四 緋に染む花籠

 並んで廊下を歩きながら、綺は芳乃に問いかけた。

「鞄って、どんな鞄?」

「黒い、学生鞄よ」

 ただね、と、芳乃は深刻そうな顔でつけ加えた。

「今は、鯉になって泳いでるの」

 綺は呆気にとられた。

「鯉って……鯉? 池とかにいて」

 芳乃が頷いて後を引き取る。

「そして、五月には空にいる魚。そう、その鯉よ」

「捕まえるの、結構大変そうだね」

 思わず本音が零れる。表情の翳った芳乃に、綺はぱたぱたと手を振って見せた。

「大丈夫、取り戻せるよ」

「どうやって?」

 う、と言葉に詰まって訊き返す。

「築村さんは、どうするつもりだったの?」

 芳乃はため息をついた。

「ひょっとして、考えて、ない?」

 彼女は申し訳なさそうに頷いた。綺は腕を組んで唸る。

「どうしようか……」

「それは、見つけてから考えましょう?」

 なんとも能天気な答えに苦笑してしまう。だが、とりあえずは頷くほかなかった。

「失くした場所に心当たりは?」

 芳乃は悲しそうに首を振った。

「分からないわ……」

 でもね、と、芳乃は目を閉じた。歩きながらでは危なっかしいことこの上ないが、足取りには迷いがない。

「たぶん、広い場所にいると思うの。それと、この学校の中にいることは確かよ」

「広い場所かあ……じゃ、体育館に行ってみよう? あっちこっち回りながら」

 綺の提案に、芳乃は少し間を置いてから、目を開けて頷いた。


 体育館へ行くには、いったん一階に降り、渡り廊下を渡って別の棟へ行かなくてはならない。再び階段を使うのは気が進まなかったが、仕方ない。

 だがその前に。

「二階にある広い教室っていうと、美術室だね」

「ええ」

 二人は、暗がりに沈んでいる階段をとおりすぎ、美術室の前に来た。

 閉まっていたドアを開け放って、綺は歓声を上げた。後ろにいた芳乃も、部屋の中を覗いて顔を輝かせる。

 水に溶けこみそうにやわらかな緋色が、ひらりひらりと舞っていた。美術室は、金魚の住処だった。

 緋色だけでなく、白や黒、またそれらが入り混じったものもいる。だが、どの金魚も負けず劣らず可憐な姿で、ゆったりと泳いでいた。画材や工具、生徒たちの作品などが詰めこまれた棚や、大机、並んだ四角い木の椅子に、透けるような緑の水草が絡みついている。

 二人に興味が湧いたのか、何匹かが寄ってきた。そうっと手を伸ばすと、つんつんと指をつつく。まるで、指先に緋色の花が咲いたようだ。綺と芳乃は声を上げて笑った。金魚たちが驚いて距離を取る。

「すごいね。かわいい」

「でも、私の鞄はないみたい」

 綺は頷いた。黒い鯉の姿は見当たらない。

「じゃあ、行こうか」

 二人は廊下に出ると、そっとドアを閉めた。階段に向かって歩き出す。芳乃は名残惜しそうに、ときどき美術室をふりかえった。

「美術室、金魚たくさんだったね」

「ええ、金魚だけたくさん」

 芳乃の言葉がふとひっかかった。

「なんで美術室だけ、金魚ばっかりだったんだろ。私、築村さんに会う前に被服室にいたんだけど、あそこはほとんどなんにもいなかった。廊下に出てびっくりしちゃったよ」

「廊下は、どこともつながっているから、かしら」

 なるほど、と綺は頷いた。最初に見た小魚の群れが、窓から入ってきて廊下へ出ていったのを思い出す。

「だから、逆に美術室は、金魚ばっかりだったんだね」

「どういうこと?」

 芳乃は首を傾げた。

「美術室のドア、最初は閉まってたでしょ?」

 今度は芳乃が、ああ、と頷くと、目を閉じた。

「魚だけじゃなくて、水草もあんまり種類がなかったわね。……閉鎖的だから、一つの色に染まるのかしら」

 金魚たちの優美な檻。閉じ込めるのではなく、閉じ籠るための。

「でも金魚たち自身は、そんなつもりないと思うなあ。自分たちが一色だと思ってなさそう。僕はリュウキンだけどあいつはワキン、みたいな」

『金魚』と一言で言い表せてしまうけれど、美術室にいた金魚は、一種類ではなかった。それに、基本の色数は多くはなかったが、微妙な模様はそれぞれに違う。

「中にいると気づかないものよ、自分も染まっているということに」

「……ただ色が移るのと、一つの色に染まりきるのは違うけどね」

 小さくつけ足した綾の言葉に首肯して、芳乃は目をひらいた。

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