アクアドリーム

音崎 琳

一 流れゆく水を掴むように

 月の綺麗な夜だった。

 自室に戻ると、レースのカーテン越しに白い月影が、くっきりと床に落ちていた。

 あやは、思わず蛍光灯のスイッチに伸ばした手を止めて、光と闇のコントラストに見入った。だがすぐに、頭を振って灯りを点ける。身体は休息を要求しており、呆けていればそのぶんだけ、ベッドに入れる時間が遠ざかる。

 閉め忘れていたカーテンを引く。帰ってきたときに放り出したままのナイロンの通学鞄から、ノートやら教科書やらを取り出して机の棚にしまった。大部分をロッカーに入れたままなので、量はそう多くない。高校生用の教科書は小さくて便利だ。

 明日の時間割を確かめようとした拍子に、部活用のクリアファイルに手が触れた。中に入っているのは、コピー用紙を切り取った型紙。綺は手芸部員だった。

 今、手芸部は、文化祭に向けた作品制作に追われている。

 今年の文化祭のテーマは、『アクアリウム』。手芸部は、魚や水の生き物を模した手芸作品などを、水族館のように展示するという企画を立てている。

 脳裏に、一人の手芸部員の顔が浮かんだ。



「あ……もう時間か」

 一区切りついて顔を上げると、時計の針は六時二十分を回っていた。

 綺は裁縫道具を片付けはじめた。型紙はファイルに入れて鞄に。裁縫箱と作りかけの作品は、被服室の戸棚に。思い思いの机に固まって作業していた他の部員たちも、帰り支度を整えている。

 綺も、いつもはとみのりと、三人でお喋りに花を咲かせつつ針を動かしている。だが、今日は二人ともそれぞれ用事があるようで、顔だけ出して帰っていた。

 だから綺は、普段はひとりで活動している築村芳乃と、同じ机で作業していた。

築村つきむらさん、どんな感じ?」

「まあまあはかどったわ」

 くるくると布を畳みながら、彼女は顔を上げずに答えた。彼女が縫っていたのは、長いほうの辺が肩幅よりも大きな、黒くてやや細長い布だった。

「何作ってるんだっけ」

 無愛想な返事に、綺はめげずに問いを重ねた。築村芳乃は、黒い通学鞄に裁縫箱や布を入れている。家に持ち帰って進めるのだろう。やはり彼女は、片付けの手を止めずに答えた。

「鯉の、ぬいぐるみ」

 右耳の下で束ねた髪が、蛍光灯の下でも艶やかだった。

 綺は目をまるくした。

「へ、へえ」

 なんで、鯉……?


 流れで、帰りも一緒になった。

「文化祭まで、あと十日くらいだっけ」

「そう。あと十二日ね」

「……私、終わるかなー」

「終わるといいわね」

「……うん」

 会話がさっぱり盛り上がらない。綺はため息を噛み殺した。なんとか共通の話題を振っても、端的な答えが返ってくるばかりでふくらまない。会話の途切れる空白が、ちくちくと心に刺さる。気まずい思いで彼女の横顔をそっと窺うと、いつもと変わらない静けさが湛えられていた。

 築村芳乃はいつも、こんなふうに静かな顔をしている。綺は、彼女が大口を開けて笑っているところを見たことがなかった。

 築村さんって、どこを見ているんだろう。

 ふとそんなことを思う。

 遠目に駅の灯りが見えてきたあたりだった。彼女は不意に歩みを止めた。綺は、勢いのままに二、三歩進んでから、立ち止まってふりむいた。

「ん? どうしたの、築村さん」

「私、忘れ物をした気がする」

 答えながら、彼女はすでに鞄の中をまさぐっていた。

「やっぱり、ない」

 すうっと眉を寄せて呟く。

「何を忘れたの?」

「鯉を。――私、取りに戻るわ」

「え」

 ひきとめる間もなく、彼女はスカートをひるがえして走り出していた。白いニットのベストの背中が、みるみる逆方向の人波に紛れて遠ざかっていく。

「もう暗いのに……。学校だって閉まってるんじゃ……」

 ポケットから携帯を取り出す。ディスプレイには、〝18:46〟と表示されていた。



「築村さん、学校入れたのかなあ……」

 教材を入れ終わった鞄を締めながら、ひとりごちる。それきり、一人の少女の面影は、綺の脳裏から霧散した。

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