第32話

 こっちは肉じゃがの味を染み込ませようと、いつもより早く調理に取り掛かって頑張ったのにこの仕打ち・・・。


 鍋に入った肉じゃが、焼く前の西京漬け、洗った食器、炊飯器。目につく物を全て床に叩き付けて部屋から出て行ってやりたいと思った。


 ヘドロでできた沼からガスの泡沫がボコボコと湧き上がってくるかのように、たった一行の文面にいくつもの不満が噴出した。その勢いはこれから焼こうとしている西京漬けの魚を夫と同僚の顔に叩き付けてやりたくなる衝動に駆られるほどだった。


 だが突然、怒りに支配されている心の隙間にすぅっと、冷たい空気が吹き込んだ。なぜか私は急に冷静になった。


 はぁ、と一息ついた瞬間、頭が切り替わった感じがした。


 ああ、今だ・・・。



 私はスマホを持ったままソファーの方へと歩いた。透明になった頭のままポーチを手に取り、そこから黄色い付箋を取り出した。迷いも後ろめたさもなかった。スマホにメールアドレスを打ち込んで短い文章を作成した。


 十秒後には私の掌からメールと共に、目には見えない心の中にあった何かも飛んで消えていった。


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