26. 想像と偏見

 作者が子どもの頃、兄たちの障がいについてを、それほど、ものすごく極秘にはしていなかった。その相手によって、話の深さを、本人なりには考えていたと思う。

 兄がいる、までの相手。

 その年齢までを言う相手。

 ちょっと変わった兄がいる、と伝える相手。

 訳ありの兄がいる、と伝える相手。


 小中学生くらいまでだと、「障がい持ちの兄がいる」と改めて伝える相手までは、なかなかいない。

 そもそも、障害とはなにか、を知らない相手も多い。また、下手に知って、その人によって偏見もある。


 ただ作者は、「障がいがある」のをさほど「悪」とも「恥」とも考えていない。かといって「特別な子」というほどに持ち上げてもいなかった。

 子どもながらに、いや。子どもだからか。



 その「障がい」について。

 作者はそれがすぐそばにあったから、スラスラと思い浮かべられる。

 でも、その周りは?

 「知らない」ひとなら。どんなに大人でも、間違った見方を持つ人もいる。それを偏見とも呼ぶだろう。

 例えば。

 言葉を話せない人はみんな、まず手話を覚えるもんだ、とか。

 手が使えない人はみんな、自力では何一つ出来ない、とか。

 我が家の、言葉が出ない兄は、途中で手話を覚えるのをやめた。それでも得意ではないが、人とのコミュニケーションは好きな方だ。

 みんなではないが、手の代わりに足を使って食事をしたり、中には家事をこなす人もいる。

 


 そういう、想像の考えが「偏見」なのだと思わせるには、どうすれば良いのか。

 たぶん、一番分かりやすく伝えることが出来るのは「メディアの力」だと思う。

 ただなぜか。

「喜怒哀楽」の中で言えば、「喜」と「楽」しか映さない、だとか。「一部分」や、頑張っても「側面」までが多い。あとは「ご想像にお任せします」だ。

 それが、どれもが悪いとは言わないが。限界があろうことも事実。


 誰かと一緒のご飯をあまり好まず、基本は一人が好き。でも、ご飯の後、話したいことがある時は、沢山話したい、という人もいるし。

 ひとが大好きで、自分の話を聞いてほしい。でも、相手の話には、あまり興味がなく、しつこくされるのは嫌いだ、という人もいる。

 「自分勝手」だと言われればそれまでだけど、本当にいるから、こればっかりは仕方ない。

 時によって楽しくもなれば、疲労もする。



 要は、どんな人間でもしっかりとした「性格」があり、そこに障がいやら病気やらの特性がくっついてきて。

そういうのも全部含めて「その人」が出来上がるものだ。

 さて。

 貴方の「想像」には、いくつの「本当」があって、いくつの「偏見」があるだろうか。

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