37. 子どもで居たかったきょうだいは
――ひとえに、「きょうだい児」といっても。
そういう「立場」より前にまず先に人は「個人の感情」を持つ。
だからきっと。
「自分がしっかりしなくては」
「障害者でも、家族だからやっばり大切だ」
という感情も。
「こんな家、早く出たい」
「どうして、自分が家族の世話をしなくてはいけないんだ」
という感情も。
どちらの感情がより強いのかで、家族への対応は違ってくるだろう。
それを、「見守る側」としては。
どちらだって、そう簡単に否定も肯定もして良いものなのか。
――ふと、思う。
作者が子どもの頃。よく、兄が両親から言われていた言葉。
「ほんと、変な子」
文字通りなら、罵りだ。しかし「言葉」というものは、文字通りでない感情が乗ることも多い。
現に、それを言う時の両親の声音はどこか暖かく、柔らかかった。
――ああ、駄目なんだ。「ただの子ども」じゃ、見てはもらえない。愛されない。
そう思い、自分は子どもで居ることを出来る限り放棄した。「大人のフリ」をしたのだ。
そうすれば、自分にも愛を向けてくれるんじゃないか。
そう考えて、大人びた姿勢でいたら。
作者の家庭の場合は、確かに「ありがとう」、「お願いね」と、頼られることは増えた。
実際問題、親よりきょうだいのほうがなぜか、扱いが上手い場合も、思いのほか多かった。
そうすると、褒められる。だからもっと、大人になれば。
けれど、そんなことをしていたら。
いつの間にか、大人になりかけくらいの、そんな年齢になる頃に。
「どうして、あの頃にもっと甘えられなかったんだろう」
そうして、ひどく重く、浮かび上がる感情は。
――苦しい、悲しい。
――寂しい。
そんな、負の感情に押し潰されてしまう。
作者が思うに。
きょうだい児、ヤングケアラー等と呼ばれる人達のなかに、そういう負の感情を持つ人は少なくない。なぜか。
「大人のフリ」をし過ぎて、「子ども」としての感情を吐き出せる機会がそう無かったから。
その吐き出せなかった感情を、心に抱えたままで大人になったから。
そういった理由も、大いにあると思う。
もちろん、全てがそうとは言わないが。
現在。少しずつとはいえ「ヤングケアラー」という言葉を、ふと目に映す機会は増えた。
これを見てほんの少しでも共感した、誰かへ。
負の感情ばかりを持つ自分が嫌いな、誰かへ。
早くに大人のようになって、子どもの心を何処かに置き去りにしてしまった誰かへ。
――ああ、自分は。
もっとあの時、ひとに甘えられたら良かった。
あと少しでもいいから、子どもで居たかったんだ。
行き場も名前も浮かばない感情への、こんな着地点は、いかがだろうか。
はてさて。この感情は、貴方に当てはまるのだろうか――?
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