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●テクストと翻訳

 Adhuc, probatio minoris, quia, secundum DOCTOREM SUBTILEM, individuum est compositum ex natura communi et entitate individuali ; natura autem communis est primum obiectum intellectus nostri ita quod cognoscibile, entitas vero individualis non potest cognoscitur ; sed individuum ut tale cognoscitur per illam entitatem ; ergo etc. Igitur cum aliquis non possit cognoscere individuum ut individuum, non potest amare.


 さらに、小前提の証明。理由は以下の通り。精妙博士によれば、個別者は共通本性と個別的存在性とから複合されたものである。ところで、共通本性は私たちの知性の第一の対象であるので、認識され得るものであるが、他方で個別的存在性は〔私たちの知性によっては〕認識され得ない a)。ところで、個別者としての個別者は、個別的存在性を通じて認識される。したがって云々。したがって、ある人は個別者としての個別者を認識することはできないのだから、〔個別者を〕愛することはできない b)。


●註釈

a) これは無名氏が学んだドゥンス・スコトゥスの哲学における、個体化の原理についての学説である。スコトゥスの形而上学的な用語が散見される。しかし誤解を恐れることなく、ごく簡単に彼の見解を整理するならば、「人間」というのは、すべての人間に共通であり、人間が人間として、またすべての猫に共通であり、猫が猫としてあるための要素と、としてあるための要素という、二つの要素から成っている、と整理することができるであろう。後者が「個別的存在性」と呼ばれ、前者が「共通本性」と呼ばれている。私たちはすべての猫を「猫」と名指すことができるのは、スコトゥスによれば、共通本性、とくにこの場合、猫の共通本性によるのである。それと類比的に、私が猫をと名指すことができるのは、個別的存在性によってなのである。スコトゥスの個体化の原理については、多くの素晴らしい研究があるうえ、私はスコトゥスの専門家でもないため、ここでは詳細は省くことにしよう。

 そしてスコトゥスの論によれば、共通本性は知性によって認識が可能である。実際、私たちはソクラテスやプラトンをすべて人間というのもとで認識する。ソクラテスやプラトンが人間であるのは、決して変化しないことであり、「ソクラテスは人間である」という命題は、それゆえ、真である。そのようなしかたで、何らかの個別者の持つ本性は知性によって認識することができるのである。しかしながら、個別的存在性と呼ばれるものは認識されない。もし個別的存在性が現に私たちの知性によって認識されているとすると、私たちの日常的な直観に反する多くのことが帰結してしまう。このことは、第三段落で導入される例がもっとも明白に、私たちの直観に適ったしかたで説明してくれるだろうので、そこに譲ることにしよう。


b) あの憂鬱なパリの街で、無名氏は真面目にスコトゥスの哲学を学んだ。もしかしたら、無名氏はパリでスコトゥスの声を直に聴いていたかもしれない。パリ大学においては、学生がノートを取るのが困難であるほどの速度で、教師は授業を行わなければならなかったと伝えられている。無名氏もまた、その困難の中、苦しみながらノートを取ったのであろう。「第二問題」を執筆しているいま愛する人を愛しているのと同じくらいの情熱をもって、若い、あるいは幼いとさえ言えるころの無名氏は学問に打ち込んだ。同世代の、哲学史に名を残しているような人にも勝って、無名氏はみるみる頭角を現した。やがて彼はパリ大学の学芸学部の教師になる。彼は大学で学んだ多くのことを教えた。彼は優れた教師であり、学生たちはよく慕っていた。授業も円満に行われていた。それは、彼が教師を辞したとき、誰もが皆、その決断を疑ったほどであった。おそらく、教師を辞した無名氏自身もまた驚いていたに違いない。彼の内的な、ほとんど悪魔的なと言ってよいであろう、何らかの衝動が彼をして教師を辞めさせたのであるが、それは彼の意識的な行動ではあり得なかった。もしかしたらほんの僅かに、その最も根源的な理由が意識されていたのかもしれないが、それはほんとうにごく僅かであっただろう。その原因というようなものは、この「第二問題」においても、通奏低音として鳴り響いている。その音量は、終局部、すなわち第十三段落に近づくにつれて徐々に大きくなってゆくことが認められるであろう。反駁することができる見解として無名氏が考え、それを提示している第二段落においてさえ、その密やかな音色を私たちは聞き取ることができるかもしれない。混迷、不安、そして絶望という、不気味な不協和音である。その不協和音とは、彼の人生につきまとう、彼を慰める愛とは正反対のところにある、高い粘度の憂鬱である。それが突発的に現れて、彼をさえ驚かせる辞職を為さしめた。彼の運命は、ことばにしようとしても決して捕らえることのできない憂鬱に覆われていた言ってもよいだろう。! 無名氏という人間は、無名氏というは、ねばねばと糸を引く憂鬱に浸されていたのである。しかし無名氏自身はそのことにまったく、あるいはほとんど気がついていなかった。しかし、探求が進む中で、彼は否応なしに、その暗い憂鬱を自覚することになるだろう。

 無名氏は、この第二段落の議論を容易に反駁できると考えていた。実際、第八段落および第九段落の議論が示しているように、スコトゥス自身がこれとは違うしかたで個別者を認識することが可能であると述べているからである。それに基づいて彼は議論を進めていくことができると信じていたのであった。そうした希望のもとで、きわめて楽観的な思考のもとで、彼はこの第二段落を書き始めたのであった。第二段落を記し始めたときには、パリの街はゆっくりと暗い夕暮れに沈み始めていた。そして、第二段落を記し終えたときに、彼は外がすっかり暗くなってしまっていることに気がついた。手元のランプがちりちりと音を立てて、夜に浸かりきってしまった部屋を薄く照らしている。薄明るい部屋の中で彼は、奥底において憂鬱に支配されきっている陽気な思考で、この問題の完成を夢見ていた。そこで彼は、交感する五感によって、花園の甘さを、鐘の音の芳香を、蜜の響きを感じた気がした。それは素晴らしき夢であった。この問題の完成によって得られる幸福もまた、このようなものであろう、と背筋を震わせながら考えた。美しい幻想を背に負って、その日、彼は眠りに就いた。

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