二 失ったのは白い背中

 翌朝。

「……えーそれから、昨日の帰り、うちの生徒が轢き逃げに遭いました」

 SHRでの担任の言葉に、ざわ、と綺のクラスはどよめいた。

「え、嘘」

「誰? 知ってる?」

 生徒たちの言葉に担任は少し顔をしかめたが、それ以上の情報は与えず、皆も登下校の際にはじゅうぶん注意するように、とありきたりに締めくくった。

 SHRが終わって、ロッカーに教材を取りに行こうとしたときだった。綺は担任に呼びとめられた。

「小里さん」

「はい」

 担任の顔は重く、綺は返事をする一瞬の間に、何か怒られるようなことをしでかしたか記憶を漁ってしまう。特にこれといった心当たりはない。

「一限が始まる前に、藤倉先生のところに行って」

「え? あ、はい。わかりました」

 藤倉先生は家庭科教師で、手芸部の顧問だ。

 綺は内心首を傾げたが、ぐずぐずしている時間はない。一時限目が始まるまでには、もう十分も残されていなかった。綺は教室を飛び出した。

 階段を駆け上がり、小走りで家庭科研究室に向かう。ノックしてから、失礼します、一‐Cの小里です、とドアを開けると、藤倉先生は待ちかねていたように立ち上がった。

 藤倉先生は、温和な初老の女性だ。綺は緊張しながら、眼鏡の向こうの藤倉先生の瞳を見つめた。担任と同様、藤倉先生も妙に暗い顔をしていて居心地が悪い。

「昨日、一年で部活に出ていたのは、あなたと築村さんだけね?」

「はい」

「帰りは別々だったの?」

「いえ、築村さんと、駅の近くまで一緒に帰りました」

 先生の表情が、僅かに動いた。綺は訳がわからないながらも、言葉を続ける。

「でも、築村さん、途中で『忘れ物した』って学校に戻ったので、そこで別れたんですけど」

「そう……」

 藤倉先生はため息をついた。

「あの、築村さんがどうかしたんですか?」

 とまどう綺に先生は首を振って、授業に遅れるわよ、と家庭科研究室から追い出した。

 仕方なく、再び小走りで教室に戻り、授業が始まる寸前の教室にすべりこむ。

 一時限目が終わると、同じクラスのみのりが綺に駆け寄ってきた。

「あのね、璃緒に聞いたんだけど、轢き逃げされたのって築村さんらしいよ」

 え?

 綺は茫然と、みのりのよく動く口を見つめた。璃緒は、築村芳乃と同じB組に所属している。

 きっと、間違いなんかじゃない。

「今日、休んでるんだって。怪我ひどいのかな。綺、何か知ってる?」

 みのりの口調には、同じ部活に所属してはいるもののあまり接点のない築村芳乃に対する、やや他人ひと事めいた同情と、少しの好奇心しかない。だが、綺はみのりと同じ程度の関わりしかないはずなのに、冷静には受け止められなかった。

 昨夜の、走っていく築村芳乃の後ろ姿が胸をよぎる。白いニットのベスト。

「綺?」

「え、あ、ううん」

 綺は慌ててかぶりを振った。ぎゅっと左の肘を握る。

「さっき、一限の前にね、藤倉先生に築村さんのこと訊かれた。昨日、みのりも璃緒も出なかったでしょ? だから途中まで一緒に帰ったんだけど、轢き逃げなんて全然知らなかった」

 築村芳乃が忘れ物を取りにひき返したことを説明すると、みのりはふうんと頷いた。

「築村さん、忘れ物なんてするんだね」

「ね。で、しかも、取りに戻ったのが意外だった」

 築村芳乃は、しっかり者と評されているとともに、どこか冷めているような、淡泊なような印象を与える少女だった。

「まあ、綺だったら絶対そのまま帰るよね」

 みのりの的確すぎる言葉に、綺はむう、と口を尖らせる。

「酷いなあ」

「どこが酷いのよ、事実でしょ」

 築村さんのこと、部活の時に先生に訊いてみようっと。

 みのりがそう呟いたところで、二時限目の先生が教室に入ってきた。



 次の日も、また次の日も、築村芳乃は学校に姿を見せなかった。彼女が意識不明のまま目を覚まさないらしいということは、すでに周知の事実だった。

 文化祭まで残り一週間を切り、校内は浮足立っている。だが、綺の脳裏からは、最後に見た築村芳乃の白い背中がちらついて消えない。

 轢かれたとき、あの背中は赤く染まったのだろうか。

 ふとそんなことを考えている自分に、嫌気が差す。

「築村さん、来ないね」

 部活中、誰かがぽつりと呟いた。常に黙々と針を動かしていた築村芳乃の不在は、手芸部に奇妙な穴を開けていた。ずしり、と、見えない何かが綺の肩にのしかかる。

「綺、大丈夫? 顔色悪いけど……」

 向かい側に座っていた璃緒が、心配そうに綺の顔を覗きこんだ。

「平気平気。何でもないよ」

 綺は力なく笑ってごまかした。

 私が、あのときちゃんと止めていれば。

 ぎゅっと左の肘を握る。考えても仕方のないことだと、わかってはいた。ましてや、綺の責任ではないことも。

 それでも、自分を責めずにはいられなかった。



 綺はどさりとベッドに倒れこんだ。細い月明かりが、カーテンの隙間から射しこんでいる。布団の中に潜るのすらも億劫に感じた。

 今頃彼女も、どこかの病院のベッドで、静かに横たわっているのだろうか。頭には包帯でも巻いて、腕には細い管なんかがつながっていて。

 目を閉じながら思う。眠りにひき込まれる直前に浮かんだのは、理不尽で自己中心的な、けれど素直な言葉だった。

 ねえ、築村さん。どうして目を覚まさないの?

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