前書き
前書き
「私たちは、私には短いと思われた、長い一日を過ごしました。私たちは、私たちのすべての思想が私たち双方に共通であることを、私たちの二つの魂がこれからずっと一つのものでしかないことを、固く約束しました。」
« Nous avions passé ensemble une longue journée qui m'avait paru courte. Nous nous étions bien promis que toutes nos pensées nous seraient communes à l'un et à l'autre, et que nos deux âmes désormais n'en feraient plus qu'une »
シャルル・ボードレール『パリの憂鬱』「貧者の眼」
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Ich liebe dich ; Ti amo ; I love you...
私がドイツ語やイタリア語などの外国語の初等文法を習ったとき、教師は授業の第一回でまずこういった例文を黒板に書いて、発音の練習を促した。「私はあなたを愛しています」。愛することは人間にとって根源的な行為であり、ことばで愛を語ることは極めて原始的なコミュニケーションであると言えるだろう。その点で、まだすこし緊張して縺れる舌で「私はあなたを愛しています」と発音の練習をすることによって、はじめて教わる外国語で自らの愛情をことばにする手段を学ぶことは、ある意味で合理的なことであると言えよう。最も重要で最も原初的な言語的行為を、最も初めに学ぶのであるから。私は誰かを愛することができる。当然! 事実、人間は歴史上、相互に愛し愛され続けてきた。実際に愛し合うだけでは飽き足らず、フィクションの世界でも、人間は愛し愛されを繰り返しているのである。それをことばによって表すかどうかは別として、人間は誰かを愛さないでいられない。
「ある人は誰かを愛することができるか」。それでは、この問いは愚かな問いであろうか。実際に極めて愚かにみえる。現に私たちは誰かを愛しているからである。愛することができないならば、現に私たちが誰かを愛しているという状況は生まれない。したがって、私たちは誰かを愛することができるのは当然である。だが、私たちは「ある人は誰かを愛することができるか」という問いを巡って、十四世紀初頭、ヨーロッパの学問世界を生きた、ある人間に出会うことになる。その或る人間は、この問いを切実なものとして捉え、研究し、そして自分の愛を確かめようとしたのである。なぜこのような愚かな問題が研究の対象になるのだろうか? その人間はなぜこのような問いに至ったのだろうか? そのように問う目的は何であったのだろうか? 本書は、この単純にして難解な問いに挑んだその人物による思索を辿り、人を愛するということがどういうことなのか、そしてその可能性を、形而上学的な観点から考察した、その一人の人間の思考に寄り添い、私たちもまたその人物と並んで、「人を愛すること」の根拠を探求することを目的とする。
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