第六話 追憶
暖炉の前でタオルをかぶった子供は、まさに獣のような目でこちらを睨み付けていた。
町の学校から、雨の中を駆けて帰り居間に入ると、そこにはタオルを頭からかぶった子供がいた。白いタオルに包まれた華奢な体は、人形のようにまったく動かない。黒い髪、目に白い肌。タオルを持つ細い手。それに不釣合いな古びた剣。ふわりかおる鉄の強いにおい。……それが血のそれだと気づいたのは今から四年前のこと。自らもその臭いをさせるようになってからのことである。持っている剣は汚れて、赤黒いしみがついている。部屋に干されているぼろぼろの雑巾かと思った布は、よく見たら服の形をしていた。それは暖炉の前で小さく座ってただじっとこちらをにらみつけている。
「……お母さん、誰これ」
「町の外で倒れていたのよ」
結局誰かわからない。少年なのか少女なのかわからないその体は小さく震えていて……無理もない。とても寒い日だったから。年に一度の嵐の日だ。そのまま放置していれば死んでいたかもしれない。じろりとこちらをにらみつける目は漆黒。そこに感情があるかないか、それさえわからない。
「ラルの服、小さくなったのどこにある?」
「それならクローゼットの中に……」
あるよ。と言い切る前に部屋を出て行った。多分自分の服を貸してやるつもりなのだろう。
「……」
二人っきりになる空間。近づくと剣に手を伸ばしたからやめた。中性的な顔立ちをしていて、そこそこ整っているのに、ずっと怖い顔をしてる。幼いけれど表情のせいで年齢もわからない。……変な子。孤児だろうけれど、ただのそれじゃあなさそうだ。椅子に座って足をぶらぶらさせながら、問う。
「何処から来たの?」
「……」
「僕はラル」
「……」
「名乗ったんだから、名乗り返してくれたっていいだろ?」
ふっと聞こえていないかのように暖炉の炎を睨み付ける。と、服を持った母親が入ってきて、ちょっと大きいかしら、なんて呟いている。斬られるんじゃないかと心配したけど、その子はおとなしくしていて。自分から背を向けてタオルを取ると、まだ血のにじむ、魔物に噛み付かれたかのような生々しい傷、ほかにも無数の傷跡が背中に刻まれていて、思わず息を呑んで目をそらした。……やっぱり、普通じゃない。
「スープ温めるわね。ラル、貴方は母さんと二人でたべましょう」
「……うん」
普通じゃない。これが俺がアイツに持った一番初めの印象だ。
*
初めてだったのだ。あんなふうに他人に接せられるのが。だからボクは怖くて。何をされるのかとただ怖くて。モンドも黙っていろなんていうから。でもそれまで嵐の中外で長い間何も食べずに歩き続けていたからお腹も本当はぺこぺこで。差し出された、初めて見る具沢山の、熱々のスープをはじめはちびちびと。そしてがつがつと食べた。
「お腹、やっぱりすいていたのね」
あの味は忘れられないとおもう。野菜にやわらかく煮込まれた肉。いつも干し肉を食べていたボクにとってのそれは、夢にも見なかったご馳走だった。やわらかく微笑んでそういうおばさんに、緊張を解きそうになってはっとした。……まだなのだ。このヒトが安全であるなんて確証は、まだないんだから。
『エスコニ……食べたのか』
(……ごめんなさい。死ぬよりマシかなって)
『こういうとき、なんと言うのだ?』
(怒ってない?)
『怒ってない』
モンドはすぐに怒る。それはもちろんすべてボクが悪いことをしたから。戦いで隙を作ったり、集中力が途切れそうになったとき。理不尽なことで怒られた記憶はないし、きっとこれからもないと思っている。……今回は、怒られなかった。ボクのことをボク以上にわかっている存在だ。すごくお腹がすいていたことに、気づいていたのだろう。お腹が減りすぎて行き倒れていたのだ。ボクは。
「……ありがとう。すぐに、出て行く」
「ゆっくりしていっていいのよ」
突然話しだしたことに、彼女の後ろに居た少年は驚いていたけれど、ボクはそこまで気が回らなくて。外を見ると嵐はまだ続いていて。正直背中に負った傷も回復してなくて動かしたら痛い。ほかにも、ほかにもたくさん。
(ゆっくり出来るなら、したいよ)
『……しても、いいんじゃないか?』
(え?)
『このあたりに追手の気配は感じない。ここでしばらく生きてみるのも、いいんじゃないか?』
もちろん、お前がそう望むなら、だが。彼はそう付け足して黙った。……どういうことなんだろう。ボクの意見を尊重するっていうことなんだろうか。ならボクは何がしたいんだろう。どうしたいんだろう。ずきん、と背中の傷が痛む。思い出したかのように腕の筋肉が悲鳴を上げる。思わず足を揉んで耐える。ああ、そっか。ボクはもう限界だったのかもしれない。モンドはそれに気づいていて、そんなことを口にしたのか。なら、ボクは。
「ボクは、」
ボクは無知すぎるんだ。なにも、本当に何も知らない。なぜボクが追われているのか。それさえも知らない。……もう無垢ではいられない。いちゃいけないんだ。だから……この世界を見たい。今まで逃げながら巡ったこの世界を。でも世界を知るにはやっぱり無知すぎる。だから、まずはこの小さな世界を知りたい。小さな世界から、大きな世界を知りたい。そう、《世界》を。
「《ドリラ》」
ふと頭に浮かんだ言葉。昔母さんに教わった、なんとかっていう言葉で《世界》をあらわすそれだったような。ほぼ無意識に呟いたそれが思いのほか気に入った。世界。満足してふっと目を閉じると、あっという間に眠りについてしまった。それから目を覚ますと、何年かぶりの暖かなベッドの上だった。
*
自分が能力者、サユフィであることに気づいたのは、ドリラに会ってから二年ほど後。季節は冬。とても乾燥した日。十二歳のときのこと。口数の少ないドリラと兄弟のように扱われ、いつもペアで仕事をしていたが、そのときは何故か違う先輩達四人で任務を受けたのだった。……任務。それは森で魔物の討伐をすること。基本何でも屋であるギルドでの主な仕事なんてそんなものだ。それまではふつうだったのだ。いつものこと、だったのだ。
「へまするなよ、ラル!」
「大丈夫です!」
そのときは柄に無く敬語を使っていたように思う。愛用の軽い剣を武器にひたすら魔物を斬る。斬る。斬る。内臓が飛び散って返り血で胸当てが汚れることにももう慣れていた。剣を返して違う魔物を斬る。その繰り返し。いきなり喉を狙ってくるそれにはなんどかぞくりとしたが、そんなのに負けていたらこんなことをしてられないから。
「ったああ!」
気合を入れて群れの最後の一匹を斬る。血を払って鞘に戻すと、ひとまずため息をついた。あとは帰りに魔物を見つけず見つけられず戻るだけだ。そのはずだった。帰ったら暖かいシチューが待っているはずだったんだ。
「……何の臭いだ?」
つんと鼻に刺さる臭い。煙の臭い。茂みの向こうでぱちぱちと音が聞こえる。……山火事だ。危ないと声をかける前に火は瞬く間に広がって動きを封じられる。逃げようと駆け出した背中で、先輩の一人がこける音、それを助け起こそうとして消える足音を聞いた。声は覚えていない。走っても走っても煙たくて、そのとき、突然の頭痛と緩やかになる世界に、足を止めたのだ。
(死ぬのかな、おれ)
なんとなくそう思った。でもちがった。そうじゃない。それにしては長すぎるのだ。世界はスローモーションで動いて、煙の動きもわかりやすくうごいて。ごうごうという音も、どこか現実味をうしなって。……ふとその奥で、なにか欲しいものを誰かに、聞こえない声に訊かれた気がして、小さく声にだして答えた。
「水」
足元に広がる白い模様を、ぼんやりと見ていた。それは何層にも重なって、やがて天に届くんじゃないかと思った。中央に特別青白く輝く円から溢れるように水が降り注ぐ。でもそれは俺にとっては幻にすぎなくて、俺のまわりの火をひたすらゆっくりと消していく。まるで教会がよく言う愚かな龍が空から降ってきて、森を飲み込む……みたいな光景だった。現実味の無い、そんな光景だったのだ。
「……あ」
どれだけ経っていたのかはわからない。大雨の後みたいに湿気に満ちたくうかんでぽつり、俺は立ち尽くしていた。一瞬、だったのだろう。まだ誰も来ていない。火事が起きたことも、さっきの龍みたいなことも、夢といえば信じてしまいそうになるけど……。そこに流れ着いた一本の枝が、真っ黒な炭になっていて。
《異端者》。《化け物》。
……その時、ここに俺の居場所は無くなったのだ。
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