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●テクストと翻訳

 Cuius exemplum : sicut nos non potest cernere hoc et illud radium solis vel hunc et illum hominem quorum omnes qualitates sunt eaedem.


 このことの例 1)。たとえば、私たちは太陽光線と太陽光線とを見分けることができない。あるいは、〔私たちは〕全ての性質が同じであるところの人間と人間とを見分けることが出来ない a)。


  1) 訳註。「註釈」において述べておいたことであるが、この段落はむしろ直前の段落につなげて読んだほうが、議論構成上適切であると思われる。詳細に関しては第一段落の「註釈」b に付された訳註を参照のこと。


●註釈

a) 刻々と、一瞬一瞬のうちに太陽はすこしずつ傾きを変え、その光を変じさせる。朝のまだきに薔薇色の光を放つ太陽は、青黒い夕闇のなか沈んでゆくまで、連続的に色を変化させてゆく。そのそれぞれの色の間の差異は、微妙なものであるとしても異なるものである。私たちはこの太陽光線の例をドゥンス・スコトゥスの著作において見い出すことができる 1)。ただしそこでスコトゥスは感覚能力に限って議論を行っているが、ここでの無名氏の議論はむしろ知性の働きに関するものであろう。スコトゥスは同じ箇所で、太陽光線の例以外に、場所の相異が取り除かれた、白さや大きさ等の点でまったく同じ二つのものが神の力によって存在していたら、私たちはそれを区別することができないであろう、という例を取り上げている。奇妙な例であるが、性質が完全に一致した二つの事物があったときに、つまり「完璧な双子」あるいは「完璧なクローン」が存在する場合に、私たちはそれらを見分けることができないであろう、というものである。二人の人間についての例は、管見の限りでは出典を見いだせなかった。無名氏のオリジナルの例であると考えることも可能であるが、むしろスコトゥスの提示する第二の例との類似点が指摘され得るであろう。


  1) 訳註。Duns Scotus, *Ordinatio* II, d. 3, p. 1, q. 1, n. 21 (Vat. VII, 399-400).


 さて、このような例は妥当なものであろうか。私たちはヘレンハウゼンの庭の落ち葉のことを知っている。ライプニッツによれば、どれだけ庭を探しても、同じ葉っぱを見つけることなどできないのである。確かに私たちは、まったく同じ性質、例えばまったく同じ色をして、まったく同じ虫食いがあり、まったく同じ葉脈を持つ二つの落ち葉が存在するということを経験したことはないだろう。「真にの存在でないものは、また真に一つのではない」という、アルノー宛書簡におけるライプニッツによる定式を私たちは知っている。「一」であるということは、思っている以上に内容が豊富である。一つのものとして存在しているということは、そのものが「他のものではなく、それ自身でしかない」ということを含意している。つまり、一つのものが存在するということは、それがそれ自身であること、つまり然々の個であることを含んでいるのである。その場合に、二枚の落ち葉が相異する性質を持つ、ということを含意していてもおかしくはないだろう。

 無名氏は、しかしながら、仮にライプニッツよりも後代に生まれ、彼をよく知っていたとしても、性質がまったく同じである二人の人間の例を熟慮すべきものとして考えたであろう。現代においても、不可識別者同一の原理が疑われるべきものとしてあるように、無名氏も、神の奇跡によって、あるいは悪魔の試みによって、まったく同じ性質を持った二人の個別者が可能であると考えていたからである。

 なお、第六段落の註釈 a において詳述するが、第二の例、つまり「全ての性質が同じであるところの人間と人間とを見分けることが出来ない」という問題に関しては、おそらく第三段落執筆以後、それもおそらく第十段落執筆以前に追記されたものであろう。

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