだな、仕事って」


やかましい。僕は扉を閉めた。彼女はそのままだるまを作り始めると思いきや、突然たって、窓をたたき出した。


「やばい!それより腹が減った!おい、腹が減ったぞ!腹―!」


僕は扉を開けた。


「早く入って食べてください!」


「へへ。腹が減っては楽しめぬ!」


「存外、食欲もつまらない物ですね」


僕の嫌みは華麗にスルーされ、彼女は冷蔵庫を開ける。


「…甘い物しかない」


「それくらい我慢してください」


「お前の血を吸ったら、甘そうだな」


「ちゃんと普通の物も食べますよ。昨日もおにぎりがあったでしょう。」


僕は水を一杯飲んで、お湯を沸かす。彼女は渋々という様で一番高いあんみつをとり、テーブルに座った。そのあんみつを奪う。


「なんだよ、お前が食いたいの?」


「昨日のシュークリームから食べてください。」


結局、彼女が作ったシュークリームのケーキは食べることなく、冷蔵庫にラップされて入っている。


「えー。だってもうパサパサになってるじゃん。」


「あなたの作品です。」


僕はちゃんと二つシュークリームのケーキを取り出した。


「何か飲むもの-!」


「水くらい自分で注いでください!」


「へーい」


彼女は僕の隣で蛇口をひねって、手で掬い始めた。


「冷たいな。」


「なぜそのまま飲む発想なんですか。」


「いやー最近ずっとこんな感じだったから。」


そう言えば、この人浮浪してたんだった。黙ってコップを出してやる。


「お、いいね」


コップに水を入れて飲む。それすら嬉しそうだった。


「水道水って意外といけるよな。」


「日本の水道技術は世界に誇れますから」


「へぇー。すごいんだな」


そうこうしてるうちにお湯が沸いた。火を消して、ココアの粉を取り出す。


「飲みますか?」


「やっぱり甘いんだな。」


「ならあげません」


マグカップに粉を入れて、お湯を注ぎ、スプーンでくるくると回す。その行為すら、彼女の目には新鮮に映ったようだ。


「何か、いいなそれ。俺もやる」


そういって勝手にコップを出した。


「割れます。止めてください。」


マグカップを出してやる。


「何が違うんだ?」


「めんどくさいので説明はしません。」


ふーんと言いながら、粉は僕と同じように入れた。少し多めになったようだが。お湯を注いで、スプーンでくるりと回す。


「いいな。これ、暖かくて、優しい」


色々と溶けていく感じがする。と彼女は言った。両手にマグカップを持って、息を吹きかける姿は若干下半身に熱を持たせたが、自分の感覚に無視を決め込む。


「あちー!!」


あ、うん。ほら。この人こんな感じだし。


「そりゃそうですよ。冷めるまで待ちましょう。」


そう言って僕は、シュークリームの山とココアをパソコンの側に置き、早速仕事に取りかかる。画面一杯にペレが出ると、月姫は驚いた様に声を上げた。


「おー!お前もしかしてゲーム作ってんの?」


「そうです。ゲームは知っているんですね」


「知ってるも何も、これがなかったら俺は暇で死んでた。」


「引き籠もりだったんですか?」


言ってすぐ、しまったと思った。人の過去は聞くものではない。他でもない、自分が過去を聞かれるのを苦手とするから。


「嫌なら答えなくていいですから。ごめんなさい。」


彼女は苦笑して、


「やっぱ、お前変わってるな」


といった。その言葉が胸にずしりと重かった。やはり、僕は人と上手く接っしていないのだろうか。


「何?しょげてんの?」


「いえ、別に」


彼女は僕が座っている椅子を回して、無遠慮に僕の目を覗き込んできた。思わず逸らす。


「悪い。雪は、変わってるといわれるのが嫌なんだな」


「いえ、別に」


「同じこと言ってるぞ」


そういって彼女は僕の肩を叩いてきた。


「引き籠もりじゃねーな。引き籠もりって、自分から閉じこもる人のことを言うんだろう?俺は、強制的に閉じ込められてたから」


「え?」


思わず聞き返した。一瞬、拉致監禁という言葉が浮かんだ。それは彼女の神々しい美しさになぜかひどく合う、と思ってしまった。


「あいつらさ-、バカって言うか爪が甘くてさ。外のことはほとんど分からないようにテレビとかは付けなかったくせに、俺が暴れるようになってから、ポータブルのゲームを渡してきたんだよね。」


どこか他人事のように彼女は語り始めた。


「あいつら、ゲームのことをよく知らなかったみたいだ。最近のゲームってネットに繋がるじゃん。そこからさ、色々外の情報を知るようになったんだよね。ゲームの中で外の奴とも話すようにもなったし。それで徹底的に知ったね。俺が置かれてる状況は異常だって。まあ、うすうす気付いてたんだけどさ。」


「それって、つまり、監禁、ですか」


「監禁より、幽閉の方が合うって、ゲームの中のやつは言ってたな」


だとしたら犯罪だ。こういう時はどうすることが正しいのだろう。


「警察に言うのが正しいんでしょうか。」


「幽閉してたの、俺の親父。しかもあの人めちゃくちゃ警察に顔がきくから、警察に言ったところで意味なんてないね。」


「…お父さん?」


「そ。お前は綺麗すぎるから、外に出るのは危険なんだよって。物心ついたときから、あの屋敷から出たこと無かったんだよね。」


昨日からキャパオーバーが続いている。脳が焦げそうだ。そんなことあるのだろうか。いや、自分が産んだ子をそのまま寒空の元にほっぽり出すやつが居る世の中だ。自分の娘を幽閉する人間もまた、居てもおかしくないのかもしれない。


「まあ、屋敷がめちゃくちゃでかかったから、十四、五位まで、実は違和感なかったんだよね」


「そんなに大きかったんですか?」


聞くべきはそこだったか、よく分からないがもう正常な判断は出来そうになかった。


「でかいでかい。そこから見える景色ぜーんぶ位はあったぞ」


うち結構見晴らしいいですけど!?あまり大きな建物がないところである。最上階の5階から見える景色はドーム一つ分はありそうだ。そんな大きな屋敷をまるっと幽閉に使えるような父親は何をやってるというのだろう。確かに、すごい権力を持ってる人には違いないだろう。


「まあ、それで逃げてきたんですね」


「逃げる…そうだな…」


そう言って、彼女は押し黙った。何か悪いことを言ってしまったのだろうか。僕は彼女の顔を覗き込んだ。


「うわっ!何だよいきなり」


「え、いや、あの、月姫(かぐや)さんの真似をしたつもりなんですが」


先ほど、悪いことを言ったのかと自分を覗き込んだではないか。でも僕にはそこからの判断方法は不明だった。


「あ-、なるほどね」


月姫は軽やかに立ち上がり、シュークリームをもってソファーにいってしまった。


「気にすんな。ちょっとしたトラとウマってやつだ」


「トラウマですか?」


まあ、幽閉されればきっとトラウマにもなるだろう。


「あれ、トラとウマが正しいんじゃないんだ。略してるのかと思った。」


「残念ながら、語源もトラとウマではありません」


「ふーん。お前、なんか頭良いよな、なにげに」


「なにげに、って失礼ですね」


僕は伊達眼鏡をくいっと上げた。彼女は何が楽しいのか笑った。


「いただきます」


丁寧にも彼女はそう言って、固いと文句を言いながらシュークリームを食べ始めた。いただきます、と僕もなぜか小さい声で言ってしまった。ぱりぱりになったシュークリームはいつもより甘い気がした。

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