三 彼女の向こうの青い彼女
目をひらくと、世界は青く、暗かった。
「ここ……被服室?」
綺は、よく見なれた場所に、制服姿で立っていた。今日部活を終えたときから、特に変わった様子はない。
部屋を見渡そうと首を動かすと、髪が頬をくすぐった。その柔らかな感触に、綺は息を呑んだ。
――水の中に、いる。
そう、被服室は、水の中に沈んでいた。
ためしに一歩踏み出すと、身体はいつもより軽いのに、少しだけ抵抗を感じる。スカートがふわりと膝を撫でた。
綺は改めて、被服室を見渡した。
暗いことには暗いが、周りが見えないほどではなく、窓からの青い光に照らされている。落ちる影は濃く、目に映る景色は青と黒で構成されていた。
耳を澄ます。何も聞こえない。
不安になって、声を出してみた。
「……なんで?」
大丈夫、耳は機能している。酸素の心配も必要なさそうだ。
視界の隅で何かがきらめいて、綺はぱっと視線を向けた。
銀色に光る小魚の群れが、すうっと窓から入ってきたところだった。
魚たちは、動けないでいる綺の目の前をとおりすぎ、開いていたドアから去っていった。
「部活のあと、ちゃんと閉めたのに」
綺はなんとかそう呟くと、魚の後を追うように、被服室を出た。二の腕に触る袖がくすぐったい。
どうやら、被服室は相当に静かな場所だったようだ。廊下に出た綺は目をみはった。
無音であることに変わりはないものの、そこは、泳ぎまわる魚たちで大賑わいだった。
床の隅や窓の桟には、サンゴやイソギンチャクがはりついている。何かを踏みつけかけて、慌てて足を上げると、ごつごつした巻き貝だった。頭の上、灯っていない蛍光灯のすぐそばを、細長い魚がするすると泳いでいく。器用に綺を
窓の外を見ると、やはり魚が泳いでいる。ここから見える景色は、どこまでも水底に沈んでいた。校庭に、無数の魚の影が揺れる。外にはもっと大きな魚も多くいるようだった。
「どこに行こう……」
とりあえず、教室に向かうことにした。
階段は窓が少なく、足許も覚束ないほど暗い。綺は一歩一歩、慎重に降りていった。何が生息しているかわかったものではないから、手摺にすがる気にはなれない。
闇の中に、ごく小さな光の点が、幾つか蠢いている。身体の一部が光る種類の魚たちのようだ。視界の隅の俊敏な動きに目をやると、後ろ向きに猛スピードでエビらしきものが逃げていくところだった。
ようやく二階に辿りついて、ほっと息をつく。光の量が、格段に違う。
水の中にも慣れてきて、すいすい教室の前まで進めた。ひらいたドアから中を覗きこむ。
窓のそばに、人影が一つ。
一人きりの静寂になじみはじめいていた綺は、さっと顔をこわばらせた。逆光になっていて、よく見えないが、女生徒のようだ。どうやら窓の外を眺めているらしく、こちらには気づかない。
一拍置いて、心を落ち着ける。確信を持って呼びかけた。
「築村さん」
ゆらりと前髪を揺らしてふりむいたのは、はたして芳乃だった。昼間の――陸の上の学校では見せたことのない、幼いような不思議そうな表情を浮かべる。
「小里さん?」
綺は頷いて、教室に入った。
「築村さん、何してるの?」
「そういうあなたは、何をしているの?」
訊き返されてから、自分は答えられないことに気づき、綺は曖昧に笑った。
「んーと、散歩? みたいな」
そう、と芳乃は首を傾げた。
「私はね、失くした鞄を探しているの」
「失くした、鞄?」
「ええ……」
彼女は答えながら、再び窓の外を見やった。
「私も、探すの手伝おうか」
芳乃は目をまるくして、綺を見つめた。
「ほら、私、することないし」
両手を広げて手持無沙汰をアピールすると、芳乃は嬉しそうに顔をほころばせた。
「ええ、手伝って」
築村さん、そういう顔もできるんだ。そういう、かわいらしい笑顔。
そう思うと、何か新発見でもしたような、誇らしい気分になった。
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