38. 障害者と障がい者
作者は、何かを書くときに。
まずはそのテーマに対しての「善悪」や「明暗」、「メリット・デメリット」についてを考える。それとともに、「世間一般」の考えも調べることが多い。毎回かと言われると、そうとも限らないけれど。
試しに今回は、そこから書いていってみよう。
まず、「障害」のほうが、国や法で使われるもので。
この「害」という字に「悪意を感じる」と異論を唱える人が多いことから、自治体やらでは「障がい」との表記をする所もある。ともに、当事者や関わりのあるひと、関心を持つひとなども、ひらがな表記を使う人が多い。
それらは、いつかなにかで調べたことと経験談が半々くらいの、知っていること。
次は、今調べたこと。
こんな意見があった。
――障害の「害」は決して、本人への意味ではない。
その人の目の前にそびえ立つ「壁」を、害という漢字にしたのだ、と。
本当に向き合うなら、当事者の目の前の「障壁」なのだ、と。
少し、そこに作者は共感を覚えた。
同時に、過去に発信したとある言葉を、思い出す。
【「障害者」の「害」の字をあまりにも悪く捉えてしまうこと
それを、何も知らずに「障害者」と書くのを「差別だ」と
単に知識のないひと、そんなつもりはない人も「差別だ」ということ
「毒きのこに間違えられやすいけど食べられるきのこ」
みたいだな、と】
――つまり、本当は何の変哲もないただのきのこなんだ、と。
だから、「毒かもしれない」と思うなら食べなければいいのと同じで。
「害」を使いたくなければ、使わなければよい。
「食べられるんだから、大丈夫だろう」と、毒きのこに似ているきのこを、普通に食べるのと同じく。
その字を使っても、なにかが悪くなるのでもないとして、普通に「障害」と書くのも、責められることではない。
きっとこれは、「気持ちの持ち方」だから。
それぞれの心の自由であって。
そこに、絶対的な「正解」は、存在しないのではないだろうか。
――きっと答えは、それを考える人それぞれの、心の内にあるのだ。
さて。
このように作者は。考えることと、調べることを繰り返して、最終的には、自身のなかでの答えを持つ。
心がけることと言えば。
どちらの意見でも、「完全なる否定」は出来ない。してはいけない。
だってこれは、ただの、いち個人の意見であり、それが私や読むひとの世界の全てなどではないのだから。
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