第二問題と註釈
他の人々の見解
1
●テクストと翻訳
Iuxta hoc, in quaestione secunda, quaero utrum possit amare aliquis individuum. Circa hanc quaestionem, ALIQUI dicunt quod non, quia :
Si aliquis amat aliquid individuum, necesse ut aliquis intelligit illud ; non autem intellectus noster potest intelligere aliquid individuum, quia *sensus singularis, intellectus universalis* ; ergo etc. Maior patet, si enim aliquis non congnosceret aliquid individuum et illud posset amare, tunc aliquis posset amare illud de quo nihil scitur, quod est absurdum.
このことに続けて、第二問題においては、ある人は個別者を愛することができるかどうかを探求しよう a)。この問題を巡って、ある人々は、そうではないと語っている。その理由は以下のとおりである b)。
もしある人が個別的な何らかのものを愛するならば、その人がその個別者を知解していることは必然である。ところで、私たちの知性は、個別的な何らかのものを知解することはできない。というのも、「感覚は単一的なものに、知性は普遍的なものに関わる」からである c)。したがって云々。大前提は明らかである。というのも、もしある人が個別的な何らかのものを認識し、かつそれを愛することができるとすれば、その場合にはある人は、それについては何も知られていないものを愛することが可能であることになってしまうが、このことは馬鹿げているからである。
●註釈
a) さあ、私たちはここから、その名すらも歴史の流れの中で忘れられてしまったこの中世の哲学者とともに、誰か特定の人を、まさにその人として愛することの根拠の探求を始めることになる。もし読者の諸君がこの堅苦しい言いかたを好まないならば、そうだ、誰かいま自分の愛する人を一人思い浮かべて欲しい。無名氏にもまたそのような人物がいたのだから。その人を巡って、その人への愛を巡って、私たちは彼の議論を追うことにしよう。まずは総論的に、議論の先取りも含むが、この「第二問題」全体を素描することを試みる。
そこは十四世紀初頭のパリの街である。無名氏は、鬱々とした気持ちで歩み往く。右を見ても左を見ても、人々は喧しく行き交い、談笑し、騒ぎ合っている。彼はこの喧騒にいつも、そして今日もうんざりしていた。この街には、耐え難い息苦しさがある。清澄な思索を掻き乱す淀みがある。この街を歩むたびに、ため息が途切れることなく出る。ただ心地よいことは、雲が軽々と青い空を滑るように飛んでいくことだけであった。ただ天上のみが軽やかに快かった。それ以外のすべて、地を這うようにして伸び、這いつくばるような道すらが嫌悪の対象であり、感覚によって捉えられるほとんどすべてのことが気に食わなかった。
自らの抱えるその悶えるような憂鬱のただなかで、彼はふと視界の端に映ったある人に気がついた。その瞬間に、さきほどまでは今にも窒息死しそうであった彼の心は突如として華やぎ、躍りはじめた。振り向いて注視すると、その人は、まさに彼の愛する人である。ほとんど耐えられないくらいに寒気のする雑踏のなか、彼は自分の愛する人を、彼女の輝くような容姿によって(なぜなら、愛している人間がこの世で最も輝かしいのだから)簡単に探し出すことができるのである。彼は思わず駆け寄って、そこで彼女と気軽に挨拶を交わす......。彼の愛するその人には様々な外見的な特徴があったことだろう。それによって彼は彼女を雑踏から見分けることができたのである。彼女の髪は艶めいていた。肌は触れたいと思うような弾力をみせている。瞳は少女のように、黒く、きらきらと輝いている。川辺に立つその姿は涼しげで、見ているこちらも胸がすっとして気持ちが良くなる。駆け寄ってみると、肺腑を癒やすような優しい香りがする。その人には様々な特徴があり、無名氏は(私たちがふつうそうであるのと同様に)、その愛する人を、それらの特徴のゆえに愛し始めたのである。それらの愛すべきいくつもの特徴によって、彼は雑踏から愛する人を見つけ出すことができたのである。
素晴らしき時間であった。眩いばかりのいくつもの特徴は、それが無名氏の感覚によって捉えられるたびに、彼を優しく慰めた。そしてそのたび、彼は、雲が快調に流れてゆく天上にあるような気持ちになった。愛する人を見、その人の発することばを聴き、その芳しい香りを嗅ぐたびに、彼にとってのパリの街は反転するのである。街に溢れている人々の大騒ぎは、彼の幸福を言祝いでいるようであり、息苦しさなどさっぱりと消え失せてしまい、どこまでも伸びてゆく石畳の道は、彼のこの時間が永遠に続くことを象徴しているように、彼には思われるのであった。事実、彼にとって愛するこの人と過ごす時間は、もはや時間を脱してしまっており、分も秒もなく、永遠的であるかのごとくに感じられるのであった。彼は、愛する人のそばに寄り、その彼女を五感全てによって受け止めた。愛する人を目の当たりにしたとき、目が強い光を見たときのように、彼の感覚能力すべては眩き酔った。感覚が彼女を受け入れるたびごとに、鋭い快楽が訪れた。感覚能力に基づく、単純でわかりやすい幸福であった。ただ隣りにいる女性を愛するだけで、無名氏はこの幸福を享受することができたのである。それは彼にとって他のいかなることよりも貴い幸福であった。
美しいいくつかの特徴によって彼女を愛していた無名氏は、しかしながら、やがて不安に苛まれ始めた。諸君には、諸君が思い浮かべた愛するその人の十年後、さらには二十年後を想定してみて欲しい。無名氏も同様にそのように考えたのである。彼を慰めていた、愛する人のそうしたいくつもの特徴は、ほんの僅かな時間の間にも変化してゆく。艶めいていた髪は色あせてゆく。ふっくらと美しかった肌は弛み、触れたとしても、かつてそうであったようなしかたで指を快感とともに跳ね返すことはない。瞳は淀み、かつて少女がそのうちに湛えていた天上の夜である星空は、夜に覆われてしまった大地のように真っ暗な中へと沈んでしまう。最大の幸福であったのだが、もはや最大の幸福ではなくなってしまった。彼の形而上学的な愛の根拠の探求は、五感による快楽に水を差したようにして薄めてしまった。彼女はさまざまな変化を受け入れる。色は衰え、やがて滅び去ってしまう。五感に頼っているだけだと、いまは鮮やかな色が褪せてしまったとき、その愛もまた薄らいでしまう。ちらりと次のような思考が無名氏の脳裏をよぎったのである。「私がかつて愛した人はどこへ!」長い時を経て無名氏が愛する人と向かい合うとき、かつて、彼が彼女を愛し始めたときの瑞々しいいくつもの特徴はもはや失われてしまっていることであろう。この嘆きは時間とともに変化してゆかざるをえない人間にとって正当なものである。幼い戯れのなかで、無名氏と彼の愛する人がかつて誓いあったはずの永遠の愛は、脆くも時の流れによる性質の変化によって侵食され、風化しつつある。いかにも有限的で滅びゆく存在者であるべき人間の愛! 無名氏の愛が、彼女の美しい諸特徴に基づくかぎり、それはこのようにして荒び滅んでゆく運命なのである。だが、このような状況にあったとしても、諸君はこういうかもしれない。「時の経過の中で、愛する人の容姿がいくらくすんだとしても、私はなおこの人を愛し続ける。なぜなら、この人こそが私の愛する人なのだから」、と。そう。さきほど述べられた嘆きは、(道徳的にそうであるかどうかについてはいまは措くとして)形而上学的には正当なものではない。なぜなら、かつて煌めくような美しさであった人と、老いてくすんでしまった人とは、まったく同一の人間なのであって、いくら性質が変化しようと、形而上学的には、愛する人は同じ愛する人のままなのだから、愛する人の特徴が萎れてしまうとしても、そうしたことはその人を愛することをやめるための理由にはならない。人の抱く愛が、「その人がその人であるがゆえに愛する」というものであるならば、美しい見た目がいくつ損なわれようと、その人を愛せねばならないし、愛し続けなければならないのである。愛し続けなければならない。以上のような思考の過程を経て、無名氏はそのように考えたのである。無名氏も、愛する人に訪れる幾つもの変化に直面しても、なおその人を愛し続けたいと考えた。それは必ずしも、形而上学的な情熱からのみ由来するものではなく、むしろ、より大きな側面として、彼の燃え盛る愛の情熱が、その人がその人であるがゆえに愛したい、愛し続けていたいと欲していたのであった。愛を濃密なままに保ち、彼の幸福を、決して揺るぐことのない最大のものとし続けることを欲したのである。彼の愛する人は代替不可能な唯一の人間であって、その人を愛しているがゆえに、その人の持つ特徴が愛おしい。いまこの瞬間において、そして任意のどの瞬間においても、愛しい人に対して永遠の愛を抱いていたい。そのように彼は思ったのである。自らの永遠の愛を信じようとしたのである。そしてついには、そう自らが永遠の愛を、最大の幸福を保持していると信じ込んだのである。
さて、以上で無名氏の嘆きとともに確認したように、五感によって認識できる対象は、そのように時間とともに変化し、衰え、やがて滅びてしまう。見えるもの、聞こえるもの、触れるもの等々は、いずれも時間的に有限なものであり、やがて消滅してなくなってしまう。他方で、アリストテレス以来、中世の学問世界ではそう考えられていたように、感覚能力よりも上位の能力である知性によって認識可能な対象は永遠的なのである。例えば、知性によって知られる $1 + 1 = 2$ という数学の命題が(ごく普通の整数の範囲での足し算を考えるならば)永遠に、決して変わることなくいつでも正しいように、である。それゆえ、永遠の愛を保証するのは、見えて、触れるようにして、感覚によって認識する限りでの対象ではなさそうである。感覚の対象は、時の流れの中で風化してしまい、到底永遠ではあり得ないからである。そうではなく、むしろ、1 + 1 = 2 はつねに正しい、と考えるようなしかたで、時の流れの中で決して風化することのないしかたで、愛する人を認識し、そのうえで愛せねばならない。そのように無名氏は考えた。いかなる変化においても、その変化の根底にあるその人を、死してなお、身体の特徴すべてを失ってしまい、魂だけになってしまったその彼女を、無名氏は愛そうとしたのであり、その(まさに「永遠的な」と呼ぶに値する)愛を抱いていることを証明したかったのである。しかし、そう、問題はここに潜んでいる。無名氏は、これが悲劇の端緒であったのだが、次のような問いに至ってしまったのである。「いかにして私は、その愛する人をその愛する人だと認識しているのか?」
無名氏は考えた。「私があの人を、まさにあの人として愛し続けるためには、私はあの人をあの人として認識していなければならない」。この認識は容易であろうか。容易である、と、諸君にはそう思われるかもしれない。なぜなら現に私たちは、自分の愛する人を、その愛する人として認識しているはずだからである。「かつては輝くように美しかったが、いまは老いてくすんでしまった」と言うためには、そもそも「同じ人がかつては美しく、その同じ人がいまは老いてしまっている」と言うことが可能でなければならない。つまりその場合には、時間的に隔たった「美しかった人」と「老いている人」とが同じであることを承知しているのである。ああ、よかった。問題解決だ。本当にそうだろうか。そういうわけにはいかないである。同じ人である、という認識はほんの僅かなことによって崩れ去ってしまう、砂上の楼閣なのである。もし諸君の愛する人が、諸君のあずかり知らぬところで整形手術をしていたらどうだろうか。さらにその人が整形手術の過程で記憶を失ってしまっていたとしたら? 見た目も記憶も以前とは異なる場合に、それらは同じ人であるだろうか。直観的には同じ人である気がする。それではもっと条件を厳しくしてみよう。諸君の愛する人とまったく同じ見た目の人が現れたらどうだろうか? しかも、その人が、諸君の愛する人の持つ記憶すべてにおいてまったく同じ、完璧なクローンだとしたら? それらは同じ人であろうか。同じでないとすると、いったいどちらが私の愛する人なのか。諸君は、どちらが諸君の愛する人か分かるだろうか。なんと破滅的なことか!
形而上学者である無名氏は(もちろん彼の時代に「クローン」のような概念は無いだろうが、例えば全能の神の業などを考える 1) ことによって)同様の思考実験を行った。形而上学者は気がふれている。そんな想定あり得ない! 諸君はそうお怒りのことであろう。とうぜん現実に、自分の愛する人と、記憶までまったく同じであるようなクローンが存在するなど荒唐無稽である。しかし、しかしそうした事態は......そう、考えられてしまう。私たちが通常、何らかのものに対して、あるいはある人間に対して抱いている同一性はガラス細工のように非常に脆く崩れやすいものである。無名氏は「そのような完璧なクローンが目の前に現れたら、私はどれが自分の愛する人で、どれがその人ではないかという問題に、明確なしかたで答えることができないのではないか」と考え、恐れたのである。そしてこうした状況が考えられてしまう以上、無名氏はその可能性について考慮し、自身が有していると信じている「永遠の愛」を守るために戦わなければならなかった。そのような破滅的な状況が生じてもなお、自分の愛している人を、まさにその愛している人を愛し続けるために。ひとたびこのような問題にたどり着いてしまったこの憐れな形而上学者は、愛するその人以外の誰かを愛さないために、自分の愛するまさにその人のみに対する、この非常に深い(あるいは最も深い、と言ってもよかろう)愛を保護するために、そして自分の愛が最も深いものであるという、自らの慰めのために、この「第二問題」において「ある人は個別者を愛することができるか」と、彼自身の愛の根拠を問い始めたのである。
1) 訳註。実際に無名氏は完璧なクローンのような議論を想定している。「神は全能であり、何であれ矛盾を含まないことをなすことができる。ところで、ある二人の人間が、外見のみならず、記憶や性格を含めて、まったく同じであるということは矛盾しない。したがって、神はそのような二人の人間を創造し得る」という三段論法が「第二問題」において見られる。第二問題の第六段落を参照せよ。
無名氏が、彼の愛する人を愛し、そしてその人を愛し続けるためには、無名氏はその人を、他の誰でもなくまさにその人として認識していなければならないのであった。こうして、「私は自分の愛する人を、その人の完璧なクローンから区別して、まさにその人として愛することができるか」という問題は、「私は自分の愛する人を、その人の完璧なクローンから区別して、まさにその人として認識できるか」という認識の問題に置き換えられる。この二つ目の問題の解答次第で、一つ目の問題への解答が変わる。もし無名氏が、愛する人と、その人の完璧なクローンを、百発百中、完全に区別することができるなら、無名氏は自分の愛する人を、その最も深い愛において、永遠の愛において愛する資格を得るのである。反対に、完璧なクローンに対して僅かでも愛のことばを囁いてしまったならば、私は愛する人を永遠の愛によって愛する資格を失ってしまうことになる。この「第二問題」を、単に中世の形而上学の一つの局面としてのみ理解してはならない。実際、中世の形而上学的探求の典型とも言えるようなしかたで議論が進められてはいるが、無名氏はこの「第二問題」を完結させることはできなかったし、その中で取り上げられている見解も、ドゥンス・スコトゥスの見解の繰り返しである部分が少なくない。スコトゥス派の教育の内実を垣間見ることのできる一つの史料ではあるが、哲学史の中に名前を刻むことのできなかったこの小さな哲学者の小さなテクストに、どれほどの史料的な価値が存しているだろうか。そういう意味で、この無名氏の哲学史への貢献という点では、この「第二問題」の重要性はそれほど高くない。むしろ私たちは、有限な存在でしかない人間であっても、最も深い愛、永遠の愛を抱きうるはずだ、という信念から、過酷な探求を始めた一人の男の物語を背後に読み込むことで、「第二問題」の、中世に独特である無味乾燥な文章を、一つの、ある種の文学的なテクストとして読み得るのではないだろうか。そして、彼の探求を通して、私たちもまた、人間の抱き得る愛とはそもそも一体何であるのかを改めて考え直すことが可能になるのではないだろうか。与えられたテクストには、無限の読み方が可能である。これは私の提案する、「第二問題」の一つの読み方である。
それでは、ほんの僅かしか残されなかった、無名氏としか呼ぶことのできない彼の物語を追いかけてゆくことにしよう。
b) 「前書き」でも少し触れたことであるが、中世スコラの学術書の多くは「討論形式」というかたちで書かれている。そこでは、まずウィかノンかで答えられる問題が提示される(例えばここでは「ある人は個別者を愛することができるか」)。続いて、その問題に対して、執筆者と反対の見解を持つ論(「異論」と言われる。ここでは「個別者を愛することができない」という見解)が紹介され、異論と反対の立場の論(「反対異論」と言われる。ここでは「個別者を愛することができる」という見解)が引き続き紹介される。その後、筆写の見解が述べられ(「主文」と言われる。当然、反対異論の見解に近いものとなる)、最後に異論の誤りが執筆者によって訂正される。つまり、討論形式とは「異論」、「反対異論」、「主文」、「異論解答」というパーツを持った記述形式のことである。
さて、この第二問題において、異論は一つの前提を共有している。すなわち、「ある人が個別的な何らかのものを愛するならば、その人がその個別者を知解していることは必然である」という命題である。誰か個人を愛するならば、その個人をきちんと認識しているはずである、というごく当たり前な話である。そして第一段落から第二段落(第三段落は異論全体の例となっている 1))異論はどれも、小前提「個別者は認識できない」ということの証明を行っている。これら二つの前提からは、三段論法によって論理的に「個別者を愛することはできない」ということが帰結することになるのである。
1) 訳註。ベルナール氏のように、第三段落が、第一段落から第二段落全体の例となっていると解するよりも、第二段落のみの例として無名氏によって付されていると解したほうがよいのではないだろうか。確かに、異論全体の例としても妥当するが、ここでは中性複数属格の形 quorum ではなく、単数の形 cuius が使われていることから、直前の一つの議論だけを指していると考えたほうがよいだろう。実際、ベルナール氏がそこに箇所に註釈を付しているように、第三段落の例は、第二段落の見解の持ち主であるスコトゥスに由来している。とすると、無名氏の意識としては、第二段落に組み込まれるような形で、この第三段落を書いていたのではないか、と推察される。
もちろんこれは無名氏の見解とは反対のものであって、無名氏は、この箇所を執筆している段階では、虎視眈々と、以下に提示されるいくつかの見解を見事に反駁することを狙い、牙を研ぎ澄ましている最中である。いくつかの見解、いや、彼が問題を執筆し始めてからずっと問題であったのは、第二段落において導入される、ドゥンス・スコトゥスに基づく個別者の認識不可能性の問題であった。この問題は、第八段落において、スコトゥス自身の論拠によってある程度解決することができるものであった。それゆえ、無名氏は羊皮紙に「第二問題」を書き始めたときにはこの問題を軽視していた。十分に解決可能であり、彼の永遠の愛の根拠は揺るがないと確信していたのである。
このようにして、彼はまだほとんど先の見えていない階段を登り始めてしまったのである。彼自身、その頂上には静謐で晴れ渡り、天上の音楽のように色鮮やかな花園が広がっていると信じていた。そこへ向かうためには、彼はどんなに羽ペンを早く動かしても間に合わないように思われた。一歩一歩階段を上り詰めていくのでさえ、彼は震える焦燥と緊張とに満たされていたのである。その甘美な楽園へ至るためにはどんな絵筆も楽器も必要ではなく、むしろ、花園への最後の扉を開くのに、ただ研ぎ澄まされた演繹法と三段論法とだけが必要になる。そのように彼は考えているのである。そしてそうした考えは正しかったのかもしれないが、決して証明されないままになってしまった。
c) この格律! 私たちは、六世紀ころに活躍した哲学者ボエティウスの『イサゴーゲー註解』において、「感覚は単一的なものに、知性は普遍的なものに関わる」という命題の原型を見い出すことができる。つまり、この格律に従うなら、五感によってであれば、無名氏は彼の愛する人をそのものとして捉えることができるのだが、知性によっては、愛する人は普遍的なもの、つまり「人間」という、人間であるならばすべてのものに当てはまるレベルの、抽象的で網の目の粗いしかたでしか認識できない。ボエティウスのこの命題に倣い続ける限り、無名氏は決して自ら十分に満足することのできる愛にまで至ることはできないであろう。
さてこの格律は、十三世紀のトマス・アクィナスのころまで、ボエティウスの強大な権威を伴って、哲学者たちの思考を規制したのである。トマス・アクィナスの『神学大全』第一部第八十六問第一項では「私たちの知性は単一的なものものを認識するか」と問われている。そこではこの格律を保持しつつも、知性による個の認識の可能性が探求されている。つまり、「感覚は単一的なものに、知性は普遍的なものに関わる」という命題によって厳しき制限された思考の可能性の中で、通常私たちが抱いている、個を認識している、という経験的事実をいかにして救うか、ということが試みられていると言える。実際に、私たちは自分の家族や友人という個的な人間たちを認識している。その精度がどれほどのものであるかは別として、これは疑いようもない事実である。そのような事実を、しかしながら知的探求において背後に押しやってしまい、思考を一定の型へとはめ込んでしまう。それほどまでに、この格律を提示したボエティウスの権威は、中世における知的世界において強力なものであった。
しかしながら無名氏はこの格律を簡単に乗り越えることが可能であると考えていた。おそらく実際にその通りであったのだろう。真っ先に片付けられるであろう問題として、彼はこの異論を「第二問題」の冒頭に配置したのである。彼が羊皮紙に向かって、この装飾写本のもとになる原稿を執筆している姿を思い浮かべよう。その当時は寒かったであろうか、暑かったであろうか。彼の部屋は明るかっただろうか、暗かっただろうか。埃はどれくらい部屋に舞っていたのだろうか。どのような部屋であるか、想像に委ねるほかないが、その想像力であってさえも、歴史の波間に消え去っていった男とそれを取り巻く環境について、そのありさまを描き出そうとする際にはまったく役に立たない。しかし愛の情熱に燃え、倦むことなく形而上学的探求を続けてゆく彼は、いつも部屋の同じところで、愛する一人の女性を思い浮かべながら、ペンを手に取り、彼の思考を次々と目の前の羊皮紙に書き落としていったことであろう。彼はどのような角度で羽ペンを持っていたのだろうか。彼の利き手はどちらだろうか。彼の字にはどのような癖があったのだろうか。彼の容姿はおろか、名前すら知らない私たちではあるが、しかしながら朧げに、彼が机の前に座っている姿を想像することができる。うっとりとした表情で、哲学的な議論を頭のなかにめぐらしている。彼のペンは心地よく羊皮紙の上を滑り、彼の頭の中で組み立てられた論理が文字という形態をとって実際に現れる。第一段落において「感覚は単一的なものに、知性は普遍的なものに関わる」(« *sensus singularis, intellectus universalis* ») と記し終えた時には、すでにこの段落の議論に対する反論は彼の中で出来上がっていた。だが、予めそれをどこかに書き留めておくということはしなかった。明確に形成された論理は、もはや彼の頭の中で確固たるものとして組み立てられており、決して揺らぎ崩れるようなものではなくなっていたからである。そして彼は、あたかもデザートのように、それを「第二問題」の最終段階、すなわち異論解答を書き記すことになるときまでとっておこうと考えた。そのとき、彼は異論解答まで、すなわちこの問題の全体が完成した瞬間を想像して、そのあまりの快感に打ち震えた。その瞬間は、たんなる哲学的な建造物の除幕式ではない。それだけではなく、彼のより根源的な目的である永遠の愛の証明の完成を意味するのである。完成の瞬間に興奮が最高潮を迎え、やがて徐々に強度を弱めていくというものではまったくない。彼の知性の絶対の確信をもって、彼は愛する人に対して抱いている愛が永遠のものである、と主張することができるようになるのである。愛する人を愛することで慰められていた彼は、それによって、その瞬間以降、永遠に慰められることになる。彼にとっては、神に愛されることにも似た、究極の幸福であるとさえ言い得る。生きながらにして至福となるのである。それがどうして至上の幸福でないであろうか。最高の善きことではないだろうか。どうしてそれを求めないでいられるであろうか?
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