12. 「自分の」ものさしは自分で測るもの

 作者は、ものごとを書くにあたり、まず自分の考えと世間の見方を照らし合わせる。

 これは、その際に感じたことである。



 この世の中にありふれた問題の「常識」は、ほとんどが当事者からは「非常識」となることが多い気がする。

 どれほどのひとが、頑張りすぎて疲れきったひとに「もう少しだ、頑張れ! 何があっても諦めるな!」

と言って、その先を急かすか。

 どれほどのひとが

「すごい頑張っちゃったね、もういいよ。たまには休んで? 貴方は十分頑張ったよ」

 そう言って、その頑張りを認めて労うのか。

 

 この場合、「頑張ったひと」に対しての正確な正解はない。本人のその時の感情、状態も関係すれば。声をかける方の言葉使い、声のトーンやらにも大きく左右されるものだからだ。


 「常識」とは、いうなればそのひとの「ものさし」だ。

 世間のものさしと、自分のものさし。

 世間の常識は、いつも当人達を置き去りにしたり、「こうであるはずだ」と高く見る。



 ここでひとつ、疑問が浮かんだ。

 「常識」という名のものさしは、「誰の」ものなのかと。

 ひとは、最初に与えられる「マニュアルのものさし」が――一般的な常識で測る物事が、「合っている」ものなのだと、信じて疑わないのではないか。

 



 だが、一歩。

 別の、新たなものさしという、「知らなかった現場の実態」で測ると。

 案外簡単に、それまでの「一般的」な

「常識」というものが、どれだけ測り間違えていたかがわかるものだ。

 


 ――ものさし、という名の「常識」は。昔に測られた「一般的」なものを見て、納得するものではない。

 今は様々なところで、様々なことを知るための場や知識が、実はちゃんとある。あまり取り沙汰されないものが多いだけで。

 

 だからどうか。

 自分のなかの「常識」は、その目と耳で感じて、「自分で」常識を測ってほしい。

 そうして、考え方を柔軟にし、視野を広げることで初めて、自身の世界は、大きく広がるのかもしれない。

 それが、この国の。しいては世界の。

 「在り方」が変わるために、必要なことではないかと、作者は思う。

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