五 声ではすくえぬ黒の中

 再び、階段の前に戻ってきた。

 やっぱり、怖い。なんでさっきは独りで降りられたんだろう。

 唐突に立ち止まった綺の顔を、芳乃は怪訝そうに覗きこんだ。

「どうしたの?」

 綺は、左の肘を痛いほどきつく握りしめながら、笑ってみせた。

「ごめん、なんでもないよ。行こ」

「嘘ばっかり」

 ため息混じりに言った芳乃は、力を込めすぎて白くなっている綺の右手を、自分の左手で包んだ。不意を突かれて緩んだ綺の手を取る。

 そのまま、幼い子供の手を引くように、芳乃は綺の手を握って階段に踏み出した。

 綺の口から情けない声が漏れる。

「うう……ごめんね」

「え? 何が?」

 先を歩く芳乃が、仰ぐような姿勢でふりむいた。綺は八の字の眉のまま笑って、ありがとう、と言い直した。

 右手の感覚だけに意識を集中させて、進む。

 踊り場に到着する。ここには小さいながら窓があって、階段の中では明るい場所だ。綺が、あと半分、と自分を鼓舞したときだった。

 さあっと、青い光が翳った。視界が闇に包まれる。

 綺は一瞬で硬直した。芳乃とつないでいる右手に歯止めが利かなくなって、力の限り握ってしまう。

 芳乃は動じず、手を握り返してくれた。そっと顔を近づけて、囁く。

「エイよ。ただの、エイ」

 長い長い数秒が経って、ようやく光が戻った。綺がぎくしゃくと窓を見上げると、細長い尾のシルエットが、まだ窓に掛かっていた。

「上に行ってしまったわ」

「び、びっくりしたあ……」

 綺はその場にへたり込みそうになった。だがそれも、足許に何かがいたらと思うとできない。光の届かない場所には、気味の悪い生き物がいると相場が決まっている。

「もう一息よ、行きましょう」

 大丈夫、と芳乃が優しく笑んだ。


 ようやく、明るい場所に出た。

「無事に帰ってこられた……!」

 大仰な綺の言葉に、芳乃がくすくすと笑った。ふわり、何気なく手を離す。綺はへなへなと膝をついた。床にいた魚が慌てて逃げる。

 忘れてしまいそうなくらい肌になじんだ、水の感触に包まれる。手の平に、まだ芳乃の体温が残っている気がした。

 どうして、と綺は呟く。

「手をつないでもらったら、歩けたんだろう」

「そうねえ。特に深い考えがあったわけではないのだけれど」

 芳乃は綺に目線を合わせるように、しゃがみこんだ。自分の行動を思い起こすように、目を閉じる。

「気づいたら、手を出していたの」

 綺は苦笑した。

「その言い方、喧嘩で叩いたみたい」

「案外、同じような原理なのかもしれないわ。言葉が通じなければ、言葉が足りなければ、直接訴えるのよ」

 私はここにいるんだよ、って。

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