鍋~幸せの1ページ
「鍋って、幸せの匂いがしない?」
夕食の席で唐突に妹が言った。また、おかしな電波をキャッチしたらしい。憐れみの視線を送ってやる。長い付き合いの賜物か、はたまた単に無神経なだけか、妹は私の視線など気にも止めず、呑気に手元の器に鼻を寄せて匂いを嗅いでいる。お前は犬か。
「行儀悪いからやめろ」妹の手から皿を奪いあげようとする。しかし、私の指が触れるよりも先に、皿は高度を上げて、安全地帯へと逃げていった。ちゃぽんと中の汁が揺れる音がした。どんな匂いでも構わないが、絶対に溢すなよ。
「お姉ちゃんも嗅いでみてよ、ほらほら」
逃げたと思った皿は、進行方向を変えると、急降下したのち、私の目の前で急停止した。
「熱っ!」跳ねた汁が顔に直撃した。この野郎。妹は謝ることもなく、あはははと腹の立つ笑い声を立てる。この野郎。
「ねえほら、嗅いでみてよ」「ほらほら」「騙されたと思ってさ」「はーやーく」
面倒なので無視を決め込んでいたら、妹が駄々っ子モードに突入してしまった。亡くなった両親の代わりに甘やかして育てた付けが回ってきたようだ。こうなると、梃子でも動かなくなる。勘弁してくれよ。恐る恐る、鼻を近づけてみる。皿の中は、まだ熱々だ。醤油ベースのだしの香りがする。これが幸せの匂いなのか。
「ね、するでしょ。ね?」
身乗り出して、同意を求めてくる。もはや恐喝のそれに近い。
「鼻が詰まっているから分からない」
憮然とした態度で告げると、妹に唖然とした表情で見つめられた。こっちはバイト終わりに夕食まで作ってやったというのに、なぜそんな顔をされないといけないんだ。
締めのうどんを食べ終わると、一足先にご馳走様を告げ、台所へと旅立つ。
「一緒に洗うから、お前の皿も持ってこいよ」
「この番組、なんか飽きちゃったな。今季は外れだよ。お姉ちゃん、何か見たいのある?」
人の話を聞く気はないらしい。箸を咥えながらリモコンを操作している。行儀が悪い。目に叶う番組がないのか、次々とテレビ画面が切り替わっていく。
『続いてのニュースです。今日、神奈川県**市で……』
余程何もやってないらしい。珍しく、ニュース番組に落ち着いた。
『……高校からの帰宅途中に何者かによって刃物で刺され、先ほど搬送先の病院で死亡が確認されました。女子高生が狙われる事件は今月に入り四件目であり、犯行の手口が似ていることから……』
「おい、食べ終わったなら皿持ってこい」
「連続殺人だって。都会は怖いねぇ」
ずずと、茶を啜る。いつの間にか、ティータイムに突入したようだ。話を聞けよ。
「お前も、気をつけろよ。一応、女子高生なんだから。早く皿持ってこい」
「大丈夫だよ。狙われるのは、みんな可愛い子ばかりだから。あたしの顔見たら、逆に犯人の方が驚いて逃げ出すよ」
すぐ隣の県で起こったことだというのに、どこまでも能天気な奴だ。
「暗闇じゃ顔は見えないんだよ。皿!」
「お姉ちゃんこそ気をつけなよ。性格はあれだけど、顔はまあまあなんだから。性格はあれだけど」褒めるのか貶すのかどっちかにしてくれ。
「おい、後はお前の分だけだぞ。自分で洗わせるからな」
この一言には、何か感じるものがあるのか、妹は急に静かになった。俯いて、何かを考えている。考えがまとまったのか、しばらくすると、ととっと小走りで走り寄ってきた。
「婆さんや、粗茶をもう一杯」
緑色の湯呑がスッと差し出された。ぶん殴ってやった。早く皿を持ってこい。
バカで、愚かで、時々とてつもなく愛おしい、私の妹。君との思い出はいつも、何でもない日常の一コマにあった。妹にとっての鍋が幸せの象徴ならば、私にとっての鍋は幸せだった頃の最後の記憶。二人で過ごした日々が、また優しい記憶へと変わる日は来るのだろうか。
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