七 紺碧の世界にただひとり

 ひととおり書架の間を回ってみたが、図書館に鯉の姿はなかった。二人は廊下に出て、気の抜けたため息をついた。恍惚状態から醒めて、ようやく正気に戻ったような気分だった。

「いよいよ体育館だね」

 歩きながら声をかける。口に出したことで、再び緊張感が戻ってきた。芳乃が頷く。

「なぜかしら、会えるような気がするわ」

 気がつくと、廊下には魚が見当たらなくなっていた。芳乃が、体育館の扉に手を掛ける。綺も手伝って、二人は重い扉をひらいた。

 体育館の中は、広いせいか、ずいぶんと暗かった。隅のほうは闇に沈んでいる。だが、見上げた視線の先は青く――

 悠々と泳ぐ、巨大な影が一つ。

「築村さん。鯉って、あれ?」

 とてもとても、そんな大きさには見えないのだが。

「でも、あれよ」

 芳乃は静かに言いきった。

「どうやって捕まえるの?」

 体育館にそんな大きな窓はないから、逃げてしまう心配はない。だが、捕まえる方法がなければ意味がない。

 芳乃はしばらく目を閉じていたが、頷いて鯉をひたと見つめた。

「ここは、水の中よ。一か八かやってみるわ」

 綺がその言葉の意味を問う前に、芳乃は、スカートをひるがえして床を蹴っていた。

 いつかのように、止める間もなく。

「よ……芳乃!」

 彼女は、一度こちらに目を遣って、微笑んだのだろうか、ただ、彼女の言葉だけは伝わってきた。

 大丈夫よ、綺。

 芳乃はまっすぐ上っていった。上履きを履いた両足が、申し訳程度に水を蹴る。鯉がこちらに注意を向ける気配はない。

 綺は中途半端に放り出されたまま、なあんだ、と呟いた。

「私たちも、泳げたんだ」

 芳乃が鯉に手を伸ばした。



 肝心の布地を忘れてきたことに気づいたのは、もう駅のそばまで来ていたときだった。

 芳乃は、取りに戻ることになんの躊躇もなかった。すでに学校は閉まっているかもしれない。だが作業が滞ることより何より、あれを放置したままでいることが我慢できなかった。

 学校までの道をひたすらに駆ける。校舎に駆けこむ頃には肩で息をしていたが、それでもなんとか回収することができた。

 物思いに沈みながら、再び来た道をひき返しはじめたときだった。すっかり暗くなった道を、突如、強烈なライトが切り裂いた。

 それを芳乃が認めた瞬間、彼女の身体は強い衝撃とともに宙に浮いていた。地面に叩きつけられるまでの僅かな時間に、彼女の瞳に、手からすり抜けて遠くに放り出される鞄が映った。

 わたしのこいが。

 そこで彼女の意識は断たれ、青と黒の中に、くるりくるりと沈んでいった。

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