ラテン語写本一七〇四番について

「第二問題」の議論そのものは、おそらく十四世紀の初頭に書かれたものであろうということは先に見たとおりである。それが「ラテン語写本第一七〇四番」として保管されているこの装飾写本として筆写された年代もおそらくほぼ同時期であると考えてよいだろう。作者は伝えられておらず、またいまのところこの「第二問題」を伝えている別の写本は見つかっていない。〔作者は〕おそらくスコトゥスの弟子か、あるいはスコトゥスの弟子によって教育を受けたものであると想像される。いずれにせよ、「第二問題」を執筆した無名氏は有力な哲学者として名を残すことはなかった。この写本に記されている議論は、おそらく何らかの問題集の一部であったはずだが、現在では、「第二問題」が記された二葉しか残されていない。


 ラテン語写本第一七〇四番は、内容的に異なる二つのテクストが接がれた形で残されている。華麗な装飾が施されている A パートと、A パートの筆者に関する記述がなされた B パートとである。B パートは写本の状態も悪く、テクストも多くの箇所が破損してしまっている。また、中世の写本に特有の略記も少なくない。それに比べて、A パートの写本の状態は安定しており、ほとんど全ての文字を判明に読み取ることができる。略記もほとんど見られない。それゆえ、これらは明らかに異なる人間の手になるものであると結論付けることができる。B パートの内容と、このような写本の状況から判断するに、おそらく A パートを含んだ冊子本が壊れてしまい、「第二問題」だけになっているのを発見した人間が B パートを記し、A パートの写本に接いだのであろう。だが B パートにおいて、A パートの筆者の名が明らかにされることはない。B パートが記された頃にはすでに A パートの筆者の名は失われていたか、あるいはその名が広く知れ渡っていたかのいずれかであろうが、B パートの内容の充実ぶりから察するに、おそらくその後者であろう。


 ただし、B パートの伝記が A パートの筆者、つまり私たちが「無名氏」と呼ぶ人その人についてのものであるという証拠は、「B パートの内容が A パートの記述と整合的である」ということしかない。つまり、同時期の別の写本や歴史は、A パートの筆者については何も伝えていないのである。そうなると、B パートは、A パートを読んで、想像を逞しくした誰かがだけのものであるとさえ考えることができる。B パートの記述は、まったくもってデタラメだ、とさえ言い得るのである。もし仮に、B パートが作り話でしかないとすると、B パートが伝えている無名氏は実在しなかったことになる。「パリでスコトゥスの哲学を学び、学芸学部の教師を勤め、女性への愛が原因となって教師を辞し、その人への永遠の愛の根拠を探求した」という人間など存在しなかったことになるのである。その場合、私たちが B パートから伝え知っている無名氏ではなく、私たちのまったく知らない「第二の無名氏」とさえ呼ぶことのできるような架空の(B パートが誰かの創作なのだとしたら!)誰かが「第二問題」を執筆したことになる。そうだとすると、「第二の無名氏」は何のためにこの「第二問題」を執筆したのだろうか?~彼もまた、私たちのよく知る無名氏のように、ある人間を永遠的に愛したいと思い、その根拠を求めたのだろうか? そうだとすると、永遠的な愛の根拠を欲するというまさにその点において、私たちは「無名氏」と「第二の無名氏」とをまったく区別ができなくなってしまう。どうしたらよいのであろうか!~私たちはこうした問題に対してまったく回答を持っていない。私たちは B パートの筆者が、創作によって「無名氏」を巡る物語をでっちあげたのではなく、誠実に「無名氏」の歴史を伝えた、ということを信頼せねばならない。私たちは、B パートの内容が「第二問題」のテクストと十分整合的であることに鑑み、そのように、B パートの筆者を誠実な人間であると信じ、B パートは、私たちがこの「第二問題」を通じてよく知る無名氏についてのものである、と考えることにしよう 1)。


  1) しかしながら(B パートの内容が、誰かの単なる空想であるとして)、「第二問題」の執筆者としての無名氏と、B パートが伝えている人物とが、後者は単なる架空の人物であり、前者は実在した人間であるという点で、まったくの別人である場合に、そのことは何か問題を引き起こすのだろうか。時の流れの中で名前を失ってしまった人物は、彼に纏わる幾つもの事実を束ねる力を持たない。彼の名の綴り字の一文字一文字を時間が侵食し、すっかり腐らせ朽ちさせてしまったのと同様に、無名の人間は彼に関わる出来事を通時的なしかたで保持することはできない。無名氏に関して、彼の思惟、彼の行為、彼の存在は、彼の声が文字という視覚的なかたちで留められた、この「第二問題」からしか知ることができない。無名氏はもはやそのように、「無名氏とは誰か」という問いが意味をなさないほどまでに希薄な存在しか有していないのである。それはほとんど架空とさえ言ってよいほどに薄らいでしまっている。そのように希薄な、の存在者が、単なる創作の登場人物と混同されてしまうことにどのような問題が生じるのだろうか。私たちは、B パートが単なる空想の産物である場合に、「パリでスコトゥスの哲学を学び、学芸学部の教師を勤め、女性への愛が原因となって教師を辞し、その人への永遠の愛の根拠を探求した」人間である、ということを無名氏に帰することをためらい、あるいは拒絶するであろう。しかし、名前を失ってしまうほどまでに希薄にされた人間に、そうした様々な性質を帰することにためらいが生じるのは、いったいなにゆえであろうか。無名氏の希薄な存在の何が、そうした諸々の性質を拒んでいるのだろうか。無名氏が実在の人物であり、彼が B パートの記述通りの人間であると積極的に語ることと、そうした記述が虚偽であると考えることとの間にいかなる差異があるのだろうか。この問題は、二つの *histoire* の間にある〔すなわち、歴史と物語との〕差異は一体何であろうか、突き詰めて言えば、、という問いに至るかもしれない。しかしながら、この問題は、一つのきわめて哲学的な問題であり、本書の枠組みを大きく越えてしまっているため、ここで扱うことはできない。だが、B パートが空想であり、「第二問題」の執筆者である無名氏に関して、何ら真なる情報をもたらしていないと考え、かつ、それを無名氏の伝記であると考えることに対して拒否反応を示してしまうのは、おそらく、私たちがそうした拒否反応を示してしまうほどまでに、無名氏を、と考えるがゆえにではないだろうか。私たちは普通、自分や自分の友人を偽って紹介するということを好まない。私が自分のことを偽って、歴史に名を残す偉大なる哲学史家である、と語ることも、私の友人のことを偽って、世の中で最も愚かな人間である、と教えることも、おそらくないだろう。それは、私たちが自分や親しい人を一人の、人としてまさに振る舞い、と考えていることに根があるように思われる。なる人間は、まさにその人であり、その人なく、その人以外の人ではあり得ない。それゆえ、なるものとして触れあうほどの距離にあるような、あるいはなるものとして認めざるを得ないような人間に関して、その人が他のどの人でもなく、まさに人であるかのように伝えようと欲するのである。それと同じ論理で、私たちはいま無名氏と向き合っている。私たちが、彼をあらゆる彼ものから救い出し、純然たる彼を伝えたいと欲するのは、歴史の波の中でいかに彼の名が浚い取られ、そのことによって、彼を取り巻いて生じた事件の数々を束ねる力を彼自身がもはや持っていないとしても、私たちは彼の根底に、彼が十四世紀のパリを生きたということを見て、さらに彼がまさにであったことの根拠を見出したいと欲するが故にであろう。私たちに、あるいはに湧き上がってくるこのような欲求は、彼の「第二問題」と共鳴してのことかもしれない。


 さてここで写本について話を戻そう。写本とは、写字生が、お手本となる別の写本を読みながら、一文字一文字写し取ってゆくことでできあがるものであり、気の遠くなるような時間と労力(そして金銭)とがつぎ込まれることで作り上げられる。そのような作業のなかで、人間は必ずミスをするものである以上、写字の段階でも単語を読み間違えたり、書き間違えたり、ときには一行をまるまる飛ばしてしまうというようなことがあり得る。このようにして、ある筆者の書いたオリジナルのテクストには、筆写の過程で生じたミスによる誤りが伝言ゲームのようにして紛れ込んでゆく。批判的校訂の作業は、現存する複数の写本のテクストの異同を比較検討することで、こうして紛れ込んだ筆写のミスを可能な限り排除して、すでに失われてしまっているオリジナルテクストを再び手に入れようとする知的プロセスである。


 しかしながらラテン語写本第一七〇四番には、おそらくそのようなミスが紛れ込んでいない。(この写本が「第二問題」の全文を欠如なく伝えているとすれば)内容的に読み飛ばされたような箇所もなく、単語が落ちてしまっているようなところも見受けられない。テクストもそれほど長くなく、文法的にも平易であることが幸いしたのであろう。この写本は、無名氏が作成した原本を直接見て写し取ったものであるとさえ考えることができる。そうでないとしても、少なくとも原本に非常に近い状態を保っていると言えるだろう。それゆえ、「第二問題」のみに関して言うならば、このラテン語写本第一七〇四番によって、私たちは十分に真正なるテクストを獲得することができると言えるだろう。

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