第十七話 確かなものなど何処にもない

 話し声が、聞こえる。

 薄く目を開けると、真っ白い光を放つ丸いものが目に入ってきた。眩しくて目をそらすと、同じ色をした布、おそらくはカーテンが見える。何となく動きたくなくて、でも動かさずにいたらこのまま固まってしまいそうで、腕を何もない上に伸ばして、手を開いて、閉じた。

「……今のところ安定してる。だいじょーぶだ」

「そ、うか」

「あとは俺様がちょいちょいーっと元気にしちゃうから、ラルは帰っていいよ」

「……信用できねえな」

「おやラル、珍しくあなたと同意見です」

 だいじょーぶだいじょーぶ! 姫サマには手ぇださないってぇー。と、知らない男の人の声。だれだろう。記憶の引き出しを開けたり閉めたり、ひっくり返してみたけど見つからない。今の状況はなんとなく理解できた。……頭の裏の《声》は、鳴り止まないまま。と、不意にカーテンが捲られて、世界が広がったように感じた。

「お目覚め? お姫サマ」

「……う、うん」

 お姫サマって。と頭の中で突っ込みながら上体を起こそうとするボクに、無理はしないよう言う。口元にほほえみを浮かべている部屋とおんなじ色の服、白衣を着た赤髪の青年……という歳でもなさそうだが……と正反対の、ちょっと心配そうな表情を浮かべるラルさんを見つけた。

「大丈夫か?」

「うん、平気」

「だってさ、ラル。俺様ちょっと姫さんとお話があるから、出ていってくんない?」

「ラル、大丈夫ですよ。私も残りますから」

 俺様信用されてねえのーという声に、オルフは「はい」と即答した。なんだか慣れているような会話に笑いが漏れた。……あ、ボク、まだ笑えたんだ。そんな自分の状況を再確認している間に、ラルさんはじゃあ、外で待っていると言いおいて出ていった。部屋にはボクとオルフと、白衣さん。

「……うーん、先代に似て美人さんだねぇ」

「先代?」

「そ、ドリラちゃんのお母様」

 そんな単語が飛び出すとは思えなくて、ばっと上体を起こし彼の緑色の目をのぞき込んだ。

「ボクの母さんのこと、知ってるの!?」

「おっと、そんなにびっくりした? とは言っても、小さかったからあんまりしゃべったことないんだけどねぇ。そういえば自己紹介がまだだったね。俺様はエルスって半竜族。よろしく」

「ボクは……じゃない、私は、ドリラ」

 ボクでいいよ。と柔和に微笑んで、右手を差し出した。大きくてタコのない、でも何故か爛れたその手を握る。と、ボクのものでない情報が流れ込んできて一瞬気が遠くなる。女の人が見える。黒髪で銀色の、ボクとおんなじ色の女の人。おっと、とくぐもった声と同時に、手が離され、視界がもとに戻った。

「ごめんごめん、うっかりしてた」

「……かあ、さん? さっきの人」

「ああ、見えちゃった? 黒髪で銀色の目の女の人だったら、多分そう。先代だ」

 優しそうな人だった。いや、ぼんやりとしか見えなかったけれど。でもそこに込められたエルスの気が、とても暖かで幸せそうだったから。……ボクの知っている、母さんじゃないみたいだった。いや、母さんは優しかったけれど。笑って、ボクをその細くつめたい手で撫でて、たくさんの絵本を一緒に読んで、手を握ってボクの目を見て、いろんなことを教えて。でもいつもどこか、寂しそうだったから。

「……」

 さっきエルスに触れた手を、見た。

「先代のこと、ドリラちゃんはあんまり覚えてないかんじ?」

「昔のことだから。今は絵みたいに、断片的にしか覚えてない」

「……昔話をしてやりたいけれど、今はその時じゃないねぇ。またおいおい、話すよ」

 さてと。と彼は寂しさの混じる笑顔から、真剣な表情になった。オルフと視線を交わして、こくり、とうなづく。

「あなたの持っていた医学書ですが、あれは一応棚に戻しておきました。ラルには知られたくないのでしょう?」

「うん、ありがとうオルフ」

「ドリラちゃんの持っていたあの本、あのページ、あの状況から見て、ドリラちゃんはもしかして味覚を感じなくなってきていんのかな?」

「……うん」

 頷くと、エルスは椅子にぎいっともたれかかった。そのまま髪の毛をくるくると指に巻きつけて戻した。緑色の髪の束が、左右両方についていて面白い。まるで虫の触角みたいだ。

「君が思っているとおり、それは《気》を受け入れすぎたり放出したりすることで起きる副作用みたいなもんだ。この状態で居続けるとそのうち食欲だけでなく、様々な欲が消えていくことになる。……自我を持って生活している生き物は、欲をもってして生きていると言っても過言じゃないと、俺様は考えてる。その欲がきえちゃうんだからつまり……言わなくてもわかるよね」

「……死んじゃう、ってこと? ソリスも言ってた。体が持ちさえすれば、この力はいずれ世界樹と同じ意味を持つようになるって。そういうことなの?」

「そうだねぇ……その解釈で間違いないと思う。だからといって食べないと体持たないから、栄養剤みたいなのだしておくよ」

「ありがとう、エルス」

「ドリラちゃんのそのかわいー笑顔見れるなら、これくらいどーってことないよー!」

 エルス、真剣に。ため息混じりにオルフが言うがさして気にする様子もなく彼は話し続ける。

「で、ドリラちゃんはどうして、ラルにはこのことを言いたくないのかな?」

「えっと……それは……」

 突然すぎる質問に、ボクは言いよどむ。……そういえば、どうしてなんだろう。どうしてボクはあの時、一緒に行こう、と言わなかったのかな。いつもなら良かったのに。でも、……でも? でも、なんだろう。考えれば考えるほど、答えが見つからなくなる。答えとなるものは見えてるのに、それはまるで虚空に浮いた一筋の糸くずのように、ふわふわり、とボクを翻弄して、嘲笑って、舞う。手を伸ばすほど、その衝撃、風でボクの手をすり抜けていく。

 ……心配かけたくないから? ううん、今更心配も何もないだろう。多分彼は分かってる。ボクが無理して笑ってること。でも彼は何も言わない。分かっているからこその行動なのだろう、なんて一種の自惚れをしてみるけれど。……それでもボクは、それを隠した。それは、なぜ?

「……わかりません」

 しばらく考えた後、そう答えた。ふふ、と目の前のエルスが意地の悪い微笑みを浮かべる。まーまだわかんないほうが面白いかぁーなんて勝手なことを言われてしまった。意味が分からなくてオルフの顔を見上げても、身長が高すぎて表情までは読み取れなかった。エルスに名を呼ばれてふっと彼の目を見ると、じいっと見つめられた。なに? と訊く寸前に、その口が開かれた。

「気のめぐりも、今は安定してんね。ドリラちゃんが起きる前にもう栄養剤は打っておいたから、もう帰っていい。後でオルフに栄養剤とかいろいろ届けさすから。あと、この前みたいに浄化に出かけるときは、念のためオルフ連れていって」

「……私には私の仕事があるのですが」

「まーかせなさい! 俺様を誰だとおもってんのぉー」

「仕方ありませんね……」

「ありがとう、二人とも」

 笑ってそう言うと、彼らは仕舞ってあった靴を取り出してベットの脇に置く。布団を剥いでそれを履き立ち上がってドアを開いて、もう一度礼を言う。ラルさんと一言ふたこと会話を交した。

「あぁ、そうそうドリラちゃん」

「なに?」

「ドレスの下にズボン穿くの、やめ……わっ!」

 最後まで言わさずラルさんが衝撃波をエルスに飛ばし、彼は椅子から派手に転倒した。え、ちょっと……!? とどちらに声をかけるべきか悩んでいると、オルフがエルスに見えないように『早く行け』というジェスチャーを送ってきた。こく、と頷いてボクはもう部屋に向かいつつある彼を追いかけることにした。


 *


 椅子から落ちた体をよっこらしょ、という呟きと共に持ち上げると、彼はオルフに聞こえるか聞こえないか位の声で、低く言った。

「……やばいなあ、あの子。本当に巫女なんだねぇ」

「ええ」

 俺たちが無意識によけるような気の数十倍はありそうな負の気を、あんなほっそい体で受け止めて。

 エルスが緑の目を昔を思い出すように眇める。その脳裏に浮かぶのは、数十年前の記憶。いつもニコニコ笑って、くるくると動き回るドリラの亡き母の姿。

「本当に、先代によく似てるこった……」

「ドリラの、母親ですか?」

「ああ。闇色の髪に、透き通るような銀色の目、溶けるように白い肌。そこだけ色を失ったかのような、でも冷たさは感じない、そんな不思議な雰囲気の方だった」

「……まさかとは思いますが……」

 衝撃によって落ちた書類をもとあった場所に片付けながら、オルフはおそるおそる訊く。エルスは笑った。

「んなわけあるか。彼女を見失ったのは、それこそドリラちゃんと同い年位だ。女の子よりも別のことが好きだった。それにあの方は、恋をするには遠すぎる」

「……」

「生きていてくれるだけで、俺は嬉しいんだ。あの方の血がちゃんと繋がってくれているだけで。……本当は、あの術にも反対なんだよね。だって辛すぎるじゃん? あのガキ共……ラルも、ノースも」

「そう、ですねぇ」

 ……それに、あいつも。唇だけで言ったその言葉は誰にも聞かれずに消えていった。


 *


「なんともなかったのか?」

「うん、平気! 体の仕組みがちょっと変わったのに今までどおりにしてたから、対応しきれなくなっちゃったんだって。それに対応するためのお薬を、あとでオルフが運んでくれるらしいよ」

 こんなの出任せだ。でもなんの躊躇いもなくそれらは口から零れた。窓の外ではノースが神術の練習をしている。こちらに気づいて火のそれで猫を作って見せた。……上手上手。パチパチと手を叩くふりをして、それから彼に手をふった。ああ、そう。というラルさんの声がいつもよりも少し低く、嘘だってバレたかなと少しひやりとする。が、彼はそのことについてはもう何も言わなかった。

「ソリスから伝言。倒れたあとで悪いけれど、任務の支度しろって」

「わかった。……あの、オルフも連れていきたいんだけど」

「了解」

 いつもならリュミエルが出てきて「えぇー!? オルフー!?」だのなんだの言うところなのに今日は出てこなかったな、と軽い違和感を感じながら、部屋へ急いで戻った。大急ぎで着替えている間、ラルさんはタクトにオルフを呼ぶように頼んだらしい。着替えて剣を下げ、持ち物をチェックして帽子を被ると、もう部屋の外では前回のメンバーとオルフが待機していた。


 *


 ……そんな日が、続いた。

 目が覚めても、眠っていても感じるようになった呪いの言葉を体にうけ、怖くないよ、大丈夫とその存在を認めて。誰かとすれ違えばそのヒトの考えていることを感じてちょっとへこんだり、ちょっと嬉しくなったり。……でもやっぱり凹むことが多いけど……そうしているうちに、外出して帰って三日してまた外出し、そして三日休んでまた外出し、の頻度が少しずつ少しずつ広くなっていった。ソリス曰く、世界の気の状況が少し安定しているらしい。これもボクのおかげかな。なんてうぬぼれてみるけれど、とにかくよかった。本当に。……で、当然そうなると自分の部屋にいることが多くなるわけで。つまりはラルさんと居る時間がとっても長くなるということ。

「……なんであんたがここにいるんだ」

「ごめんねタクト。ちょっとでいいの。ちょっとで。ちょっとしたらまた出ていくから」

 ……でも、ボクはいま、タクトとソリスの部屋にいる。

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