六 消えゆく虹を焼きつける

 昇降口の前を通り、渡り廊下をめざす。

「そうだ、図書館にも寄っていこうね」

「そうね」

 両側に大きな窓が並ぶ渡り廊下は、今まででいちばん明るかった。壁には何匹もヒトデがはりついている。黄、青、橙など色とりどりで、腕は細いもののほうが多い。星というより、まるで壁に花が咲いたようだ。

 綺はふと、ひらいた窓の一つから大きく身を乗り出した。水の中だから、桟を掴む腕と、支点にしている腹に掛かる負荷が少ない。ぐっと身体を逸らして上を見上げる。

 探していたのは、この青い世界の光源だった。

「月……なの?」

 限りなく青に近い白のそれは、今ちょうど南中といったところか。

「月も水の中なのかしら」

 同じように天を仰いだ芳乃が、隣で呟いた。うっすらと白い半透明のクラゲが二、三匹、水の空を横切っていった。


 渡り廊下を渡りきった、すぐ右手が図書館だ。直進すれば体育館である。

「図書館のドアも閉まってるね」

「中にいるのがフナの大群だったら、嫌ね」

 二人は顔を見合せて笑った。

「大丈夫、フナはコイの仲間だよ。鯉がいるかも」

「そう願うわ」

 薄紫の筋の入ったひれを広げたミノカサゴが、ゆっくりと廊下の隅を泳いでいった。背の高い観音びらきのドアを、二人は同時に開け放った。

 図書館の中は、サンゴ礁だった。

 明るい館内のそこかしこにサンゴがあり、色鮮やかな魚が群れている。

 一際目を引くのは、普段は自習や読書に励む生徒たちの使う机が並んでいるはずの場所に、巨大な塔のように育ったサンゴだった。群がる魚たちの鱗が光を受け、まるで極彩色の花吹雪がつむじ風に乗って輝いているようだ。

 美しい眺めだ――恐いほどに。

 瞬きすらも忘れていた綺の目を、温かいものが覆った。芳乃の手だった。

「綺麗すぎるものは、見てはだめ」

 綺の後ろに回って、両手で目を塞いでいるのだろう。彼女の声が耳許で聞こえた。

「どうして?」

「辛いから」

 短い答えに、痛みが滲んでいた。

「いくら伸ばしても手が届かないことを悟り、目を逸らすときに、辛すぎるから」

 言葉尻が微かに震えている。だから綺は、考える前に反論していた。

 痛いまま、呑みこませてはだめだ。

「それは、違うよ」

 綺は芳乃の両手首をそっと掴んで、下ろした。ふりむいて、目を瞑っている彼女の、僅かに眉を寄せた顔を見つめる。白い瞼の向こうにあるはずの、瞳を見すえた。

「綺麗だと思えるものは、ちゃんと見つめなきゃ。でないと、手を伸ばすこともできないよ。それに、たとえ届かなくたって、近づくことはできる」

「ぜんぶがそうとは限らないわ。決して手の届かない、近づくこともできないものだって、あるでしょう」

「そうかもしれない。でも、それこそ目に焼きつけるべきなんじゃないかな。手に入れることができなくても、心の中に描けるように」

 彼女は答えなかった。綺は、芳乃の瞼から目を逸らさなかった。

 築村さん、目を開けて。

 見えない視線の押し合いに、勝ったのは綺だった。芳乃は、目を開けて綺を見た。

 綺は柔らかく笑んで、芳乃の前からどいた。二人並んで、サンゴの塔を見上げる。天窓から降りそそぐ光が、塔に、オーロラに似た青白いベールを被せていた。

「……綺麗ね」

「うん」

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