36. 「じゃない方」の人の気持ち
「辛いのは、あなただけじゃないよ」
それには、様々なパターンがある。
今回は、あえて「本人ではないひと」の気持ちを考えてみる。
例として。
「いじめ」
本人が辛いのはもちろんだし、それを傍観している者が良いか悪いかなら、後者だろう。
しかし。
もし庇うと、次に標的にされるのは自分だ。
そう考えると。恐怖にしり込みしてしまう。
「助けたいのに、助けられない」
……だからといって、それが「仕方なかったんだ」などという逃げ道には、到底なりえないが。
「病気、障害」
世界には、沢山の病、障がいがある。有名なものから、ほとんどの人は聞いたことの無い難病も存在する。
そういう時に、ひとは自分の無力さを思い知る。
治ることのない病に、苦しむ子どもに、親はたくさんの想いを抱える。
「できることなら、自分が代わってやれたらいいのに」
「どうして、うちの子が」
そして、親が考える一方で、その子どものきょうだいはとあることを想いながら、生きている。
「どうして、自分は見てもらえないのだろう」
当たり前なことだが、親が病気の子どもの方に構うほど、健常児を見る時間は減ってしまう。
もちろん、全ての家庭が、そうとは限らないが。
そして。兄弟姉妹として、彼らは時に、大人顔負けの行動をとるから、親はこう思う者も多い。
「ああ、この子は何も教えなくても大丈夫なんだ」
関わりは減る。そうすると、子どもは思うことばかりは増える。
「さみしいよ」
「私だって甘えたい」
しかしきょうだいは、その子どもらしいはずの、当たり前の気持ちを。
「ワガママ言っちゃダメだ」
どうしても伝えられずに、大人になる者も多い。
それは。その経験をしてない者、気づかない者からすれば、形すら分からないような、でも確かな「傷」になる。
そして。その傷を分かっていながら、上手い行動をできずに、何重の意味で苦しみを抱える親もいる。
子ども達が大人になったとき、その傷を知り、己の不甲斐なさに悔やむ親は、どちらかといえば「良」と言えるかもしれない。
親の中には、きょうだいの傷なんて、親である自分の苦労や、病気の子どもからすればなんでもない、と。
そうして、眼を背ける親もいる。
一重に「親」と言っても、それぞれ様々な思想があるように。
一般の家庭の子ども。病気の子どもや、そのきょうだいの育ち方、考え方も様々なのだ。
だからこそ、兄弟姉妹の一人一人への接し方は、よくよく考えなければいけないのだ。
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