電話
トルルル、トルルル。電話の呼び出し音が、私を眠りの世界から引きずり出した。枕もとの時計に目を向ける。午前四時。今日は朝から会議があるでの、六時には起きなくてはいけない。また、中途半端な時間に起こされたものだ。こんな不躾な時間帯に電話をしてくる人物は一人しか心当たりがない。私は布団を頭から被った。そのうち留守電に切り替わるだろう。今日は絶対に遅刻できない。気にするなと自分自身に暗示をかける。トルルル。耳の奥に呼び出し音が木霊する。そういえば、留守電設定にするのを忘れていた。私は覚悟を決めて布団から這い出た。
「……もしもし」
不機嫌全開で対応する。返事はない。しかし、電話の向こうに誰もいないわけではない。音とは言えないが、確かな気配を感じる。
「また、あんたか」
ため息が口から漏れた。
「一体、何が目的なんだ」
私は頭を抱えた。電話の向こうで女が妖艶に口を歪ませる。そんなイメージが頭をよぎった。
三か月ほど前にある女性から電話がかかってきた。『ねえ、今何やってるの』から始まり、『私が誰だが分かる?』と続いた。典型的な悪戯電話だとは気が付いていたが、酒に酔って気分がいささかハイになっていたのと、若い女性と話ができるというスケベ心から、一時間ほど彼女の相手をした。どうせ顔も知れぬ赤の他人、あることないこと、主に上司の愚痴など口走った。この受話器を置いたら彼女との関係も終わり。少なくとも私の中ではそのつもりであった。しかし、彼女、自称、加奈子にとっては違かったようで、翌日にもまた電話がかかってきた。素面に戻ってようやく、電話越しに見知らぬ女性に泣きつくという失態を思い出した。私は加奈子に自分の昨夜の非礼を詫びた。それからも、加奈子からたびたび電話がかかってきた。それはもうしつこいぐらいに。
「今何時だと思っているんだ。もういい加減にしてくれ」
朝方ということも忘れて怒鳴りつけた。何が面白いのか加奈子はクスクスと受話器の向こうで笑っている。加奈子からの電話はエスカレートしていった。出張で家を留守にしたときには二百件を超える着信が入っていた。何度着信拒否設定にしても、加奈子はその都度電話番号を変えてきた。
「あっれー、そんなこと言っていいのかな。あたし今日すっごい良いこと教えてあげようと思ったのに」
どこか舌足らずなしゃべり方。それがより一層私の怒りを助長させる。
「ふざけるな。二度と電話してくるな。次からは警察に言うからな」
頭から湯気が出そうだ。すっかり目が覚めてしまった。シャワーでも浴びるとするか。
「待って」
加奈子の今までに聞いたことのない、切羽詰まったような声が私の思考を中断させた。受話器を持つ手が固まる。
「気をつけて。あなた今日、中野に殺されるわよ」
私は受話器を元勢いよく叩き付けた。自分の心臓の鼓動がやけにはっきりと聞こえる。加奈子の言うことを本気にしているわけではない。加奈子は少し頭がおかしい節がある。今の発言もそれの延長線だ。気にすることではない。自分がこれほどまでに加奈子の発言にショックを受けているのは、中野とういう上司が実際にいるからだろう。中野という名字はたいして珍しいものではない。ただの偶然だ。それに中野は直属の上司ではないため殺されるほどの恨みを買っているとも考えづらい。
「なんで俺が中野に殺されなくちゃいけないんだよ」
吐き捨てるように呟いた。喉がひどく乾いている。
しかし、この私の楽観的な考えは無残にも打ち砕かれることとなった。
中野に刺された。私は血の流れる腹を抑えながら夜の街を走る。足を止めるわけにはいかない。足を止めたら殺される。目の前に電話ボックスが現れた。この深手でこれ以上走ることはできない。浅はかな考えではあるが、私はそこに籠城することに決めた。残るすべての力を足に込める。包丁が背を掠ると同時にボックス内に飛び込んだ。体重をうまいこと利用して外からは開けられないようにする。中野が血走った目でこちらを睨みつける。握る包丁からは生々しく赤い血が滴り落ちる。しばらくすると、諦めたのか中野は闇に姿を消した。助けを求めるべく私は電話に手を伸ばした。突如、鳴り響く呼び鈴。反射的に受話器を耳に当てる。
「だから言ったでしょ」
加奈子の楽しそうな声が、耳に届いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます