第8話
夫がスーツ姿で重たそうな鞄を持って再びリビングに現れた。私はスマートフォンを置いて立ち上がり、時計をつける夫の姿を見つめながらこっそりとため息をつく。夫はそんな私に気付かないまま行ってくるよと、こちらを見ずに誰に言うでもない感じで呟いて玄関に向かった。私は彼の後ろを歩いて玄関先まで行き、行ってらっしゃいと手を振って見送った。
バタンと鉄製の扉が閉まった後、がっちりと手早く鍵とドアチェーンをかけてさっきより深い溜息をついた。それはついさっき夫の後姿を見ながら出した煩わしさを含んだ溜息ではなく、一人になれたという安堵の溜息であった。
夫のために温かい食事を用意したり、玄関先まで見送ることに意味などない。ないとわかっていても、今はそうせざるを得ないのだ。私は今の生活を終わらせないために夫にしがみ付いて生きている。表に出している妻らしい言動は夫のためではなく、自分の生活を維持するための演技だ。無収入の自分を養うために私は私のために今日も家庭という名の会社で夫という上司に媚びへつらっている。
日々早く死にたい、生きている意味などないと思いつつ、ナイフで自分の胸をひと思いに突くことすらできない情けない自分を生かすためには必死に夫に尻尾を振って生き延びて行くしかないのだ。滑稽にさえ見える一人で生きていく術を待たない女の悲しい有様。今は笑ってくれる人すら私のまわりにはいない。
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