22. 言葉と戦争、時代
大切なひとに、「大好きだ」と、真正面に向いて言える私たちの時代は、きっと恵まれている。
今から考えると、令和の人たちからすれば、「政略結婚」とか「お見合い結婚」とかを「古い」と思われても、何も言えないくらいには、だんだんと、自由な恋愛を許されてきてはいる。
「お慕い申し上げております」と、「好きです」
どうやったら、ここまでどストレートな言葉まで、進化したのだろう。これも、先人たちの努力の賜物か。
しかし、その一方で。
周りに理解されにくい愛もある。
「同性愛者」とか。
なかには、特定のひとへの「愛」を覚えず一生を終えるひともいるとか。
これまでの、先人たちの努力の成果を、きっと私たちも引き継いでいくことは、とても「大切」なのだと思う。
もしかしたらいつか、今の代が「先人たち」になってるときに、
「むかしのひとは、頑張ったな」なんて。
思われるのも、悪くはないと思う。
だからこそ。
私たちが、その「自由」を謳歌しなくてはいけない。
たくさんのひとが、
「それはおかしい」と言う。
誰かが
「それはどうかな」と言う。
きっと最初は、周りに相手にもされない。
それでも、その誰かは言い続ける。
「それでもいいじゃないのか」と。なんども、何度も。
言葉には、想いや魂が宿るという。
それは時には、長い時を有するかもしれない。
それでも、「誰か」は言い続ける。
そうすると、別の誰かが
「そうかもしれない」
と、首を傾げる。
首を傾げるひとが、一人、また一人と現れる。それはいつしかやがて、誰かが誰かを説得させられるほどの、根拠ができあがる日がくる。
もしかしたら、そういうのも、「改革」というのかもしれない。
兵器という、物理的な力ではなく。
言葉という、ひとの内心に呼びかける、改革。
この先の、人間の未来が。そういう和平的なものだと良い。
それも、脱線した話の先の、「自由な愛」や、「戦争の無い世界」とか。
それらに繋がるものがあると良い。
武力で何か制すると、次の武力に制される。
大昔の、戦国時代くらいなら、それが「当たり前」であって、誰もが抗うことができない。
そんな時代だったのかもしれない。
しかし。今は「令和」という時。
日本が戦争をすることは、今のところはまずない。きっと、戦争の体験者たちがまず、許さないだろう。
ここでまた、日本が戦争に加わろうものなら。
原爆ドームを、出来うる限りそのままで遺した職人たちの努力も。
沖縄のひめゆりの塔で、当時についてを、
「こんなこと、もう二度とあってはならない」
そう、毎日のように観光客に話しているご婦人方の気持ちも。
何処へ逝ってしまうのだろうか。
「お国のため」
そう言って、大切な人を残しながら。
呆気なく散ったのだろう命が、どれほどあるか。
まるで、一種の呪いの言葉だ。その言葉で、残される側は何も言えなくなる。きっと、どちらだって苦しかったと思う。
「戦争をした方がいい」
それはきっと、やったことがないから、そう言えるんだ。
「ゲームのように、敵を蹴散らしてやりたい」
どうか、仮想世界の中だけに留まっていてほしい。
だんだんと、戦争の体験者のひとたちが老いていく。時の流れというのは、なかなかに速い。
流れとともに。その彼らの意思を、後のひとたちで守らなくてはならない。
実際に経験してはいないから、迫力あるものにはならないのかもしれないけれど。
そうして、「誰か」の言葉を、別の誰かが受け継いでいく。
その、どれくらいかの先に。
「大昔はね、こんな悲しいことを、日本でも
沢山のひとがやらされていたの。きっと、あなたは経験することはないけどね」
そんなことを、優しくも切ない声で、柔らかく語るひとたちがどこかに。
――そんな、平和な日本であり、世界であることを願って。
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