第18話

 頭がパンクしそうになったあの後、店からそそくさと彼と目が合わないように家に帰ってきた。そこから昼食も摂らずにすぐ借りた本を読み始めた。


 改めて表表紙を開いてみると、やはり右下には付箋があった。メールをするかしないかは後で考えようと思った。とりあえず読まなければ彼に本を返せないし、お礼と共に言うであろう感想も伝えられない。今は内容に集中することだけを考えて読むことにした。


 考えてはいけない!


 そう強く思えば思うほど、黄色い四角が頭を過ぎって文字を追おうとする目が本の上を滑った。それでも気持ちを落ち着かせて文字を読んでみたが、内容が頭に入ってこない。私は一旦本をテーブルに置いて近くのソファーに寝転がった。胸がドキドキして息苦しかった。苦しいといっても不快な苦しさではなく、どこか甘さのある息苦しさだった。


 最後にこんな気分になったのは夫と出会った瞬間だったか、始めて共に朝を迎えた日だったか。それとも夫と出会う前に肌を重ねた男と過ごした日々だったか・・・。そんなに遠くない過去を思い出してみようと思ったが、その時々の場面が蘇るだけで、当時の感情までは思い出すことができなかった。


 過去と共に夫の顔が頭に浮かぶと、他の男のことを考えているという罪悪感で今まで胸をざわつかせていた感情がすっと消えてしまった。今の私は妻なのだ。人妻が他所の男の顔を思い浮かべて頬を紅潮させているというのは不貞行為以外の何物でもない。


 私は今、とても悪いことをしているのかもしれない。しかしただ馴染みの店員からメールアドレスを渡されただけで、まだ私からは連絡を取っていない。それでも私は人から後ろ指を指されることをしていることになるのだろうか。きっと誰かに私の心を読まれていない限り、昨日と変わらない自分でいられているはずだ。私はまだ誰も傷つけていないし、死神を遠ざけたりもしていない。


 何も変わっていないのだ。今の心の動きは驚きと日常が非日常へと変わってしまう不安から来ているもので、いかがわしいものではないと信じたい。そう強く自分を持っていなければ、次にやってくる大きな嵐の前で冷静でいられないような気がした。


 

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