エクストラ・ディメンション(余剰次元)

ツジセイゴウ

第1話


不思議だ、あまりに不思議すぎる。あなたは、なぜ自分という人間がこの瞬間、この場所に存在するのか考えたことがあるだろうか。夜空を見上げれば、無限に続く星々がまたたいている。こんな広大な宇宙がなぜ存在するのだろう。そして、これから先、人間は、地球は、そして宇宙はどうなっていくのだろう。その答えを出すのは、哲学でも、宗教でもない。最先端の素粒子物理学があなたをこの不思議の世界へと誘ってくれる。

まず、身近なところから始めよう。今、何もないと思っているあなたの眼前にも空気がある。そしてその空気の中には酸素分子や水素分子の粒々が無数に浮かんでいる。あなたは、そのことを息をすることで実感している。もし、酸素分子がなかったら、あなたはたちどころに呼吸困難に陥って死んでしまうであろう。でも、あなたの目には何も見えてはいない。それは、ただ単にあなたの目の解像度がそこまで精巧に出来ていないからに過ぎない。

同じように、この世には解像度が低いために知られていない世界がまだまだ存在する。酸素分子の粒々はさらに陽子や中性子という小さい粒子に分解できる。その陽子や中性子ですら、さらに細かいクォークやレプトンに分解される。10のマイナス33乗センチメートル、想像を絶する小ささだ。世界最高性能の電子顕微鏡をもってしても絶対に見ることの出来ない極微の世界。それが、今CERN(欧州合同原子核研究機構)にあるLHC(大型ハドロン粒子加速器)による実験で明らかにされようとしている。果たして、その結末は…。


この小説を読んで理解するためには高度な素粒子物理学の知識を必要とします。本文に入る前に、必要最低限の知識を分かりやすく解説します。本文中でも適宜簡単な説明は加えながら進めますが、読み始める前に是非、目を通してください。

(用語解説)

① 相対性理論…20世紀初め、アインシュタインにより確立された理論。あまりに有名なのは物体が光速に近い速度で移動する際、その時間の進み具合が遅くなるというのがある。この他にも、大きな重力をもつ天体(物体)の近くでは空間が歪められ、やはり時間の進み具合が遅くなるということも、現実に実証されている。

② ブラックホール…物質が極度に凝縮した結果、重力が極端に大きくなり近づく物体は光さえも飲み込んでしまうとされる謎の天体。銀河の中心等に存在するとされているが、直接観測できないため、その周囲で起きている現象から間接的にその存在が仮定されているに過ぎない。この小説の主要テーマとなる。

③ 事象の地平線…ブラックホールの周囲にある一線。この線を超えるともはや何物も戻って来られないとされるギリギリのライン。事象の地平線の向こう側で何が起きているのかは無論観測されていない。

④ 膠着円盤…ブラックホールの重力に捉われた物質がブラックホールの周囲に渦を巻きながら膠着した状態。バスタブの栓を抜いた時に渦を巻きながら水が穴の中に吸い込まれていく様子を想像すればいい。

⑤ 真空のエネルギー…全く何もないはずの真空の中でも常に極微のエネルギーが存在し、そのために空間自体が波打つ水面のように絶えず揺れ動き、またこの宇宙自体をも膨張させていると言われている。別名ダークエネルギー(目に見えないエネルギー)とも言う。

⑥ 対生成・対消滅…真空のエネルギーにより、全く何もないと見られる真空中でも粒子(物質)とそれに対を成す反粒子(反物質)が絶えず生まれては消えているとされる現象。0=1+(-1)ということ、つまり「無」から「有」が生まれるためには、+1と同時に-1が生まれなければならないという理屈。

⑦ 対称性の破れ…必ず対をなして生成・消滅するはずの粒子と反粒子(対称性)だが、対称性が微妙に破れていたため反粒子だけが消滅し、粒子だけが残ったとする理論。我々が住むこの宇宙が存在するに至った根拠とされている。日本の物理学者、南部、益川、小林博士らが、この理論によりノーベル物理学賞を受賞したのは記憶に新しい。しかし、この小説では敢えて対称性は破れていなかったという仮説を前提として物語を展開する。

⑧ ヒッグス粒子…物質に質量を与えるとされる未確認の粒子。物理学では質量とは重さではなく「動かしにくさ」を意味する。物質が動かしにくいのは、動くのを邪魔する何かが空間中に満ちているからとされる。その何かがヒッグス粒子(あるいはヒッグス場ともいう)と仮定されている。

⑨ 階層性問題…この世に存在する4つの力、電磁気力、強い力、弱い力、重力のうち、重力だけが他の3つの力に比べて何十桁も弱いという不思議。素粒子物理学最大の難問とされる

⑩ ひも理論…この世に存在する全ての素粒子は、粒ではなく極微のひもで出来ており、そのひもが振動するパターンにより素粒子の性質や種類が決まるとする理論。現在素粒子物理学の最先端かつ最も有力な理論であるが、未だ確立されていない。

⑪ 余剰次元…エクストラ・ディメンジョン、この小説のタイトル。ひも理論でもその存在が仮定されている目に見えない次元のこと。我々の住むこの世界は、縦・横・高さの3次元に時間を加えた4次元時空とされているが、ひも理論ではこれ以外に目に見えない時限が6次元あるとされている。

⑫ ブレーン(膜)理論…ひも理論をさらに進めた理論。我々の宇宙は高次元時空の中に浮かぶ膜のようなもので、我々の目に見えない別の宇宙(並行宇宙)が存在するとする理論。未だ仮説の域を出ていない。この小説は反粒子ばかりで出来た並行宇宙が存在するという前提で物語が進む。

⑬ LHC…大型ハドロン粒子加速器。陽子を光速の99.99%まで加速して衝突させることで、新しい素粒子の生成や発見、人工ブラックホールの生成、余剰次元の有無の確認などが出来ると期待されている装置。現在、スイスのCERNにあるものが世界最大。



1.ひらめき

2012年X月、スイスジュネーブ近郊CERN(欧州合同原子核研究機構)。

「グレイト・サクセス(大成功だ)」

オペレーターの発声とともに半円形の巨大なモニタールームに大きな歓声と拍手が響き渡った。この瞬間、世界で最大といわれる大型ハドロン粒子加速器(LHC)が初稼動した。世界中の物理学者がこの日を心待ちにしていた。LHCは、スイスジュネーブ近郊の地下深くに周囲27キロメートルという途方もない巨大なトンネルを掘り、その中で陽子を高速の99.99%まで加速して衝突させ、その衝突の痕跡を探ることにより、物質の根源である素粒子よりさらに小さい世界を探り、あわよくばこの宇宙の起源であるビッグバンの秘密にも迫ろうかという代物である。

「チアーズ、チアーズ(乾杯)」

あちらこちらからシャンパングラスをトスする声が上がり、その場に居合わせた数百人の著名な物理学者や各国の政府関係者から大きな拍手が沸き起こった。次いで、ある者は硬い握手を交わし、ある者は抱き合って、装置稼動の瞬間の喜びを分かち合った。

しかし、そんな華やかなセレモニーの傍らで、誰一人不安げな様子で嘆息を漏らす人物がいた。歳はまだ30過ぎ、ぼさぼさの頭に短い脚、丸い眼鏡をかけた不細工な格好のその人物は凡そこの華やかな場所に似つかわしくないという風体で、その様子を見守っていた。益山公平、日本素粒子研究機構の新鋭の理論物理学者で、ここCERNには日本の研究チームの一員として招聘されていた。

「とうとうパンドラの箱が開いてしまったか。」

公平は一人ボソリと呟いた。

「ハーイ、コーヘイ、どうしたの、そんな浮かない顔をして。」

公平の傍らにシャンパングラスを片手にした金髪の若い女性が近づいてきた。

「ケイトか。」

ケイト・ハブロン、ケンブリッジ大学素粒子物理学研究所の研究員で、ここCERNでは公平のパートナーとして研究に携わることになっていた。

CERNのLHCは世界各国の政府の出資により建設された。総額2兆円に上ろうかという巨費は到底一国でまかなえたものではない。出資した国々は、その出資割合に応じて研究員を派遣する権利を得ていた。アメリカ、EUに次いで世界で3番目の出資国日本からは総勢35名の研究員が派遣されており、公平はその中の一人であった。

「いや、少し気になることがあってね。」

公平は、モニタールームの丁度反対側にいる一団に目を向けた。ケイトもそっと公平の視線の先にある一団に目を向けた。そこには数人の男女が、場の喧騒を避けるかのように丸くなってグラスを傾けていた。

「ああ、アメリカチームね。どうも好かないわ、あの連中。いつもあの調子。自分たちだけで集まってヒソヒソ話。」

ケイトは吐き出すようにののしった。LHC最大の出資国であるアメリカは、ことの他ここでの研究成果に期待を寄せていた。相次ぐスペースシャトルの事故で宇宙開発の分野におけるアメリカの権威は失墜し、最近ではロシアはおろか後発の中国やインドにも追い上げを受けていた。ここCERNで起死回生の研究成果を挙げ、理論物理学はおろか宇宙物理学の分野でも再び世界をリードしようとせんばかりに野心的な物理学者を数多く送り込んできていた。

「いや、僕が気にしているのは、やつらの人物像ではなく、あの研究テーマだ。」

「アメリカチームの研究テーマって、コーヘイ、あなたまさかあんな馬鹿げた理論を信じてるの。あんなの理論物理学の世界じゃありえない。百年経っても出来っこないわ。」

「だといいが。ただ、どうも嫌な予感がするんだ。僕の計算が間違ってなければ、ここのLHCで出現する可能性はゼロではない。もし、そんなことにでもなったら世界は破滅する。」

「大丈夫よ。そんなもの、出て来っこないわ。そんなことより、さあ飲みましょう。こんなシャンパン、滅多にお口に入らないわよ。私たちの研究の成功を祈って、ハイ、チアーズ。」

ケイトは陽気にシャンパングラスを傾けると一気にその中味を飲み干した。


その三ヶ月後。

「駄目だわ、また駄目。」

ケイトは大きなため息を漏らした。ケイトの目の前にあるコンピューターの画面には「CALCULATION FAILURE(計算失敗)」の文字が浮かび上がった。

「まだ研究が始まって三ヶ月だ。そんなに簡単に成果が上がるわけないよ。」

傍らから公平が笑いながら覗き込んだ。公平たち日英合同チームの研究テーマはヒッグス粒子と呼ばれる未知の粒子の検出である。「ヒッグス粒子」、物質に質量を与えると言われているこの粒子は、勿論どのような精巧な電子顕微鏡を使っても直に見ることなど到底不可能な小ささである。

物理学では、質量とは重さではなく「動かしにくさ」を意味する。動かしにくいのは、動くことを邪魔しようとする何かがあるからである。それは、今夜あなたがお風呂に入り、バスタブをまたいで立って足踏みをすればすぐに実感できる。バスタブの外にある左足は軽く動く。ところがお湯に浸かった右足を動かそうとするとお湯が邪魔になって動かしにくい。ヒッグス粒子とはこのバスタブを満たすお湯のようなものである。真空の中にもお湯らしき何かが満ちている。だから物質に動かしにくさ(質量)が与えられる。

冒頭でもお話したとおり、何もないように見える空気中にも酸素分子や水素分子が無数に浮かんでいる。それが見えないのは、単にあなたの目の解像度が低いからに過ぎない。同じように、全く何もないと思われる真空の中でさえ、動かしにくさを与える何かが潜んでいる。それが見えないのは、単に人類が手にした最高性能の機械ですら解像度が低すぎるからに過ぎない。

しかし、あなたは手を素早く動かすことで、間接的に酸素分子の存在を実感できる。手を大きく素早く振れば、手は空を切る。しかし、その瞬間、あなたは手に微かな抵抗を感じる。それで、あなたは空気中にも何かがあることを知ることになる。

公平たちが探し求めているこのヒッグス粒子を見つけるのも原理的には同じである。ヒッグス粒子の大きさは10のマイナス33乗センチメートル、いわゆるプランク長さと呼ばれるレベルの大きさである。それは原子の大きさよりもさらに何億倍も小さい。想像するだけで気が遠くなりそうである。どんな精巧な電子顕微鏡でも直に観察することは絶対に出来ない。陽子衝突実験により検出されるエネルギーの流痕から間接的に観察するしか方法はない。手を振ることによって起こる空気の流れの変化を観察することで、酸素分子の存在を間接的に観察しようとするのに似ている。

しかし、ヒッグス粒子を見つけるのは酸素分子を見つけるように簡単ではない。その理由は、その粒子が常にそこに存在しているわけではなく、真空の中のごくわずかなエネルギーの揺らぎの中で浮かんでは消え、消えては浮かぶという、まさに幽霊のような存在だからである。山のような数があるのに、それが見つかる確率は10の何乗分の1とかいうレベルかもしれない。何兆個という陽子を衝突させてやっと1個めぐり合えるかどうかという類の話である。世界最高速のコンピューターで解析を続けても明日発見できるという保証はない。

「まあ、焦っても仕方ないさ。2~3年以内には何とか。」

「また、そんな暢気なことを言って。アメリカチームに先を越されてもいいの。彼らは毎日24時間体制で交代で研究を続けてるわ。」

「おいおい、また、アメリカチームかい。君はいつもそのことになるとムキになるんだから。」

「だって。あいつらだけには負けたくないんだもの。」

ケイトは膨れっ面をして見せた。

「それより、どう、これからハイキングに出かけない。外はこんなにいい天気だし。」

「ハイキングですって。」

ケイトは釣り上がった目をさらに釣り上げるように公平を睨みつけた。

「ああ、ここでこうやっていてもすぐには結論も出そうにないし。外に出ていい空気を吸った方が、きっといいアイデアも浮かぶ。ほら、かのニュートンだって、リンゴが木から落ちるのを見てひらめいたんだろう。そう、物理学の世界なんて所詮そんなものさ。」

公平に言われて、ケイトは渋々重い腰を上げた。

2人はハイキングシューズにリュックサックという軽装で表に出た。外は、抜けるような青空。遠くには雪を抱いたアルプスの山々が見渡せ、6月の強烈な紫外線が2人の目を刺激した。CERNのある村からは10分も歩けば、すぐにハイキングコースに出られる。

2人は黄色い標識の指示に従って、一路シルトゼー(シルト湖)を目指す。なだらかなアルプの広がる斜面には初夏の風が吹きぬけ、草原で草をはむ牛たちのつけたカウベルがカランコロンと心地よい音を立てる。2人はそんな中、緩やかな斜面に沿って歩いた。

こうして歩いていると、この地下数10メートルのところに巨大な粒子加速器のトンネルがあることなど微塵も感じさせない。のどかで平和な空気に包まれていた。

「ねえ、コーヘイ、コーヘイはどうして、また物理学の世界に。」

「ウーン、何となくかな。ほら、日本じゃ、あまり自分の将来のことを考えて大学を選ぶっていう習慣がないから。僕だって、子供の頃の夢は電車の運転手になることだったんだ。」

「電車の運転手?」

ケイトは思わず吹き出した。

「そう、子供の頃から速い乗り物が好きだった。特に日本の新幹線、そう超特急には憧れてた。何しろ時速300キロで走るんだから。すごいだろう。」

「でもいくら速い電車でも粒子加速器には適わない。こっちは光の速さの99%。」

「それとこれとは別次元の話だ。そんなに速く走ったら、体がバラバラになってしまう。」

「バカね。ジョークに決まってるわ。」

そこで2人は大笑いした。道はいつしか緩やかな上りになり、2人の額には薄っすらと汗が浮かんだ。出発してきた村はもうはるか眼下に退き、赤い小さな家々の屋根が点々と見える。

「転機になったのは大学2年の時だったかな。あの時、北部先生のノーベル賞受賞の発表があった。」

「ホクブ?、ホクブ博士ってあの対称性の破れの。」

「そう、対称性の破れ。あの時は正直びっくりした。まだ対称性っていう言葉の意味もよく知らない頃だったからね。でも、わけが分からないながらも、何かとんでもないものを日本人が発見したということだけは、今でもハッキリ覚えている。あれが物理学の道に進もうと決めるきっかけになった。」

「対称性の破れ」ビッグバン直後の初期の宇宙は物質と反物質が同じだけ存在していたとされている。しかし、その後電荷がプラスの物質だけが残り反物質はすべて消えてしまった。これがビッグバンの最大のなぞとされていた。でも、ホクブ理論により、対称性が破れることで反物質だけが消滅することがありうることが証明された。これにより今日宇宙というものが存在する理由が明らかにされたのである。

「意外と単純なのね。コーヘイほどの物理学者なら、もっときっちりした動機があったとばかり思ってたのに。」

ケイトは公平の少し前に歩み出た。

「単純で悪かったね。人生なんてそんなものさ。かく言う君の方はどうなんだい。」

公平は、先を進むケイトを追いかけるようにして聞き返した。

「私は、もっと真剣だったわ。物理学の道に進もうと決めたのはハイスクールの時。化学の実験で顕微鏡をのぞいた時だった。この世には、私たちの目に見えない物が一杯ある、そしてその目に見えない物が私たちの世界を決めている。そう思った時から、私の一生を捧げるのはこの世界しかないと思った。」

「ヘー、それはすごい。ハイスクールの時なんて、日本じゃ皆な受験勉強で大騒ぎだ。自分が将来何をしたいかなんて関係ない。どれだけ難しい大学の、どれだけ難しい学部に入れるか、皆なそんなことしか考えてない。」

「かわいそうね、日本の学生さんは。」

道はいつしか峰を回りこみ、突然眼前に美しい湖水の風景が広がった。

「ワオー、ビューティフル。」

ケイトの口から驚きの一声があがった。

シルト湖。アルプスの雪解け水が地下水となって湧出して溜まったその湖は周囲が3キロメートルほどの小さなものであったが、鏡のように平らかな湖面にはアルプスの山影が映り、喩えようのない美しさであった。湖の周囲にはなだらかな草原が広がり、のんびりと草をはむ牛たちが緑一色の美しい斜面に点々と彩を添えていた。

「さて、お昼にしようか。」

公平とケイトは湖を一望できる高台に持ってきたシートを広げると並んで腰を下ろした。ガイドブックにも載っていないような小さい湖の周辺は、訪れるハイカーも少なく虫の飛ぶ音が聞こえるほどの静けさがあたりを包んでいた。このような美しい風景を堪能できるのは、地元に住む人とCERNに派遣されている物理学者たちだけであった。

2人は用意してきたサンドイッチを頬張りながら、のんびりと眼前に広がる雄大な景色に見入っていた。公平は不思議な気持ちで一杯であった。もし対称性が破れていなかったら、この美しい風景も、このアルプスの山も、いやそれだけではない、この地球や宇宙すら存在していなかった。わずか10の何乗分の1の確率で対称性が破れたからこそ、今自分がここに存在し、この景色を見ている。宝くじに当たるよりもはるかに小さい確率がこの世界を創り出した。何度考えてもそのことが不思議でならなかった。やはり神というものが存在するのか。そう思わないではいられなかった。

「あの人たちには、きっとこんな景色もただの風景かもね。いや、こんな場所があることすら知らないかも。」

「またアメリカチームの話かい。よほど彼らのことが気に入らないようだね。」

「だって、明けても暮れても研究所に入りびたり。おまけに陽子出力装置も独占。少しはこっちのことも考えて欲しいわ。」

「仕方ないさ。アメリカは最大の出資国だし、派遣されている研究員の数も群を抜いて多い。」

公平は、持ち上げかけたコーヒーカップを止めて、嘆息を漏らした。

「ただ、気になるのは彼らの研究テーマの方だ。あの分野は危ない。まだ知られていないことが多すぎる。もし想定していないことが起きたら、コントロール出来るかどうか。」

「それって、ブラックホールのことかしら。」

公平は黙ってうなずいた。

「ブラックホール」、物質が極端に一点に凝縮した結果、重力が無限大になり近づく全ての物質を飲み込んでしまうなぞの天体である。この穴にはまり込むともはや光すら脱出することは出来ない。ゆえに観測すら物理的には困難な理論上の天体である。この広大な宇宙空間では銀河の中心部に存在すると言われて久しいが、それを直接観測した者はおらず、間接的な観測結果からその存在が仮定されているに過ぎない。ところが、ここCERNのLHCでは、この恐るべき難物を人工的に生成できるかもしれないということが予言されており、アメリカチームの主たる研究テーマとなっていた。

仮に、人工的なブラックホールの生成に成功すればノーベル賞10個分に値するほどの大発見と言われているだけに、アメリカチームが力を入れるのも無理はない。しかし、それには当然に大きなリスクも伴う。

「そう、ブラックホール。もし見つかれば世紀の大発見になることは間違いない。ただ、それがこの宇宙空間にどんな影響を与えるのかは未知数だ。もし対称性が破れていなかったら、そう、対称性の破れが間違っていたとしたら、大変なことになるかもしれない。」

「対称性が破れていない? コーヘイ、あなた一体何を言ってるの。そんなことありえないわ。だって、あれは実際に実験でも検証されている。生成された反物質は全てすぐに消滅する。理論とも矛盾がないわ。まさにホクブ博士の理論どおりよ。」

「そう、確かに。万が一にも北部先生の理論に間違いがあるはずなどありえない。ただ、生成された反物質が消えているように見えているだけだとしたら。もし実際には消えてなくて、巧妙にその姿を隠しているだけだとしたら…。」

その時、2人の眼前の湖面に黒い影が映った。上空を飛んでいた一羽の水鳥が水面に向かって急降下してきた。鏡のように真っ平らな湖面に映る鳥の影。次の瞬間、鳥はその影に向かって突っ込み、水面に大きなスプラッシュが上がった。と同時に、鳥の姿は消え、湖面には鳥が残した波紋だけが幾重にも残った。

「そうか、分かった。そういうことか。」

その瞬間、公平の脳裏に閃光が走った。公平は素早く立ち上がると、わき目も振らず駆け出した。

「コーヘイ、コーヘイ。待って。どうしたのよ、いきなり。コーヘイ。」

公平は、ケイトの呼び声に振り返りもせず一目散に山を駆け下り始めた。



2.出現


丁度その頃、CERN、Dファクトリー。

「もっと出力を上げろ。」

モニタールーム内に、パソコン画面を凝視するハワードの怒声が響く。ハワードが操作するパソコンには赤や黄、緑色の入り混じった万華鏡のような色鮮やかな図柄が映し出されている。カロリメーターにより検出されたエネルギーの流痕である。

カロリメーター。光速の99%まで加速した陽子同士を衝突させたとき、陽子は電子や陽電子を放出しながら別の粒子へと崩壊していく。その崩壊過程で放出されるエネルギーを検出する装置である。もちろんその過程は肉眼では観察できない。今、ハワードの目に見えているものは、このカロリメーターが検出したエネルギーを可視化した映像に過ぎない。

「これ以上は無理だ。危険すぎる。」

傍らから助手のスティーブンの制止する声が聞こえる。

ハワード・スミス、ハーバード大学素粒子物理学研究所の精鋭として、100人を超える客員研究員を率いてCERN入りしていた。先のノーベル物理学賞では韓国と中国の研究者に先を越されたということもあって、今回のミッションにはアメリカの威信がかかっていた。

彼らの専門分野は超重力理論。ひも理論、膜理論のさらにその先を行く最先端の理論であり、それを実証できる唯一の方法はブラックホール内で実際に何が起きているのかを明らかにすることであった。物理学の世界の最大の難問とされる「階層性問題」、つまり4つの力、電磁気力、強い力、弱い力、そして重力のうち、重力だけが極端に弱いのはなぜかという問題である。重力は他の力に比べて何10桁も弱く、特別な理論がないと記述できないのではないかとされてきた。

しかし、ブラックホールの中にあっては、この重力が無限大に大きくなる。そこに階層性問題を解く鍵がありそうなことは容易に予想できた。そのブラックホールがここCERNの大型粒子加速器で人工的に生成できるかもしれないのである。もしそれが実現できれば、ブラックホールの崩壊過程を眼前で観測でき、その秘密に迫れるかもしれないのである。

「出力を、9Tev(テラ電子ボルト)まで上げろ。ここのLHCは理論上言われているエネルギー限界に30%の余裕率をみて設計されている。とすれば12Tev位まではいけるはずだ。」

再び、ハワードの声が響く。スティーブンは渋々モニターの出力レベルを上げた。


それから1ヵ月後。

CERNのカフェテリア。窓の外は、いつしかスイスの短い夏も終わり既に秋の気配が漂っていた。公平は、朝からもう何時間もメモ用紙に鉛筆を走らせていた。とっくに乾ききったコーヒカップが経過した時間の長さを物語っていた。

「コーヘイ、コーヘイったら。」

公平は、相変わらずケイトの声も耳に入らない風で、計算に没頭していた。

「もう少し、もう少しだけ待って、あと一息だから。」

公平のメモは、殴り書きされた数式が無秩序に並び、白い紙が黒々として見えた。ケイトは大きな嘆息を漏らして窓の外に目をやった。公平は一体何を計算しているのか。あの日から、ハイキングに出かけたあの日かから、公平はほとんどファクトリーにも顔を出さなくなり、自室にこもって一人鉛筆を走らせることが多くなった。理論物理学者には間々あることだけに最初のうちはケイトも黙ってそんな公平を見守ってきたが、今日は待ったなしの事態が生じていた。

「やったー、完成だ。ついに出来た。」

今一度ケイトが声をかけようとして身を乗り出したその時、公平は最後のメモ一枚を破り取った。そこにはある数式が一本記されていた。

「コーヘイ、一体何が完成したというの。」

ケイトの今一度の呼びかけに、ようやく我に返った公平はニヤリと微笑んだ。

「エクストラ・ディメンジョン(余剰次元)だよ。」

「エクストラ・ディメンジョン?」

「ああ、僕の計算に間違いがなければ、エクストラ・ディメンジョンは間違いなく存在する。君も見ただろう。シルトゼーで。あの水鳥、鳥が水面に突っ込んだとき鳥の影は完全に視界から消えた。」

ケイトは黙って頷いた。

「でも、実際には鳥は消えてはいない。水の中に鳥はいた。ただそれだけのことだ。物理学の世界も同じだよ。反物質は消滅したのではなくて、エクストラ・ディメンジョンの方向に隔離されただけなんだ。おそらく推測だが、今我々が住んでいるこの宇宙は物資ばかりで出来ている。同じように反物質ばかりで出来たパラレル・ワールド(並行宇宙)が存在するはずだ。」

ケイトはにわかには信じられないという表情で尋ね返した。

「ということは、対称性は破れていなかった?」

「その通り、破れたように見せかけて、反物質は巧妙にその姿を隠していたんだ。今の宇宙に満ち溢れるダークエネルギーこそ、この隠された反物質の正体だ。重力だけはエクストラ・ディメンジョンを透過して我々の世界に滲み出してくると予言されている。もし僕の理論が正しければ、当然のことながら我々の宇宙に存在するのと同じ数だけの反物質が別の世界に存在するはずだ。これで、この宇宙で最大の謎とされているダークエネルギーの説明がつく。」

公平は、興奮するように畳み掛けた。

「グ、グレイト。と言うより、何て言っていいのか、もしその通りだとしたら物理学の世界がひっくり返るわ。まさに天と地が入れ替わるような大事件だわ。でも、間違いじゃないの。何か大きな落とし穴が…。私も、コーヘイもまだ気がついていない。」

流石にケイトはすぐには公平の言うことを信じなかった。彼女もケンブリッジ大学きっての著名な理論物理学者である。大体、物理学者というのは人の考えや理論を否定するところから始まる。大発見とか革新的理論と言われるものほど最初は懐疑的な目で見られる。実際、当初は見向きもされなかった斬新的なアイデアが何十年も後になって実証されて大騒ぎになるということはこの世界ではよくある話であった。

「そう、その通り、だからこそ君にお願いしたいんだ。僕の計算が間違っていないかを検証して欲しいんだ。」

「OK、わかったわ。すぐにでも。」

「このメモじゃわけが分からないから、少しまとめて明日にでも渡すよ。それで、君の方は何? 何か話があったんじゃ。」

公平は、ようやく一段落して、ケイトの話に耳を傾けた。ケイトも思い出したかのように持ってきたばかりの話を切り出した。

「実は、2日前Dファクトリーが閉鎖されたの。」

「何だって、閉鎖?」

「そう、表向きは出力装置の故障で当分の間使用禁止だとか。でも、何か妙なの。アメリカチームの研究者たちだけは出入りしてるし、それに入り口にはセキュリティーも。」

「セキュリティー? フーム、それは尋常じゃないな。ファクトリーで何かあったんだろうか。」

公平の脳裏にいやな予感が走った。

「ついにパンドラの箱が開いてしまった」、あのセレモニーの日に口をついて出た言葉が再び公平の頭の中をかすめた。

「所内LANの方はどうだい。ここでは各ファクトリーでの研究成果を出来る限りオープンにするよう定められている。アメリカチームのホームページは。」

「1週間前に更新された切り。その後のことは何も。」

公平の不安げな様子に、いつも快活なケイトの顔にも暗い影がさした。


丁度その頃、Dファクトリー。

「おかしい、どうやっても消えない。一体どういうことだ。」

ハワードは何度もパソコンのキーパッドを操作する。ボサボサに伸びたハワードの無精ひげが、今回の事態の重大さを物語っていた。

1週間前の大興奮も覚めやらないまま、アメリカチームには重苦しい空気に包まれ始めていた。公平が自らの新理論の計算に没頭していた頃、アメリカチームは一足先に世紀の大発見を成し遂げていた。人工のブラックホールである。LHCの出力を11Tevにまで上げたところでついにブラックホールの痕跡らしきエネルギーの流痕がモニター画面に現れた。大きさは10のマイナス30乗センチメートル、もちろん目には見えない。その流痕はほんの一瞬現れてすぐに消えていった。まさに予言どおりの短さであった。

当初、アメリカチームはこの大発見をすぐには公開せず秘匿した。発見が間違いでないことを検証しタイミングを見計らってサプライズで大々的に報じる手はずであった。ところが大きな誤算が生じた。検証実験中、出現したブラックホールの一つが消滅しなかったのである。それどころか、このブラックホールは日増しに大きさを増し始めた。当初の直径は10のマイナス30乗センチメートルであったものが、2週間後には10のマイナス28乗センチメートル、2桁もその大きさを増していた。

「おい、ハワード。もうあきらめろ。それより一刻も早くこの事実を委員会に報告しないと大変なことになるぞ。」

「まあ待て、大きくなったとはいえまだまだ直に見えるようなレベルじゃない。黙ってりゃ誰にもわかりっこないさ。本国からもまだ極秘裏にしておけとの指示だ。それより、今はどうやって後始末をつけるかの方が先だ。陽子ビームの出力を上げてもう一度照射してみよう。」

スティーブンは大きなため息を漏らしながらハワードの指示に従った。

当初の予言では、人工のブラックホールは発生後ほとんど瞬時に蒸発して消滅すると予言されていた。そしてまさにこの予言どおり、ブラックホールはすぐに消滅した。しかし、アメリカチームはブラックホール内部の観測精度を上げるため、消滅までの時間を延ばすことを試みた。

これこそが、まさに公平が恐れていた点であった。仮に対称性が破れていなかったとしたら、そして余剰次元の向こう側に反物質ばかりで出来た並行宇宙があったとしたら、このブラックホールは我々の住む物質宇宙と向こう側にある反物質宇宙をつなぐトンネル役となる。物質と反物質はブラックホールの中で出会い合体して対消滅を起こし始める。そしてその穴は次第に大きくなり、やがてはこの地球、太陽系、いや銀河さえも飲み込むまで成長する可能性があった。

アメリカチームはまさにパンドラの箱を開けてしまったのである。吸い込まれると光さえ脱出できない恐怖の穴が、しかもこともあろうにこの地球上に出現してしまった。


その1週間後。

CERN全体に激しい警報音が鳴り響いた。

「緊急警報発令、緊急警報発令、Dエリアで極微量のX線検出。」

悪いことは隠し覆せないものである。

ブラックホールは成長すると、その中心から膠着円盤に垂直な方向に向かってX線のジェットを噴出する。物質と反物質が合体消滅する時に莫大なエネルギーが放出される。そのエネルギーは巻き上げられて巨大なストリームとなって解放される。それがX線ジェットである。実際に地球上でも宇宙のあらゆる方向から飛来するX線が多数観測されている。ただ、何億光年もの遠くから飛来することに加え、地球の厚い大気がそれを遮り、人体への影響は極わずかに抑えられている。

しかし、X線自体は強力な放射線であり、一つ間違えば人命にもかかわる惨事になりかねない。

「Dエリアは、すぐに閉鎖しろ。それと原因が究明されるまでLHCは停止する。」

CERNの規約で、事故発生時には直ちにLHCの稼動を停止し、その原因究明が行われることになっていた。


3日後。

「なぜ、すぐに報告しなかった。一体、Dファクトリーでどんな実験をしたんだ。」

査問委員の厳しい視線が一斉にハワードとスティーブンに集中した。査問委員会、各国の代表で構成されるこの委員会は、CERNの中で重大な規律違反や事故が発生した場合に緊急に召集される。LHCの公正な平和利用と安全性を確立するため、査問委員会には各国政府ですら介入できないほどの絶大な権力が与えられていた。

ハワードとスティーブンは、しかし、居並ぶ20余名の査問委員の前で直立不動のまま正面を見据えていた。

「あくまで黙秘するつもりか。それは本国からの指示か。」

さらに厳しい査問委員の叱声が飛ぶ。

しかし、この時ハワードとスティーブンの脳裏には別のある光景が思い浮かんでいた。

「いいか、君たちは、この合衆国の命運を左右する重大な使命を担うために派遣される。家族のことは忘れろ。いや、いざという時には自身の命のことすら忘れろ。いいな。」

本国を立つ前に、国防省に召集された派遣員全員に国防長官自ら任務の説明が行われていた。2人にはもとより自らの命など関係のない話であった。

愛国心の美名の下にイラクに派遣されて無益に命を落としていったあまたのアメリカ兵士同様、ここCERNに派遣されているアメリカの物理学者には、もはや個人の自由などありえないものとなっていた。

「よろしい。君たちはもう下がり給え。」

いつまで経ってもらちが明かないと見た査問委員長は2人に退室するよう命じた。警ら官に付き添われた2人は、まるで留置所へ運ばれる容疑者のように無表情のままドアの外に消えた。

「明日、Dファクトリーを強制査察する。」

委員長は静かに閉会を告げた。

翌日。査問委員会の調査団10名がDファクトリーに入った。全員が宇宙服を思わせるような被爆防護服を身に着け、頭には深々とシールド用ヘルメットを装着していた。

調査団の一人が、『Radiation Hazard Area(放射能危険区域)』と赤く表示されたドアの電解錠のキーパッドを操作する。ドアは音もなく開いた。放射能検出装置を手にした先頭隊が恐る恐る第一歩を踏み入れた。

ファクトリーの中は思ったより平穏だった。爆発や火災が起きた様子もなく、外のセキュリティーカメラに映ったそのままの状態が調査団の眼前に広がった。

「放射能レベル問題なし。」

その声に続いて、一人また一人と、調査団が中に入る。調査団は、ファクトリーの中をゆっくりと検分して回る。パソコンや検出装置が並ぶ通路を進み、あと少しでモニター画面の前というところで放射能検出装置が反応した。

「ごく微量のX線検出、警戒レベル2。」

調査団は一瞬怯んだように見えたが、すぐに平静を取り戻した。防護服を身に着けていれば警戒レベル2は全く安全な被爆量である。

調査団長は、ゆっくりとモニター画面のスイッチをオンにした。モニター画面には、例の万華鏡のようなエネルギー分布図が現れた。その画面を凝視していた調査団の1人からうめき声が漏れた。

「こ、これは、一体…」

「ま、まさか。」 

カロリメーターが検出するエネルギー量は最も高いところで40Tev以上、このCERNの粒子加速器で生み出すことの出来る最大エネルギーの3倍を超えていた。その周囲には、まさに台風の渦巻きのように黄色い色が分布し、その渦巻きから垂直方向に長く噴き出すX線のジェットがハッキリと映し出されていた。

「ブ、ブラックホールか。」

「恐らく。」

「ありえない。」

調査団の一団は絶句したまま、しばらくモニター画面に見入っていた。



3.新理論


その頃、CERNのカフェテリア。

「コーヘイ、完璧だわ。どこから見ても問題なし。」

ケイトは興奮気味に身を乗り出した。公平が頼んでいた例の理論式の検証が済んだのである。反物質がエクストラ・ディメンジョン(余剰次元)に隔離されれば、対称性の破れがなくても物質だけでできた今の世界が理論上も存在しうることが証明された。

「で、コーヘイ、どうするの。いつ、これを発表する?」

「今日にでも。所内LANのホームページ上にでも…」

ケイトは目を丸くした。

「コーヘイ、あなた、正気なの。ノーベル賞級の発見よ。私、イギリスの科学雑誌『デスカバリー』に親しい編集長がいるわ。頼み込んで、出来るだけ大々的にセンセーショナルに発表しましょう。」

「いや、僕はどうも、そういうのは苦手で。所内LANで十分。なるべく目立たないように。」

公平は慎重だった。物理学の世界では、足の引っ張り合いは日常茶飯事であった。世紀の大発見と言われるような理論ほど、大勢の著名な学者たちから集中砲火を浴びせられる。どうも学者というのは他人を批判し、こき下ろすことが、自らの存在を主張する手段のように考えていた。他人の理論を認めることは、すなわち敗北を意味した。

「で、ケイト、君に頼みがあるんだけど。今回の発表は君との共同研究っていうことにしてくれないかな。」

ケイトは、再び目を丸くした。

「共同研究って、コーヘイ、あなた何言ってるの。これ、あなたが発見した理論よ。私なんか、何もしてないわ。名前を出すことすら恥ずかしいわ。」

「いや、そんなことはない。君が教えてくれた、あの熱エネルギーの定数、あれがなかったら今回の発見はなかった。」

公平は譲らなかった。公平が発見した熱力学方程式にエネルギー定数を加えれば全ての理論的問題が解決するとヒントを与えたのはケイトであった。公平の言うとおり、研究者に名を連ねる資格はあった。

「コーヘイったら。ホント欲のない人ね。それで、今までよく理論物理学者が務まってきたわね。」

ケイトは、少し声を詰まらせた。

「その代わり、攻撃があったら、防御の方はよろしく。」

公平は、本当に正直であった。学生時代にあまりディベートという訓練を受ける機会のない日本人にとって、他人と議論するのは苦手な分野であった。

「コーヘイがそこまで言うなら。」

ケイトは、渋々連名発表に同意した。


3日後、調査団の調査結果が発表された。

アメリカの研究チームは、CERNの内規を破り、許される最大出力の1.5倍の負荷を掛けてブラックホール生成を試みたばかりか、ブラックホール生成後もその事実を公にせず、自国のみでその研究の成果を秘匿しようとした。それ以上のことは、外交上の問題もあり詳しくは説明がなされなかったが、その裏にはペンタゴンの存在があったことは、容易に想像がついた。

結局、アメリカチームは即刻退去を命ぜられ、問題の事後処理はEUの研究チームが引き継ぐこととなった。翌日、早々に対策会議が開かれた。

「で、今後このブラックホールはどこまで大きくなるのかね。」

EU代表のホルムシュタイン主査官は渋い表情で質問を投げかけた。ホルムシュタイン主査官、ベルリン大学物理学研究所長を務めるこの人物は、超対称性理論の先駆者的存在で、今回のLHCの実験で仮に超対称性粒子の一つでも発見されれば、ノーベル賞は間違いなしといわれる世界的な権威中の権威であった。その人物が、今回の対策チームのリーダーに選ばれたということは、それだけでも、今回の事件、あるいは事故とでも言うべき偶然の出来事の重大さが窺い知れた。

「それは我々にもわかりません。何しろ、人工的に生成されるブラックホールは、大きさが10のマイナス30乗センチメートル以下、生成後もほとんど一瞬にして消滅すると予想されていましたから。今回のような事態は全く想定外のことでして。」

補佐役のミシェル主任研究員が苦渋の表情で説明を続ける。ミシェル主任研究員はパリ大学理学部の助教授で、超ひも理論の研究ではこれもまた世界の権威の1人に名を連ねていた。この他にも、その道の人が聞いたら卒倒しそうな程の面々がこの対策会議に集められていた。

「何とか、この難物を消滅させる方法はないのか。このまま成長を続けると大変なことになるぞ。」

主査官の言うとおりであった。当初は10のマイナス30乗センチメートルのスケールで発生したブラックホールは今では、10のマイナス24乗センチメートルまで成長し、そこから放出するX線ジェットの強度も指数関数的に強くなってきていた。

「ブラックホールは周囲の物質を飲み込んで成長してゆきます。ですから、ブラックホール全体を鉛製のカプセルで覆い、中を真空にすれば、物質の供給が止まり、成長が止まる可能性があると思われます。」

「なるほど。だが、そんなカプセルがすぐに用意できるのか。」

「ええ、わが国の原子力委員会を通じで、超高純度プルトニウムの保管用カプセルを取り寄せます。」

超高純度プルトニウム、通常のプルトニウムを数百倍の濃度に濃縮したこの物質は、軍事用目的にのみ使用される。そのエネルギーは広島型原子爆弾の1千倍近くにも及ぶとも言われる。そんな超高純度プルトニウムから漏れ出す放射線を遮蔽するためのカプセル、その技術はその中身にも勝るとも劣らぬ程の高レベルの軍事機密であった。それを、フランス国が提供するという。もはや事態は、単なる物理学研究の域を超えていた・

「ことは急を要しますので、早々に本国に連絡を。」

ミシェル主任研究員は足早に部屋を後にした。


3日後、件のカプセルが到着した。

「オーライ、オーライ。」

仏国の国旗が銘打たれたトラックからカプセルが降ろされる。カプセルの直径は約1メートル、放射能を遮蔽するための鉛の厚さは約20センチ、それが三重の入れ子状になっている。わずか10キログラムの高純度プルトニウムを包むための入れ物の重さは2トンもあった。

「これは、すごい。このような代物、見たことがない。」

ホルムシュタイン主査官は感嘆の声を漏らした。それもやむ終えないことであった。第2次世界大戦の敗戦国であるドイツでは未だ核兵器を保有することは許されていない。このレベルのカプセルを保有するのは、世界でもアメリカ、ロシア、中国とフランスぐらいであった。しかも最高度の軍事機密とあれば、たとえ世界的な物理学の権威者といえどもまず目に出来るものではない。

カプセルは慎重にDファクトリーへと運ばれる。Dファクトリーの放射能レベルはさらに上昇し、もはや放射能防護服を身に着けていても危険なレベルに達していた。

やむなくモニター室からの遠隔操作により、まだ目にも見えないブラックホールをカプセル内に閉じ込める作業が始められた。カプセルは球形で、真ん中で二つに割れるようになっていた。密着後は中を真空にすることで完全に外部と遮蔽される。

ブラックホールの大きさはまだ10のマイナス20乗センチメートル以下、電子顕微鏡でも捉えられない大きさである。ブラックホールの位置は、カロリメーターのモニター画面に映し出されるエネルギー分布で確認する。最も高いエネルギーレベルを表す赤の表示がブラックホールの中心点である。その位置は、LHCのトンネルの丁度真ん中辺り、高さ2メートル近辺にあった。

赤い点の周辺にはレコード盤のような円形のエネルギー領域が黄色で表示されている。ブラックホールに落ち込む物質が作る膠着円盤である。そして、この膠着円盤から垂直方向に向って、長いひも状のエネルギー痕が見られた。ブラックホールから噴出するX線のジェットである。ジェットの長さは数メートルにも及んでいた。もし、カプセルに効力があれば、密封と同時にこのX線放射が封鎖されるはずである。

カプセルの半球を支えた2台の作業車がトンネル内に入る。作業車は遠隔操作により、ブラックホールを挟むようにトンネルの両側から進入した。何しろ目に見えない極微の代物を手探りで包み込むのである。作業は、エネルギー分布のモニター画面を見ながら慎重に進められる。作業車は、ブラックホールがあると推定される位置まで、毎秒1センチメートルの速度でにじり進む。進めては止め、進めては止めを繰り返しながら、その都度僅かのズレを補正して前へ進める。

そしてついに、モニター画面の縁にカプセルの陰が映し出された。半球と半球の間の距離はわずか5ナノメートルである。後は、上下と左右の微調整を加え、最終的に両の手の平を合わせるように、ピタリと半球を合体させるだけである。モニター画面に映し出された半球の影は、まるで日食のように光り輝くエネルギーを徐々に遮蔽してゆく。そして最後は地平線の彼方に沈む太陽のように微かな光を残して、画面は真っ暗になった。

「やったー。成功だ。X線ジェットが消えたぞ。」

その瞬間、モニター室に歓声が上がった。

「大成功だ。放射能の漏れは完全に止まった。」

つい先ほどまで、赤々とモニター画面を照らしていたブラックホールのエネルギー痕は完全に遮蔽され、画面上を暗闇が支配した。

「カプセル内の圧力もどんどん下がっています。」

オペレーターの報告が続く。カプセル内の空気は瞬時にブラックホール内に飲み込まれ、カプセルの中はあっという間に真空になる。中が完全に真空となったカプセルは、外部からの圧力により密着させられ、ブラックホールは完全に封印された。


その頃、研究所内は別の意味で大騒ぎとなっていた。公平とケイトの論文が所内LANのホームページ上に掲載されたのである。わずか数ページの短い論文であったが、それが百年来、幾多の物理学者を悩ませ続けてきた問題に決着をつける世紀の出来事であることに、意のある物理学者たちはすぐに気付いた。

「しまった。」

ホームページを見た研究者の舌打ちする音があちらこちらで聞こえた。コロンブスの卵とはまさにこのこと。こんな単純な理論がなぜ今まで世界中の著名な物理学者たちに発見されなかったのか。

公平とケイトの論文は、なぜこの世界が、この宇宙が存在するのかを単純な公式で説明していた。

理屈は極めて簡単である。

「1-1=0」

小学校1年生の算数である。しかし、この数式は注意深く観察するとこうも書ける。「0=1+(-1)」、すなわち、ゼロからプラス1を生み出すためには、マイナス1が同時に生まれなくてはならない。道理といえば道理である。理屈といえば理屈である。こんな単純なことが世紀の大発見に結びついた。

この宇宙は「無」から生まれたというのは今ではもう常識になっている。針の先よりもさらに何十桁も小さい目に見えない世界が、インフレーションと呼ばれる急膨張を起こし、そしてかの有名なビッグバンによって灼熱の火の塊となって宇宙は生まれた。

しかし、ちょっと待った。どんなに高温、どんなに高密度に押し縮めても、数千億個もあるといわれる銀河が針の先よりも小さい空間から生まれ出るなどという話は、馬鹿げている。手品か何かでもない限り、地球1個ですら創り出すことなど不可能である。

でも、マイナス1を導入すれば、すべてはかたがつく。全く何もない世界からでも、マイナス1があれば間単にプラス1は作られる。

鏡のように真平らな水面も石を放り込むと波が立つ。波は必ず山と谷を作る。山だけの波、谷だけの波など存在しない。量子論の世界も同じである。我々が住む世界、そう、あなたのすぐ鼻の先の空間にも「ヒッグス場」と言われるフィールドがある。ヒッグス場は、この水面のように絶えず揺れ動いている。それを感じられないのは別にあなたが悪いわけではない。人間の五感では絶対に感じることができないほどの微細な揺れに過ぎないからである。

しかし、このヒッグス場が、この世界を創り出していることだけは忘れてはならない。この世にある一切のモノ、身の回りにある水や土は言うに及ばず、この地球や太陽、そして天に輝くあまたの星々や銀河、その全てはこのヒッグス場に浮かぶ泡沫のようなものである。

我々が住む世界は、電荷がプラスの陽子(正確には電荷が中立の中性子も含む)と電荷がマイナスの電子でできている。電荷がマイナスの反陽子や電荷がプラスの陽電子でできた物質は我々の世界(宇宙)には存在しない。

別の言い方をすれば、我々の世界はヒッグス場が創り出す波の山の部分だけでできており、谷の部分が全く存在しないのである。だからこそ波は打ち消し合うことなく存在し続けていられる。不思議である。あなたはこの不思議をどう考えるであろうか。

宇宙創生の過程では、陽子(プラス1)が生まれるときに、同時に同じ数だけの反陽子(マイナス1)が創られたと考えられている。ゼロからプラス1が生まれるにはマイナス1が同時に生まれなければならない。波の山が生まれるときには、同時に谷が生まれなければならないのと同じである。これを量子論の世界では「対生成」という。このことは、現実に粒子加速器の実験でも確認されている。

本来なら、対生成で生じた陽子と反陽子は、生まれた瞬間にすぐに合体して消える運命にあったとされる。これを「対消滅」という。波の山と谷が一瞬の後に打ち消し合うのと同じで、プラス1とマイナス1は常に瞬時に合体してゼロになるはずであった。

ところが、わずかに対称性が破れていたため、反陽子だけが消え、陽子だけが残った。だからこそ、今日の宇宙が存在するとされた。しかし、そんな膨大な量の反陽子が本当に消え去ったのであろうか。そして、消え去ったのだとすれば、なぜ消えたのは反陽子であって、陽子ではなかったのか。陽子だけが消えて、反陽子だけが残っていても、おかしくはなかった。反陽子は一体どこへ消えたのか。

公平は、反陽子が消えたのではなくて、エクストラ・ディメンジョンの方向に隔離されているにすぎないと考えた。対称性が破れるとは、反陽子が壊れることを意味するのではなく、別の次元にその身を隠すことを意味するものだと公平は考えたのである。

公平の理論を裏付ける証拠がこの宇宙に存在する。宇宙に満ち溢れるダークエネルギーこそ、それを物語る重要な証拠である。ダークエネルギー、別名「真空のエネルギー」と呼ばれる謎のエネルギーは、今我々が存在している宇宙にある物質の総量からだけでは説明できない。この宇宙に存在する銀河の全てを足し上げても、宇宙全体のエネルギー総量にはるかに足りないのである。

この不思議を説明するためには、対称性は破れていなかったと仮定するしかない。公平は、この理屈をシルトゼーで水鳥が水面から消えた瞬簡に思いついた。そう、水鳥は消えたのではない。消えたように見えて、実は水の中という別の世界(次元)に水鳥はいた。そして水鳥が水の中で動き回ることで生み出されるエネルギーは水を伝わって水面に微かな波を作る。我々は、この波を見て水の中(別の世界)に何かがあることを知る。ダークエネルギーこそが、エクストラ・ディメンジョンがあることを、そしてそこに隠された膨大な量の反物質があることを示す証拠なのである。

公平のレポートが発表されて後、研究所の中は大騒ぎとなった。同じ研究所の中で、とんでもない大事件が起きていることなど誰一人として知る由もなく、人々はこの世紀の大発見に酔いしれ、賞賛し、そしてある者は眠る時間も忘れて反論探しに血眼になっていた。

しかし、この公平の発見した理論こそ、かねてより公平が危惧していた事態を現実に招来させ、そして全人類の運命をも大きく変えてしまうものになろうとは、当の本人もまだ全く気付いていなかった。



4.脅威の力


3日後、CERN主査官室。

ホルムシュタイン主査官、ミシェル主任研究員他、数人の幹部が密かに集まり、カプセル内に閉じ込めたブラックホールをどう処分するかの議論が行われていた。

「それは、危険すぎる。」

「いや、ブラックホールは今この瞬間も成長を続けている可能性がある。我々の手に負えるうちに、ロケットを使って打ち上げ、宇宙のかなたへと送り出すしか方法はない。」

「もし打ち上げに失敗したら。それであの危険極まりない物体が大西洋のど真ん中に沈みでもしたらそれこそ取り返しのつかないことになる。」

議論は、延々ともう5時間以上も続けられていた。世界の物理学の最高権威が何人も顔をつき合わせて議論しても結論を引き出せないでいた。それもそのはず、何しろブラックホールなる物体を初めて目に見える至近距離で捉えたのである。

これまでブラックホールと言えば、何億光年も離れた遠い宇宙のかなたの天体と思われてきた、いやその存在すら、間接的に得られる観測情報から推測されてきたに過ぎない。そんな難物がこの地球上に突然現れたのである。

相手は全く未知の物体である。たとえ目に見えない極微の大きさでも、一体どのような性質も持ち、これからどのように成長していくのか、あるいは消滅していくのか、それすらも分かっていない。そんな代物を、この研究所からトラックで運び出し、飛行機に乗せて打ち上げ基地に運ぶ、それだけでもどんな危険が伴うか分からない。ましてやロケットで打ち上げるなど、常識のある科学者なら考えも及ばない。

「でも、このまま放置して、ブラックホールがコントロール出来ないレベルまで成長したら。」

「しかし、カプセルの中は今、真空状態だ。物質の供給が止まれば、ブラックホールの成長も止まるのではないか。」

強硬論のミシェル主任研究員に対して、ホルムシュタイン主査官は、あくまで慎重意見で通した。

そもそも研究所内で起きた規律違反により重大な危険を招いてしまった。今回のことが明るみに出ればCERNの存続自体がEU委員会の中で議論の俎上に上がるであろう。あまたの物理学者たちが夢にまでみたLHCによる実験は完全に頓挫するばかりか、これまで注ぎ込まれた何十億ユーロという予算もすべて無駄金になりかねない。出来れば極秘裏に事態を収拾し、何よりこの研究所を守らねばならない。そのためには、何としてもこの難物を研究所内で処理しなければならない。

議論に決着が付かないまま、1週間が過ぎた。そして、この1週間という時間の経過が結局致命傷となった。


「Dファクトリーで強力なX線検出。」

CERNに再び警報音が鳴り響いた。

「一体どういうことだ。ブラックホールは完全に密封したはずだが。」

ホルムシュタイン主査官以下のEUチームは足早にDファクトリーのモニタールームへと向かう。しかし、そこでは既に恐ろしい事態が進行していた。

ブラックホールを包み込んでいたはずの鉛製のカプセルは無残にも歪み、わずかに開いた裂け目からブラックホールから放射されるエネルギーの光が、今度はハッキリと肉眼でも確認できた。

「信じられん。厚さ20センチの鉛製のカプセルが。何ということだ。」

今、人類は初めてブラックホールの恐ろしく凄まじい力を目の当たりにした。アインシュタインの予言どおりブラックホールの周囲では空間自体が歪められ、その空間に巻き込まれた物質は、鋼鉄だろうが鉛だろうが、いやそれだけではない、この地球上で最も固いとされるダイヤモンドでさえ、長いゴムひものように引き伸ばされ、やがては渦を巻いてブラックホールの中に吸い込まれていく。

空間が歪むとは一体どういうことか。膨らんだ風船を両手で捻じ曲げるところを想像して欲しい。風船は手の力で簡単に形が変わる。風船の中に水が入っていれば、水も同じように形を変える。

同じように、神の手は人間の手の何兆倍の何兆倍の何兆倍もの力で空間を捻じ曲げる。同じように空間の中に入っている物体も全て捻じ曲がる。そしてブラックホールに落ち込むときはバラバラになり素粒子レベルの粉になっている。

「ここは、危険です。すぐに緊急退避を。」

対策チームの1人が叫んだときは、時既に遅かった。

「ギャー」

研究員の1人をX線ジェットが直射し、研究員は床に叩きつけられた。

「シールド作動。」

その声と同時に、Dファクトリーのモニタールームを閉鎖するシールド扉が下がり始めた。扉が下がり切る前に、一同が目にしたものは、大きく歪み、引き伸ばされて、ブラックホールの膠着円盤の中へと引きずり込まれていく鉛製のカプセルの最期の姿であった。

「おい、しっかりしろ。」

ホルムシュタイン主査官が負傷した研究員を助け起こそうとしたが、ミシェル主任研究員がそれを制止した。

「主査官、お下がりください。二次被曝の危険があります。」

強力なX線照射を受けた研究員の肩は無残にも焼け爛れ、赤黒い肉がのぞいていた。周囲には溶けた被服と焼け焦げた肉の匂いが立ち込めた。

「メディカル、すぐにDファクトリーへ。負傷者1名、X線の大量被曝。」

素早くメディカルルームに連絡を取るミシェル主任研究員。軍隊経験のあった彼は、放射能被曝に対する訓練も受けていた。このような場合、大量の放射能を浴びた負傷者の体には残留放射能が滞留している。うかつに素手で触れば確実に二次被曝に遭う。かわいそうだが、負傷者は防護服を着た救護斑が到着するまで、放置するしかない。

主査官以下、Dファクトリーに入った10名の研究員は、ミシェル主任研究員の誘導に従いファクトリーの外に出て、メディカルチームの到着を待った。


その2日後、公平とケイトがホルムシュタイン主査官室に呼び出された。まだ研究所内で起こっている事態を知らされていない2人は、てっきり例の論文のことだと思った。2人が研究所のホームページの掲示板に張り出した論文は、最初は懐疑の目で読まれていたが、今では日増しにアクセス件数が増え、所内に限らず全世界を巻き込んだ論争を引き起こし始めていた。主査官も当然目を通しているはずであった。

「すごいわ。コーへイ。主査官が直々に及びなんてありえない。」

ケイトは興奮冷めやらぬ声で、何度も公平の方を振り向きながら主査官室へと歩みを進める。

ホルムシュタイン主査官と言えば、ノーベル物理学賞を10個もらってもまだ足りないと言われるほどの大科学者である。千人を超える優秀な物理学者が集まるこの研究所で、まだ学生上がり程でしかない無名の一研究員が直に主査官と話しをするなど普通では考えられない。

「どうしたの、コーヘイ。そんな浮かない顔をして。嬉しくないの。」

ムッツリと押し黙ったまま歩みを進める公平に向って、ケイトは覗き込むように声をかけた。

「いや、ちょっと、嫌な予感が。」

公平は、ボソリとつぶやいた。公平は何となく胸騒ぎを覚えていた。研究所の正式な許可もなく、まるでブログに書き込みをするぐらいの気持ちで論文を発表した。そのことを咎められるのか。いや、それが問題だとすれば、当然査問委員会を通じて日本の主査官に連絡があるはずである。

しかし、今回はEU代表のホルムシュタイン主査官から直々に呼び出しがあった。そして、何よりも主査官から、今日主査官室で面談することは極秘にしてくれとの要請もあった。論文についての議論を交わすだけなら、何もそこまで大げさにする必要はない。楽天的なケイトに対して、いつも冷静でどちらかというと悲観論者の公平にとっては、今回の呼び出しがどこか普通ではなかった。

主査官室は、EUチームの活動域であるAファクトリーの一番奥にあった。2人は緊張した面持ちで主査官室のドアをノックした。

「カムイン。」

中から声がして、電解錠の外れる音がしたかと思うと、ドアはスッと開いた。

「あっ。」

一瞬、ケイトの声が上がった。てっきり主査官1人と思っていた2人にとって、ミーティングテーブルに居並ぶ10人ほどの蒼蒼たる面々を目の前にして、足がすくんだ。世界物理学研究会でもゲストスピーカーに選ばれそうな面子が何人もいる。公平にも見覚えのある顔がいくつもあった。一体、今からここで何が始まるのか。

「いやー、よく来てくれた。まあ、座ってくれたまえ。」

中央に座っていたホルムシュタイン主査官が2人に席をすすめた。昨年の世界物理学研究会で見たときは壇上のスピーカーであった主査官が、今日は手を伸ばせば届きそうな場所にいる。テカテカと輝く頭に、立派な口ひげは典型的なドイツ人の風貌である。主査官の右隣にも見覚えのある顔があった。ぼさぼさの頭に鋭い眼光、ミシェル主任研究員である。

予想外の状況に2人の緊張は一気に高まった。

「君たちの論文、読ませてもらったよ。いやー、素晴らしいの一言に尽きる。」

まず、ホルムシュタイン主査官の口から賛辞の言葉が出た。やはり例の論文のことであった。しかし、油断は禁物。この世界では、どんな駄作にもまずは儀礼的な賛辞が送られる。その後に、「しかし」という言葉が来る。2人は、その言葉を受けるべく身構えた。

「まあまあ、そう固くならんでくれ。今日は君たちの論文を吊るし上げにするために来てもらったんじゃない。」

2人は、拍子抜けした。もちろん論文の中味に自信はある。しかし、これだけの蒼蒼たる面々に囲まれて質問攻めにあえば一たまりもない。いくらディベートが得意のケイトでもお手上げである。それが、どうやらそういうことではないらしい。

「実は、今日来てもらったのは、君たち2人の知恵を借りたくてね。」

主査官の口から意外な言葉が出た。知恵を借りる? IQ200を軽く超えるような面々が10人もいて、その上に何の知恵が要るのか。

しかし、次の主査官の一言で2人の人生はすっかり狂ってしまうことになる。

「そ、それって。本当なんですか。」

2人は顔を見合わせた。主査官はこれまでの経緯をかいつまんで2人に話した。物理学者の端くれならば、その先を聞かずとも、今回の事態の重大さとこれから起こるであろうことは簡単に予想できた。

「X線を遮蔽して、カプセルの中を真空にすればブラックホールは消えるかもしれないと考えたが、少し考えが甘かったようだ。やつはカプセルそのものも捻じ曲げ、引き伸ばして、飲み込んでしまった。そして、今も成長を続けている。どうやら、こいつは我々の知る物理学では扱えん代物らしい。」

誰もが、その出現を予想しながら、すぐに蒸発して消えてしまうと、その危険性に考えが及ばなかった。それどころか、アメリカチームは、それを軍事目的に利用しようと考えた。まさに天に向って唾する行為であった。

公平は、早くからその危険性に気付いていた。仮に対称性が破れていなかったとしたら、そしてエクストラ・ディメンジョンに無数の反物質が隔離された並行宇宙があるとしたら、ブラックホールを造ることは、2つの世界を隔てている壁に穴を開けることになる。それは自殺行為そのものである。

「君たちの論文があともう少し早ければ、今回の事態は防げたかもしれない。それが残念だ。」

主査官は、大きな嘆息を漏らした。公平もケイトも押し黙ったまま、石のように固くなっていく。仮に2人の理論が正しければ、この地球に、いやそんなものでは済まない。この太陽系全体あるいは天の川銀河全体にとっても大変な未来が待ち受けていることになる。

ブラックホールは宙に浮くただの穴ではない。今我々が住む世界とエクストラ・ディメンジョンにある別の世界とをつなぐへその緒のようなものである。へその緒を切らない限り、新生児を母親から切り離すことが出来ないのと同じで、ブラックホールだけを包み込んでどこかへ運ぶなどということは不可能なのである。それは、エクストラ・ディメンジョンにある別の宇宙全体を引っ張ろうとするのと同じだからである。

「で、率直に聞くが、何かいい知恵はないか。この化け物のような穴を塞ぐいい方法は。」

公平とケイトは顔を見合わせた。これだけ居並ぶ蒼蒼たる世界の頭脳を前にして、知恵をくれといわれても、すぐには考えが思いつかない。公平は、事の重大さとこれから予想される大惨事のことで頭の中が真っ白になり、考えの整理が付きかねていた。

1分2分と沈黙の時間が経過していく。主査官の唇が微かに動いたと思ったその時。

「1つだけ、可能性があります。」

公平の口が開いた。

「反陽子の塊をつくり、それをブラックホールの中心に向けて打ち込めば、ブラックホールを蒸発させることが出来るかもしれません。」

「は、反陽子の塊だと。バ、バカな。」

ミシェル主任研究員が怪訝そうな顔で尋ね返した。いくら物理学会の天地を揺るがす新しい理論を発見したといっても、公平はまだ学位も正式に得ていない新米研究員である。会議室の中に冷ややかな嘲笑の囁きが上がった。どんな素晴らしい理論も、所詮は理論、机上の空論であって、実証がなされなければ意味はない。

「まあ、まあ、その先を聞こうじゃないか。」

ホルムシュタイン主査官が場のざわつきを抑えた。

「私たちの理論が正しければ、ブラックホールの特異点より向こうは、エクストラ・ディメンジョンにある反陽子ばかりで出来た別の宇宙と繋がっています。ご存知のように私たちの世界の物質は、全て電荷がプラスの陽子と電荷が中立の中性子ばかりで出来ています。その物質がブラックホールに吸い込まれれば、別の世界の反陽子と出会い、どんどん対消滅を起こして消えてゆきます。この連鎖は、陽子か反陽子のいずれかが全てなくなるまで続くと考えられます。」

ここで、少し専門的な説明が必要であろう。ブラックホールの特異点とは、ブラックホールに吸い込まれた物質が最終的にたどり着く1点である。理論上は、特異点では密度と重力が無限大になると言われえいる。物質をどんどんと押し縮めていくと、その密度はどんどん高くなっていく。ブラックホールの中では地球が角砂糖ほどの大きさに押し縮められる。特異点はそれをさらに小さく押しつぶす。密度無限大である。

しかし、ちょっと待った。いくら重力が強くても、現に存在する地球規模の物体を針の先より小さい1点に押し込めるなど、どう考えても何かがおかしい。神の手が実在したとしても、どこか変だ。

しかし、マイナス1があれば話は変わってくる。公平の言うとおり、ブラックホールの中で陽子と反陽子が対消滅を起こしているとしたら、ブラックホールは無限に物質を吸い込めることになる。

特異点は、陽子と反陽子が最終的に出会い消滅する場所なのである。

「この対消滅をどこかで止めることが出来れば、ブラックホールはエネルギーの供給を断たれ縮小してゆくでしょう。反陽子の塊をほんの一瞬でもブラックホールの中に送り込めれば、電荷が同じである向こうの世界の反陽子と反発しあい、対消滅の連鎖は止まると考えられます。」

公平は自信を持って、自らの理論を説明した。公平の理論は、要するにブラックホールの穴を反陽子ばかりでできたふたで塞ぐということに他ならない。バスタブの栓を抜いたら、当然バスタブの中の水は渦を巻いて排水管に吸い込まれていく。それはバスタブの中の水が全てなくなるまで止まらない。でも、バスタブの栓を元に戻せば、渦の吸い込みは止まる。理屈は簡単である。

しかし、大きな問題があった。

「君の理論はよくわかった。ただ、問題はそれだけ大量の反陽子の塊をどうやって作り出すかだ。君も知っての通り、ここのLHCで反陽子の生成実験を繰り返したが、出てきた反陽子は10のマイナス10乗秒後には、陽子と合体して対消滅を起こしてしまう。それを塊にしてブラックホールの中に打ち込むなど、今の我々の技術では到底不可能だ。」

ホルムシュタイン主査官は、公平の理論を肯定してはくれたが、反陽子の塊をブラックホールの中に打ち込むという途方もないアイデアは、今の人類にとってはまさにSFの世界の話であった。主査官は、腕組みをしたまま考え込んでしまった。この男の言っていることは正しい。正しいが絶対に不可能だ。どんな早撃ちガンマンでも10のマイナス10乗秒の瞬間を捉えて弾を発射するなど、神でもない限り出来ない。

ミシェル主任研究員も話にならないとばかりに、斜に構えて、嘲笑の笑みを浮かべていた。彼にしてみればじくじたる思いがあった。フランス政府が国を挙げて送り込んだカプセルが無残にもブラックホールに飲み込まれ、真空状態でブラックホールが消滅すると主張した自説も脆くも崩れ去った。そんな難物を、日本のしかも無名の一研究者が簡単に消滅させでもしたら、自身の沽券にもかかわる。

しかし、公平は諦めなかった。

「確かに解決すべき問題はあります。ただ、全く策がないわけではありません。アインシュタインの一般相対性理論によれば、重力の大きな物体の近くでは時間の進み具合が遅くなるはずです。」

「あっ。」

ミシェル主任研究員の喉から小声が漏れた。一流の物理学者ならば、その先を聞かずとも公平が何を言おうとしているのか、一瞬のうちに理解できたはずである。

アインシュタインは、相対性理論で、光速に近い速度で進む物体では時間の進み具合が遅くなると解いた。しかし、彼は同時に重力の大きな物体の近くでも同様のことが起きると予言した。このことは既に実証され、実用化されている。地球上と人工衛星とではごく僅かであるが時間の進み具合がずれる。GPSはこのわずかの時間のずれを補正しないと正確に位置を示せなくなる。これは、もはや理論ではなく現実なのである。

だとすれば、ブラックホールの事象の地平線の近くでは大きな重力により時間の進み具合が遅くなっているはずである。

公平の説明が続く。

「粒子加速器で光速の99.99%まで加速した中性子同士を、ブラックホールの事象の地平線から10のマイナス5乗センチメートルのところで衝突させれば、反陽子が対消滅を起こすまでの時間を3秒程度にまで引き伸ばすことができると思われます。その瞬間に、その塊を強力な電磁場を使ってブラックホールの中に打ち込むのです。」

公平は、今まさに自らが考えた理論を実証して見せようとしていた。大体、物理学の世界では理論が実証されるというのは、理論が発見されて何十年も後になってということが多い。ノーベル物理学賞の受賞者に高齢者が多いのもそのせいである。若くして斬新的な理論を発見したとしても、それが生きている間に実証されるという保証はどこにもない。

公平は、運がよかったのであろうか。もし、この方法でブラックホールを消滅させることが出来たなら、ブラックホールの中で対消滅の連鎖が起きているとする公平の理論が実証されることになる。

「そうか、分かった。やってみよう。」

ホルムシュタイン主査官は、軽く頷きながら静かに会議の終了を告げた。



5 非情


準備はすぐに始められた。まず、強力な電磁場を作り出すためのEM装置がDファクトリーに運び込まれた。Dファクトリーのモニタールームは既に強い放射線に汚染されているため、作業はシールド越しに遠隔操作で行われる。ファクトリー内のモニター画面でブラックホールの状況を確認しながら、作業は慎重に進められる。万が一にでも、EM装置がブラックホールの膠着円盤に捉われるとあの鉛のカプセルと同じ運命が待っている。

「オーライ、オーライ。もう少し右だ。よーし、そのあたりでいいだろう。」

公平の指示の下、ケイトと数人のスタッフたちが忙しく立ち働く。ことは1分1秒を争う。この瞬間にもブラックホールは成長を続けている。時間が過ぎれば過ぎるほど、成功の確率は低くなる。

「コーヘイ、準備はどうだ。」

その日の午後、ホルムシュタイン主査官自らが準備の状況の視察に現れた。

「順調です。この調子であれば、明日にでも実験が始められると思います。」

「そうか。よろしく頼む。この研究所の、いやここだけではない、全人類の運命が君たちの双肩にかかっている。」

主査官の激励の言葉に、公平とケイトは鳥肌が立つのを覚えた。まさに主査官の言うとおりであった。もし、公平の理論が間違っていたら、そしてこの実験が失敗したら、地球はおろか太陽系の全てが跡形もなく消えてしまうことになるかもしれない。公平とケイトは3日続きの徹夜の作業を敢行した。


3日後、対策チームの一団が見守る中、公平たちの実験が始められた。

「出力装置よし、カロリメーターよし、EM装置問題なし、モニター画面感度良好。」

モニタールームの隣室の設けられた臨時のオペレーションルームに、公平の声が響く。

「準備が完了しました。まずは、3Tev(テラ電子ボルト)から始めます。」

公平の合図に、ホルムシュタイン主査官が静かに頷いた。

「中性子ビーム発射。」

公平が出力装置のタッチパネルに触れた次の瞬間、カロリメーターに微かな閃光が走った。LHCから発射された中性子のバンチがブラックホールのすぐ脇で衝突し崩壊した。次の瞬間、ケイトがEM装置を操作し強力な電磁波を発生させる。本来なら、中性子の衝突で対生成を起こした陽子と反陽子は一瞬のうちに対消滅を起こして消えるはずであったが、公平の予想した通り、ブッラックホールの近傍では時間の進みが遅いため、反陽子の消滅までにわずかばかりの猶予が生じた。

ケイトは、その瞬間を捉えて電磁波を発射する。これなら早撃ちガンマンでなくてもOKである。強力なマイナスの電荷を負荷された反陽子は、その反発力でブラックホールの中へと照射された。まばゆい閃光と共にカロリメーターにそのエネルギーの流痕が映し出された。

ゴクリ。その瞬間を見守る一団の誰からともなく喫唾する音が聞こえた。果たして結果は…。

「ブラックホールのエネルギー量3%低下。」

オペレーターが読み上げる数値にドッと歓喜の声が沸いた。この瞬間、公平の理論が証明された。

人類が始めてブラックホールをそのコントロール下に置いた瞬間である。物理学の世界がひっくり返った。何百年に1度あるかないかの大発見が実証された。まさに歴史的瞬間であった。

反物質の塊をブラックホールの中に打ち込むことによってブラックホールのエネルギーレベルが低下したということは、ブラックホールの事象の地平線の向こう側で対消滅が起きていることを証明したことを意味する。こちら側から送り込んだ反物質と向こうの世界から来る反物質が反発しあい、対消滅が部分的に制止されたのである。

「エネルギーレベルを5Tevに上げて続けます。」

公平は、興奮冷めやらぬ声で次の中性子ビームの照射に入った。再び閃光が輝き、それに呼応するようにケイトの指が動く。

「エネルギーレベル5%低下。」

オペレーターの声が響く。今度は、カロリメーターに表示されたブラックホールの色もはっきり変わった。中心辺りを赤々と染めていたエネルギー分布の色が僅かにオレンジ色になり、エネルギーレベルの低下はモニターでもハッキリと確認できた。

「大成功だ。」

ホルムシュタイン主査官の興奮した声がオペレータールームに響く。最初は半信半疑だったミシェル主任研究員もゆっくりと、しかし相変わらず無愛想な表情で賛辞を送る拍手をした。

その後も、反物質の投入は続けられブラックホールのエネルギーレベルはどんどん低下していった。


しかし…。その先には、恐ろしい落とし穴が待っていた。この未知の怪物は、予想だにしていなかった反撃を開始してきた。

「だめです。エネルギーレベル20%で、変化なしです。」

オペレーターの声が空しく響いた。先ほどまで順調に減っていたブラックホールのエネルギーレベルであるが、あと20%というところで急速に減少に歯止めが掛かった。

「一体どうしたんだ。先ほどまでは順調にエネルギーレベルが下がっていたというのに。」

ホルムシュタイン主査官が、心配そうにカロリメーターの表示を覗き込む。ブラックホールのエネルギーレベルを表示した万華鏡のようなグラフからは赤い色は既に消え、エネルギーレベルの低い黄色や黄緑色の表示が拡大していた。しかし、そこから先はいくら中性子ビームを照射しても目立った変化が現れなくなった。

公平は、腕組みをしたまま考え込んでしまった。

「ひょっとすると、中性子コアかもしれません。」

「何? 中性子コアだって。」

ホルムシュタイン主査官の顔色が変わった。

「済みません。まだ私の理論も完全には確立されているわけではありません。まだお話していなかったことが…。」

「話していなかったこと? そ、それは大事なことなのか。」

「いえ、まだ私にも何とも。主査官、主査官もご存知のように、超新星爆発の後には中性子星が生まれることがありよますよね。」

ホルムシュタイン主査官は、そんなことは百も承知とばかりに、黙って頷いた。

超新星爆発とは、太陽の百倍もの質量を持つ巨大な恒星が燃え尽きる時に起きる。星は、水素やヘリウムを燃料にして光り輝いている。しかし、どんなに膨大な量の水素やヘリウムもいつかは燃え尽きてなくなる。その時、星々は自らの重力に耐えかねて急激に爆縮を起こし、その反発力で太陽の何千倍という明るさで光り輝き最期の瞬間を迎える。これが超新星爆発である。

この超新星爆発の後に残されるのが、ブラックホールか中性子星である。そのいずれになるのかは、死に行く星の質量の大きさによるとされてきた。すなわち、星の質量が十分に大きければブラックホールになり、小さければ中性子星になる。中性子星は、中性子が極度に圧縮され凝り固まった残骸物である。

公平は、ここで新たな仮説を提示した。そして、その仮説こそがわが地球の運命を決定付ける最終理論となった。

「中性子星は、ブラックホールが蒸発した後の残骸物と考えられます。」

「何だって。中性子星がブラックホールの残骸だと。」

「そうです。ブラックホールには陽子のほかに中性子も吸い込まれてゆきます。陽子は別の次元からやってくる反陽子と対消滅を起こして消えてゆきます。でも電荷が中立の中性子だけは一緒になるパートナーがいないため、ブックホールの中に閉じ込められます。そして、陽子と反陽子の吸い込みが止まった後、固く凝縮された中性子だけが残ると考えられます。」

「ふーむ。なるほど、中性子星というのは、そういうことだったのか。」

ホルムシュタイン主査官は、公平の理論を認めるかのように大きく頷いた。

物理学者というものは、対称性をことのほか重要視する。対称的なものは美しいからである。我々人間の体も心臓を除けば完全に左右対称である。羽を広げた蝶はこの上もなく美しい対称性をなしている。もし蝶の羽の対称性が少しでも破れていたら、そして左右の羽に極微のアンバランスがあったなら、蝶は美しく空を舞うことすらできないであろう。対称性が美しいとはそういうことなのである。

「蝶の羽は対称的で美しいものです。もしエクストラ・ディメンジョンをまたいで両方の世界を同時に見ることが出来たなら、それは羽を広げた蝶のように見えるでしょう。その姿は、まるで私たちの物質宇宙と向こうの世界にある反物質宇宙を表現しているかのようです。でも、この2枚の羽を繋げる部分には蝶の体の本体があります。

さなぎから羽化する蝶を写したビデオを逆回しするところを想像してみてください。2枚の羽はどんどん小さくなって蝶の体の方へと縮んでゆくように見えるはずです。でもどんなに縮めても最後にはさなぎ姿の蝶が残ります。羽がなくなった蝶の姿は醜いものです。地面を這いずり回るただの虫けらに戻ります。でも、その部分にこそ羽を動かす蝶の筋肉がありエネルギーが存在しているのです。」

ホルムシュタイン主査官、ミシェル主任研究員、そしてケイトまでもが、この公平の斬新な考え方の意味を咀嚼し、理解しようとしていた。

「ということは、君の喩えを借りるなら、ブラックホールというさなぎの中には、中性子ばかりで出来た蝶の体の本体が隠されているということか。」

「恐らく…。そして、この中性子コアがあるためにブラックホールを完全に閉じ切ることは出来ないのかも知れません。」

公平が、大きな嘆息を漏らそうとしたとき、オペレーターの叫び声が上がった。

「ブラックホールのエネルギーレベルが上昇し始めています。」

その場にいた全員の視線が、カロリメーターのモニター画面に釘付けになった。黄色がオレンジ色に、緑色が黄色にと、万華鏡の色がどんどん変化していく。

「来るぞ。全員、即刻退避。急げ。」

その様子を見ていたミシェル主任研究員が悲鳴に近い叫び声を上げた。しかし、時すでに遅し。その瞬間、Dファクトリー内で大爆発が起きた。ブラックホールは、それまで押し込められていたエネルギーを一気に吐き出すかのように、強烈なX線ジェットでファクトリー内のシールド壁を吹き飛ばした。

「緊急警報発令、緊急警報発令。警戒レベル5。警戒レベル5。Dファクトリーを完全封鎖。繰り返すDファクトリーを完全封鎖する。」

CERN全館に警報音が高らかに鳴り響いた。警戒レベル5は、原子力発電所でいえば炉心のメルトダウンに相当する。モニタールームだけを隔離するシールド壁などもはや何の役にも立たない。こうなると放射線防護服を身に着けていても1分が限度である。それ以上の被曝は命にかかわる。

全員がDファクトリーの外へ向かって走る。

「ブー、ブー、ブー」という警報音が鳴り響く中、ファクトリーの入り口では既に厚さ20センチのコンクリート製の扉が下がり始めていた。研究所の中は、こうした放射能漏れ事故に備えて、各ファクトリーを封鎖するための隔壁があちらこちらに張り巡らされており、放射能検知器が放射能を検知すると、中央の制御室にあるコンピューターから隔壁を作動させる指令が自動的に発せられる。

一旦隔壁が下がってしまうと、内側の放射能レベルが下がるまで2度と隔壁は上がらないように設計されていた。万が一避難が遅れても、手動で隔壁を上げることは、研究所全体あるいはこの地域全体に甚大な放射能汚染をもたらしかねないからである。

非情でも。逃げ遅れた者は見捨てるしかない。ホルムシュタイン主査官に続き、ケイト、公平、その他の所員が滑り込むように扉の下を潜る。その間にも隔壁の高さはどんどん下がってゆく。後30センチあるかないかという間隙をミシェル主任研究員が転がり込むようにして潜り抜けた。次の瞬間、隔壁はゆっくりと最後の隙間を閉じた。

「全員無事か。」

ミシェル主任研究員が防護用ヘルメットを外しながら、全員に声をかけた。公平も、ホルムシュタイン主査官も、他の所員も、ホッと安堵の嘆息を漏らしながら、次々とヘルメットを外した。

しかし…。1人だけヘルメットを外さない人間がいた。もう防護隔壁は完全に下がっている。被曝の危険性もない。なぜ、その人物はヘルメットを外さないのか。全員の視線がゆっくりとその人物に注がれたとき、その人物はドサリと床の上に崩れ落ちた。その人物の背中からは焼け焦げた防護服の匂いが立ち上がり、赤黒く火傷した皮膚がチラリと見えた。

「ケ、ケイト。」

駆け寄ろうとする公平。しかし、その間に割って入ったのはミシェル主任研究員であった。

「は、離れろ。二次被曝の危険がある。」

「でも、ケイトが、ケイトが。」

叫ぶ公平を腕ずくで下がらせたミシェル主任研究員は、すぐさまメディカルルームへ伝令を発した。


メディカルルームの隔離室のベッドでケイトは静かに眠っていた。二次被曝の恐れがあるため、放射線を通さない特別のガラスで仕切られた部屋で治療が続けられていた。部屋の外では、公平が医師からケイトの怪我の状況について説明を受けていた。

「火傷の方は、大したことはありません。しかし、X線の被曝量が我々の想像の範囲をはるかに超えています。」

「想像の範囲を超えている?」

医師の言葉の意味がよく理解できずに、公平はオウム返しのようにそのまま尋ね返した。

「そうです。少なくとも私の知る限りこれだけ大量の放射線を一度に浴びた患者の前例がありません。ですから、今後彼女の体がどのように変化し、そしていつまで持つのかも…」

「い、一体どういうことです。彼女は、彼女は…」

公平は、その先を聞こうとするが、心ははるか別のところにあった。この先を聞いてはならない。聞けば、きっと後悔する。彼の脳が自ずと拒絶反応を起こしていた。

「一言で言えば、原爆症ですよ。彼女は、通常のレントゲン検査で浴びる放射線の10万倍を超える量の放射線を一度に浴びてしまった。これは、広島の原爆の爆心地をもはるかに凌ぐ量です。」

「じゃあ、これから彼女はガンにかかりやすくなるとか。」

公平も物理学者の端くれ、重度の放射線被曝症の末路がどのように悲惨なものか薄々は理解していた。ただ、彼の心がまだ最後通告の言葉を受け容れる用意ができていなかった。

「いえ、そういうレベルの話ではなくて。大変申し上げにくいことですが、後、何ヶ月いや何週間もつかというレベルの話です。見た目には、彼女の火傷痕は大したことがないように見えます。しかし、細胞レベルで見れば、彼女の体細胞の30%はすでにDNAが破壊されていると思われます。」

『ガンマナイフ』、体の深部にあるガンを治療する装置である。強力な放射線であるガンマ線をミクロン単位で調節しながらガン細胞だけに照射して焼き切る。だからガンマナイフと呼ばれる。最新鋭のガンの治療方法である。仮に、このガンマナイフが無差別に人体を貫通するとしたら何が起きるのか。見た目には何の変化もない。ガン患者はほとんど痛みもなくガンマナイフ治療を受けている。

しかし、人間の体細胞のDNAは強力な放射線が貫通することでズタズタに破壊される。目に見えない極微のナイフが体中を貫通するのである。こうなると、もうこの細胞は分裂することができなくなる。細胞が再生されないため、個々の細胞が寿命を迎えるたびに、組織は少しずつ崩れて壊死していく。薬もない、治療法もない。患者は、組織が崩れるたびに、出血と強烈な痛みに苦しみながら、死を待つしかない。まさに生きながらにしての拷問である。

「今ある最高性能のMRIを使っても体細胞の1個1個までは調べようもありませんので、体のどこの部分が、いつ、どのくらいのペースで壊死してゆくのか予測が出来ません。ですから…。」

「わ、わかりました。もう結構です。」

公平は、ゆっくりと医師に背を向けた。

「なぜ、ケイトなんだ。なぜ、俺でなくて、ケイトなんだ。」

公平は、わずか0.1秒差の非情な運命のいたずらを恨んだ。あの時、わずか30センチでも自分のいた位置がずれていたら、X線ジェットの直射を受けたのはケイトではなく自分であったかもしれない。かわいそうに、ケイトは自分の身代わりになったのだ。

その時、公平は初めて自らの心の奥深くに芽生え始めたケイトに対する思いに気が付いた。それは、単なる研究パートナーに対するものではなく、もっともっと深い人間的なものであった。



6 滅亡への序章


その2日後、Aファクトリーにあるホルムシュタイン主査官室で再度の対策会議が開かれた。

「仮にムッシュ・コーヘイの理論が正しいとしても、私の計算では、エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙の大きさが地球規模より大きい確率は100万分の1以下、このCERNの研究所内で消失する可能性の方がはるかに高いと思われます。ここは焦らず、もうしばらく様子を見るのが最善かと思います。」

最初に口を開いたのはミシェル主任研究員であった。彼は、自信たっぷりに公平に視線を向けた。

確かに彼の意見にも一理あった。確率論である。宝くじでも高額の当選金が当たる確率は、はるかに小さい。一生買い続けても当たらない人の方がずっと多い。

マルチ・バース(多宇宙)理論では、今我々が住むこの宇宙は、高次元空間に無数に浮かぶ宇宙の一つに過ぎないと考えられている。その大きさは、プランク長さ(10のマイナス33乗センチメートル)のものから何億光年の広さを有するものまで様々である。原子レベルの大きさの宇宙は文字通り無限にあるが、地球規模以上の大きさを持つ宇宙となると存在する可能性もずっと小さくなる。今、Dファクトリーにあるブラックホールと繋がっている並行宇宙も十分に小さいかもしれない。いや、むしろその可能性の方がずっと大きい。

「誰か意見は?」

ホルムシュタイン主査官が意見を求めた。ミシェル主任研究員は反論があるなら言ってみろといわんばかりに正面に向って自信たっぷりの視線を向けた。誰も反論を述べそうにない。と言うよりも、今となってはブラックホールを人類が持つ科学知識の範囲で消失させる手立てはなくなっていた。まさに運を天に任せるよりほか術がなかったのである。

しかし、一番末席に座っていた公平が、ゆっくりと手を上げた。

「確かに、そうかもしれません。でも、問題なのは、仮に並行宇宙の大きさが十分に小さくても、地球に壊滅的な打撃を与える可能性がないとは言い切れないということです。」

ミシェル主任研究員は、またかという表情で挑戦的な視線を公平に向けた。それを遮るかのようにホルムシュタイン主査官が尋ね返す。

「ミスター・コーヘイ、一体どういうことかね。」

「流動性の問題です。地球は単なる物質の塊ではありません。大気もあれば、海洋もある。大陸もあれば、地下にはマグマもある。仮にブラックホールがDファクトリーのシールドを破るようなことになれば、まずは最も軽く、流動性の高い地球大気を吸い寄せ始めるでしょう。私の計算では、仮に並行宇宙の大きさが野球ボールほどの大きさでも、その密度が十分に大きければ地球の全大気を吸い込んでもまだ対消滅は止まらないでしょう。その確率は5%よりも大きいと思われます。」

場に居合わせた全員がざわつき始めた。仮に地球大気の全てが、いやその3分の1でもブラックホールに吸い込まれれば、地球はもはや生物の住めない環境となってしまう。

地球が我々にとって安住の地でありうるのは、全て大気のおかげである。大気は我々が呼吸するための酸素を供給しているだけではない。大気のおかげで有害な紫外線や宇宙線が遮られ、大気の温室効果のおかげで地球全体の平均気温が15度に保たれている。その大気が全て剥ぎ取られたら、地球はたちまち死の星となる。

「最悪の事態を想定して、我々はすぐにでも準備を始めるべきだと考えます。」

公平は、既に頭の中で人類滅亡の危機までを想定していた。もはや何物もブラックホールの成長を止めることは出来ない。あいまいな確率論に期待して無駄に時を過ごせば、取り返しのつかないことになる。

それからも議論は延々と続いた。このまま静観すべきとするミシェル主任研究員と対策を打つべきとする公平の主張にそれぞれ何人かの研究員が同調した。天才科学者が何人も顔を付き合せて何時間も議論が続いている。それでも結論が出ない。それは、事態が既に物理学の世界から政治の世界へと移ったことを意味していた。

「分かった。明日、緊急のEU首脳会議の招集を要請する。どうするかの判断は政治家に任せよう。」

ホルムシュタイン主査官が力なく会議の終了を告げた時、既に日が変わっていた。


その日の昼過ぎ、ケイトの体の残留放射能のレベルが下がり二次被曝の恐れが少なくなったとして、ようやく面会が許された。公平は、静かにケイトの病室に入った。

「ケイト、大丈夫か。」

「コ、コーヘイ。ありがとう。心配してくれて。」

公平は、ゆっくりとケイトのベッドの脇にあった椅子に腰を下ろした。ケイトは見たところ何の変わりもなかった。2日間食事をすることを制限されていたため、少しやつれた感じが出ていたことを除けば、3日前のケイトと同じケイトがそこにいた。白い肌に、長く垂れた金髪、少しお茶目な感じの大きな目は、物理学者というよりはいたずら好きのロンドン娘という感じがした。

「それで、例のものはその後どうなったの。」

ケイトは、ブラックホールのことを尋ねた。大爆発の時に気を失ってから、その後のことはまだ聞かされていないようであった。

「残念ながら、不首尾だった。ブラックホールは今もDファクトリーの中で成長を続けている。恐らく大きさはもうミクロンレベル、肉眼でもみえるはずだ。」

「そう、これからどうなるのかしら。」

「主査官が、明日、緊急のEU首脳会議を要請することになった。俺たちの役目はもう終わった。舞台は政治の世界に移った。」

「そう。」

ケイトは少し寂し気に嘆息を漏らした。と言っても、一流の物理学者である公平やケイトにとっては、これから起きるであろうはずの地獄の惨劇はある程度の予想がついていた。いくら政治の世界が頑張ってみたところで、自然の驚異の前では無力である。あるのは混乱のみである。ケイトのため息は、事態の報告を前にして、右往左往するしかない政治家たちの心の内を代弁しているかのようであった。

「背中が痛いわ。少し起き上がってもいいかしら。」

ケイトは、ゆっくりと左手で上体を起こそうとした。手を貸そうと公平が手を差し伸べた、その時。

「キャー。」

ケイトの悲鳴が上がった。

「何なの。これ、何なのよ。」

見れば、ケイトの美しい金髪の一束がバサリとベッドの上に抜け落ちていた。その一部は公平の腕の上にも降り注いでいる。放射能被曝症の最初の兆候がもう現れ始めた。

「いや。いやよ。」

ケイトは、抜け落ちた髪を両手ですくいながら、全身をワナワナと震わせた。

「落ち着くんだ。ケイト。落ち着いて。」

「出てって。出てって。1人にして。早く、出てって。見ないで。」

ケイトは泣き叫びながら、抜け落ちた髪の毛を手当たり次第にあたりにばら撒き始めた。異常に気付いた医師が大慌てで病室に駆け込んできた。医師は素早く鎮静剤をケイトの腕に打つ。しばらくして、ケイトはぐったりとしてベッドの上に横たわった。半分意識の薄れたケイトの目尻から一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。

「先生、何とかならないんですか。」

公平は、無理とは分かっていても、一縷の希望の言葉を医師の口に期待した。しかし、医師は黙って首を横に振るだけであった。


その3日後、ベルギー国ブリュッセルにあるEU本部特別会議室。

円卓を囲む各国首脳の後ろには、秘書官だけが1人ポツリと座っていた。通常の首脳会議であれば、各国から百人を超える事務方や報道陣が詰めかけ、会場はまさにお祭り騒ぎとなる。首脳が席に着く頃には、事務方での調整があらかた終わり、共同声明の内容について最後の確認が行われるだけである。各国の大統領や首相は筋書きに沿って発言し、後はお決まりの儀礼的な握手と写真撮影を済ませるだけである。

しかし、今日はまるで様子が違っていた。事が事だけに、会議は極秘裏に進められなければならない。あらかじめ用意されたスピーチもなければ想定問答集もない。無論マスコミは完全にシャッタアウトである。スケジュール調整が間に合わず欠席している首脳も数名いた。

各国首脳にも、今日ここで報告される内容については事前に一切知らされておらず、ただとてつもない非常事態がCERNで起きたということと、マスコミにも絶対気付かれぬよう参集されたいということだけが伝えられていた。

定刻、本日の会議の議長を務めるホルムシュタイン主査官より、今回の事態の経緯とこれから起こると予想される大惨事についての報告が行われた。

「何? そ、それって一体どういうことだ。」

「そんなことが起きていたとは、わしは一切、聞かされとらんぞ。」

主査官の報告の途中にも、既に各国首脳の口からは混迷と怒りの声が上がり始め、場は騒然となった。立ち上がって拳を振り上げる者、腕組みをして考え込む者、皆それぞれの思いと仕草で、主査官の報告に反応した。

「それは、もう避けようもない事態なのか。間違いということはないのか。」

「仮に事実としても、我々にどうしろというのだ。」

「マスコミ発表はどうするんだ。それに国民には何と説明すれば。」

会議室内は、もう首脳会議の体をなしておらず、時間の経過と共に混乱だけが拡大していった。その混乱を鎮めるように、主査官からの提案が続く。

「私たちは何段階かの事態を想定して、それぞれのレベルに対応した対策を考えました。

まずフェーズ1。ブラックホールが間もなく消滅し、放射能汚染がCERNの研究所内に留まる場合です。この場合は、CERNにおいて放射能漏れ事故が起きたため原因が究明されるまで研究所を閉鎖することをマスコミ発表します。それ以上の対応は必要ありません。

次いでフェーズ2。ブラックホールが隔壁を破ってさらに成長を続ける場合です。CERNの外部に放射能が漏れ出すため、スイス国並びにフランス国にはCERNの周囲半径100キロメートルの住人に緊急避難を勧告していただきます。原子力発電所がメルトダウンを起こしたケースを想定してオペレーションを行っていただくとお考えいただければよろしいかと思います。

さらに運悪くフェーズ3まで至った場合。ブラックホールがさらに成長して地球大気を飲み込み始めた場合です。ここまで来るともう全ての人類が生き延びることは不可能となります。大気がなくなれば、地球上の生命の大半は死に絶え、地球はまさに死の星となります。この場合、全世界から選ばれた人々が世界各国にある核シェルターに入り、嵐が通り過ぎるのを待ちます。まさに現代版ノアの箱舟です。」

主査官がここまで説明を進めたとき、バンというテーブルを叩く大きな音とともに、ギリシャの大統領が立ち上がった。

「バカバカしい、何が現代版ノアの箱舟だ。こんな茶番にはもう付き合っていられん。だいたい、これはお前たち先進国が始めた実験だろう。素粒子だか、物理学だか、何かは知らんが、わが国は最初からこの計画には反対だった。あんな訳の分からん機械に何億ユーロも注ぎ込んで。おかげでこっちの財政は火の車だ。お前たちだけで何とかしろ。」

ギリシャ大統領は、フランス大統領とドイツ首相に向って繰り返し指差ししながら大声を張り上げた。

「そうだ、そうだ。」

それに、スペインとポルトガルの首脳が呼応した。

「お静かに、お静かに。まずは落ち着いてください。」

ホルムシュタイン主査官が、額に噴出した汗を拭いながら、繰り返し場の喧騒を鎮めようとする。憮然とした表情のまま、ギリシャ大統領はどっかと席に着き、脇を向いてしまった。

「で、もしフェーズ3に至ったとして、核シェルターには何ヶ月くらい入っていればいいのかね。」

場が少し落ち着くのを見計らったようにフランス大統領が質問した。しかし、フランス大統領はこのノアの箱舟を少々甘く見すぎていた。

「それは、ブラックホールが消失した時の状態にもよりますが、仮に地球大気が完全になくなっていたとすれば、シェルター内で生き延びた人類によりテラフォーミング、つまり地球を再び人の住める環境に戻す計画を実行していくことになります。それには、何十年、いや何百年かかるか分かりません。」

「な、何と。わが国の核シェルターは1万人の人間が1年間暮らせるだけのキャパしかない。そんな何十年、何百年もシェルターの中でもぐらみたいな生活をするなんて想定外の話だ。」

フランス大統領が言うのももっともであった。世界各国が有する核シェルターは核戦争を想定して作られている。核戦争が起きた場合、いわゆる核の冬が続くのは長くても2~3年である。放射能レベルが下がるまで辛抱すればいい。

しかし、地球大気が剥ぎ取られた場合、それを元に戻すのははるかに長い時間と労力が必要となる。まず植物プランクトンを海で増殖させ、酸素や二酸化炭素を発生させていく。地球がかつてのように温暖で生き物の住める環境に戻すには何百年かかるか分からない。いや成功するかどうかすら、怪しい。もしうまくいかなければ、人類は永遠にシェルターから出られない。シェルター内の酸素と食糧が尽きる時、やはり滅亡という運命が待っている。

「ミスタープレジデント、おっしゃる通りかもしれません。しかし、たとえ生き残れる確率が万に一つでも、我々はあらゆる限りの手を尽くすべきです。このまま座して時を過ごせば人類には確実に滅亡という道しか残りません。どのような困苦の時代が待ち受けていようと、我々はこの文明を次の世代につないでゆかなければなりません。」

フランス大統領は、あきらめるかのように大きな嘆息を漏らしながら、椅子の背もたれに頭を当てて天井を仰いだ。

「首脳の皆様には、この後一刻も早くご帰国いただき、極秘のうちにシェルターに入る方々の人選を始めてください。無論マスコミには一切漏れないよう注意してください。万が一漏れでもしたら、それこそ収拾がつかなくなります。何しろ、60億もいる人類のうちシェルターに入れる可能性のある人は全世界を足し合わせても10万人に満たないかもしれません。

人選をどのように進めるかは、無論各国の主権に委ねられることになりますが、EU科学技術委員会としましては、以下の点をご考慮いただけるよう勧告いたします。

まず、シェルターに入れる人は健康で若い男女に限定してください。特に重篤な感染症や遺伝病を持った人は絶対避けてください。シェルター内で滅亡するリスクが高くなります。もう差別だ、人権だなどということは言っていられません。我々は、この苦難の時期をどうやって生き延びるかを、まず第一に考えなくてはなりません。それには若くて強靭な生命力と精神力を持った人々を選ぶしかありません。宇宙飛行士の人選をする以上に難しいものとお考えください。

それと、重要なのは、医学、工学、生物学など自然科学の知識のある人々を優先いただくということです。我々に必要なのはとにかく生き延びるために必要な知恵です。どのような立派な経歴を持った人も、どのような大金持ちの人も、この際関係ありません。これから訪れる時代には、経歴もお金も無価値のものとなるからです。

私の説明は以上です。皆様と、皆様の国民の幸運をお祈り申し上げます。」

ホルムシュタイン主査官は、静かに、そして空しさの気持ちを抱きつつ最後の辞を述べた。

各国首脳の口にも、もう言葉はなかった。事の重大さに抗し切れず秘書官に支えられながらやっとのことで立ち上がる者、無言のまま目を閉じて何分経っても微動だにしない者、怒りを抑えきれずに椅子を蹴倒して退室する者、皆それぞれの思いを胸にその場から散会した。



7.混乱


ケイトの容態は日増しに悪化していた。金髪は既にすべて抜け落ち、ケイトは代わりにスキー帽を深々と被っていた。皮膚の一部にもすでに壊死が起こり始め、黒っぽいアザが何箇所かに現れ始めていた。

「昨日は、少し吐血したわ。」

細胞の壊死は既にケイトの胃の粘膜も侵し始めていた。今はまだ痛み止めが効いているが、さらに壊死が広まれば全身にのた打ち回るような激痛が襲い始める。

「す、済まない。僕のせいでこんなことに。」

「コーヘイ、あなたのせいじゃないわ。私の運が悪かっただけ。」

「いや、僕があんな実験を提案しさえなければ、こんなことには。」

「でも、あの時はあれが最善策だったわ。おかげで、ブラックホールの中で対消滅の連鎖が起きていることが実証された。これでノーベル賞は間違いなしよ。」

ケイトは、公平の前ではわざと明るく振舞った。しかし、その目には深い憂いと絶望の色が見て取れた。今のケイトにとっては、毎日病室を見舞ってくれる公平との短い会話だけが唯一の生きがいとなっていた。公平がいなければ、絶望に押しつぶされて自ら死を選んでしまったかもしれない。

そんな公平のもとに過酷な知らせが届いたのは、そのわずか数日後であった。

「じゃあ、どうしても戻らないつもりかね。」

Bファクトリーにある日本の研究棟では、津山主査官による面接が行われていた。

「これは、政府からの命令だ。拒否はできない。」

「それならば、辞表を提出するまでのことです。」

もう、同じやりとりが何時間も続いていた。公平には総理府から直接に核シェルター行きの発令が送られてきていた。日本原子核機構の所管は本来なら文部科学省であるが、今回は事が事だけに総理府から直々の命令として異動の通達が発せられた。

日本の核シェルターは関東の北部、那須高原の自衛隊演習所の地下にあった。核戦争が勃発した場合、東京は当然にその標的となる。どのような頑強なシェルターでも弾道ミサイルの直接攻撃を受けたらどうなるかは分からない。

そもそも平和主義を掲げる日本では、核シェルターなどというものに費やされる予算は限られていた。防衛予算のごく一部が機密費としてその維持管理に充てられていたに過ぎない。当然その収容力もアメリカやロシア、それにEU諸国に比べても格段に少ない。公平はわずか300人の候補者の1人として選ばれたのである。

「しかし、どうしてなんだ。巷じゃ、次のノーベル物理学賞の候補は君だというのがもっぱらの噂だ。ホルムシュタイン主査官からも君のことは何度も聞かされている。君は十分にシェルターに入る資格があると思うんだが。私も自信を持って推薦する。」

「それじゃ、主査が行かれればいいじゃないですか。」

「私か? それは無理だ。私は年齢制限に引っかかった。」

日本では、シェルター行きの資格者の年齢を45歳以下に制限した。何年、いや何十年シェルターの中で暮らさなければならなくなるのかも判らない。出来る限り若い人が選ばれるべきなのは自明であった。津山主査官の年齢は52歳、残念ながら非適格である。

「でも、私には、ここを離れることの出来ない理由が…。」

その時、公平の頭の中にはケイトの顔がチラついていた。彼女をここに残しては行けない。それは、即彼女の死を意味した。もう公平とケイトは離れて生きることのできない絆で結ばれていた。

「何だ、その理由というのは。もう施設の装置はすべて停止された。各国の研究員も次々に帰国し始めている。わが日本の研究団も来週には退去する。残っていても何もすることはないはずだが。」

「いえ、私にはブラックホールの最後を見届ける義務があります。物理学者として、この先あの怪物がどうなるのかどうしても見てみたいんです。」

「それは危険すぎる。仮にやつがDファクトリーのシールド壁を破れば、一貫の終わりだぞ。」

「そうなったら、もう地球上のどこにいても同じです。遅かれ早かれ、です。」

津山主査官は大きな嘆息を漏らしながら、椅子の背もたれに仰け反った。


ところが、その翌日、事態は急変した。出所はまたしてもあの大国、しかもその元首たる大統領自らが大演説をぶち上げてしまったのである。

「我々はいま人類存亡の危機に直面しています。CERNにおける粒子衝突実験の最中に発生したブラックホールが成長し、いまこの地球を飲み込もうとしています。我々は私欲を捨て、この国のため、そして全人類のために、自己犠牲の精神を発揮する必要に迫られています。皆さん落ち着いて行動してください。恐れてはなりません。恐怖は混乱を引き起こします。神は必ずあなた方の貴い行動に報いを与えられでしょう。今こそ全国民が一丸となって、国のために自らの果たすべき使命を全うしてください。合衆国は永遠です。」

ホワイトハウスから大統領の緊急声明が発表された。自国の強引な実験がブラックホールを生成させたことには一言も触れられず、これから起こると予想される大惨事についてのみ説明がなされた。

アメリカでは同時に全土に戒厳令が発せられ、全ての市民の外出は禁止された。治安を維持するため予備役を含めた全国防軍に出動命令が出され、文字通りの全ての街の角々に自動小銃を構えた兵士が立ち並んだ。

しかし、全てを極秘裏のうちに粛々と運ぼうとしていたヨーロッパ各国にとっては、このアメリカによる電撃的発表はまったく寝耳に水の話であった。急遽非常事態宣言を出し軍隊を展開させたが、ヨーロッパの主要都市ではすでに略奪や暴動が広がっていた。

何ヶ月か後に全人類に確実に死が訪れると分かった時、人間の理性は脆くも崩れ去った。法律はもはや無用のものとなる。犯罪は罰せられることもなく、契約は全て無効となり、通貨も無価値となる。たちまちの内に無秩序と混乱が街を覆い、法治国家はもろくも崩れ去った。

「な、何という愚かなことを。」

ホルムシュタイン主査官は、ヨーロッパ全土に広まりつつある混乱を目の当たりにして、ほぞを噛んだ。EU諸国には極秘裏にことを運ぶよう要請した。しかし、海の向こうにまでは手が回らなかった。いや仮に手を回していても結果は同じであったかもしれない。アメリカは隠すより明らかにする道を選んだ、ただそれだけのことである。

主査官が腹立たしく思ったのは、むしろ人間の愚かさと醜さの方であった。敬虔なクリスチャンを装い、毎週日曜日には教会で恭しく礼拝をしていた者たちが、ここぞとばかり殺戮と略奪を繰り返し始めたのである。神の前に跪いて祈りを捧げるあの姿は全部偽りだったのか。

インターネットでは、既に民間が運営する核シェルターへの入居権が破格の値段で売買され始めていた。事の真偽は不明であったが、販売している業者によれば、地下50メートルのシェルターには3LDKの広さで30年間暮らせるだけの設備と食糧が用意されており、既に世界の富豪約千人から登録の申請があったという。6万分の1の確率、それに高度な自然科学の知識、そんな栄誉ある選考試験にパスできる人はほんの一握りの一握りしかいない。愚かな金持ちどもは、価値の無くなった札束を握り締めて右往左往した。

ヨーロッパ各国の空港は閉鎖され、道路という道路には少しでもCERNから遠くへ逃げようとする市民たちの長い車の列が何十キロと続いた。人々は、一縷の望みを抱いて、ありったけの食糧を積んで地獄への逃避行の旅に出た。しかし、それももうすぐ終わる。


「コーヘイ、いよいよお別れね。」

ケイトはやつれた顔に憂いの表情を浮かべた。ケイトの病状はさらに悪化し、もう食事も喉を通らない状態になっていた。

「お別れって、どういうことだ。」

「明日、日本の研究チームも退去するって聞いたわ。」

「僕は、残る。日本には帰らない。」

公平は、窓の外に視線を移しながらそっと呟いた。

「帰らないって、どういうこと。あなた、核シェルター入りのメンバーに選ばれたのでしょう?」

ケイトは咳き込みながら、苦しい息の中で声を振り絞った。

「そんなことはどうだっていい。それより君とここにいたい。」

「私のことだったら気にしないで。どの道もう長くないだろうし。」

ケイトは既に自身の状態を理解していた。重度の放射能被曝患者の末路がどういうものか、物理学者の端くれならば大体の想像はついている。

「だからこそ、一緒にいたいんだ。」

「ダメよ。私の分まで生きて。生きて、それでノーベル賞をもらって、私の分も。」

「いや、もう終わった。全ては終わったんだよ。」

「終わった? 終わったって、どういうこと。」

公平は、その先のことを告げるのに少し躊躇した。そして、ゆっくりとケイトの前に一枚の紙を差し出した。万華鏡のようなカラフルな色に塗られたその紙はカロリメーターの解析図であった。

「この解析図の右上を見てごらん。」

ケイトは言われるがままに視線を移すと、食い入るようにその箇所を何度も凝視した。

「こ、これは。ひょっとして…」

「そう、重力波だ。重力波らしい痕跡を検知した。」

公平の口から、またしても驚愕の事実が告げられた。アインシュタインは重力が波のように空間を伝わっていくと予言した。もし、公平の言うことが事実なら、またまたノーベル賞級の発見になる。

光も波の一種である。光線は一本の線のように見えるが、実際には波として伝わっている。波長の長さに違いがあるから光に色が生まれる。長い波長は赤、短い波長は青。さらに人の目に見えない紫外線やX線も波長の短い光の一種である。

重力も同じように、波となって空間を伝わるとされてきた。しかし、これまで重力波は発見されていなかった。空間の振動ともいえる重力波はあまりに弱く、今の人類が持つ科学技術では検知できないとされてきた。一体、公平はそれをどうやって検知したのか、いや正確には検知できたのか。

「干渉縞?」

さすがに一流の物理学者、ケイトは瞬時に重力波が作り出す微かな縞模様の意味を解析した。

「そう、干渉縞だ。重力波は2つの方向からやって来ていた。それがぶつかりあって空間の揺らぎが増幅され、干渉縞ができた。だからエネルギー痕が検知できたんだ。通常の状態だったらまず見落としていただろう。運がよかったとしか言いようがない。」

干渉縞。光を2つのスリットがあいた板を通すと、その向こう側にあるスクリーンには、ちょうど2つの波がぶつかった時にできるような縞模様ができる。それは光が波のように伝わっている重要な証拠となる。重力波に干渉模様が出たということは、重力波が2つの方向からやって来たことを意味していた。一つは、我々の住むこの地球自身から、そしてもう一つはブラックホールの向こうにある別の世界から。

エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙は、我々の世界からは直接には観測できない。その存在は我々の世界で起こる現象から間接的に確認することでしか知ることはできない。その一つが重力波の検出であるとされてきた。重力だけは、次元を超えて伝わると予想されていたからである。そして、その予想どおり、エクストラ・ディメンジョンからの重力の漏出を検知した。公平は、その微かな空間の揺らぎのエネルギーを捉えたのである。あのシルトゼーで水鳥が起こした波模様、それを捉えたのである。

しかし、公平の顔色はなぜか冴えなかった。そして、次に公平の口から出た言葉こそ、わが地球の、いやわが太陽系の、いやわが銀河系の運命をも決定付けるものとなった。

「この重力波に対する僕の計算が間違いでなければ、エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙の大きさは我々の銀河系をも凌ぐ大きさである可能性が極めて高い。」

ケイトの口はポカンと開いたまま閉じることはなかった。野球ボールほどの大きさでも地球を壊滅させるのに十分と思われていたものが、一銀河よりさらに大きい可能性があるという。向こうの世界の大きさが銀河ほどもあるということは、我々の銀河系の全てがブラックホールに飲み込まれるまで対消滅の連鎖は止まらないということを意味した。

公平が「終わった」と言ったのは、そういう意味だったのである。

「もう、どこへ逃げても同じだ。すべては、あの穴に吸い込まれる。」

「そ、それって、人類が滅亡するっていうことじゃない。で、もう委員会には報告したの。」

「いや。報告はしていない。報告しても無駄だ。誰も信じないだろう。いや信じたくもないだろう。」

公平は、大きな嘆息を漏らした。

「それで、あと地球に残された時間は?」

「さあ、それは僕にも分からない。しかし、これだけは確かだ。君に残された時間よりは間違いなく短い。」

その時、CERN全館にけたたましい警報音が鳴り響いた。

「Dファクトリーのエネルギーレベル上昇。警戒レベル5発令、全館12時間以内に退避。警戒レベル5発令、全館12時間以内に退避。」


8時間後、CERNヘリポート。

「ムッシュ・コーヘイ、何をしている。早く乗れ。もうすぐシールドが破れるぞ。」

爆音が響く中、ミシェル主任研究員の怒鳴る声が響く。この瞬間、ヘリポートから最後のヘリが飛び立とうとしていた。既に大半の研究員たちは退避し、周辺の街にも人影は全くなかった。

公平は、無言で首を横に振った。

「バカな考えは捨てろ。」

ミシェル主任研究員の怒声が続く。公平は最終ヘリを見送る側の一団の中にいた。ホルムシュタイン主査官とそれに付き従う数名の研究者たちもその中にいた。

「ミスター・コーヘイ。本当にこれでいいのかね。」

ホルムシュタイン主査官は静かに尋ねた。主査官も年齢制限に引っかかった1人である。60過ぎの主査官は核シェルター入りのメンバーから外れた。ノーベル物理学賞10個をもらってもまだ足りないほどの偉大な科学者も、人類の生き残りという大義の前では選外とならざるを得なかった。主査官は、CERNの最高責任者として、その最期を見届けるという非情な決断を自らに下した。これは、ある意味、物理学者としても最高の栄誉であったのかもしれない。

一方、ミシェル主任研究員は既にフランス国の核シェルター入りメンバーに選ばれていた。年齢の差がこれほどまでに非情な差別を生み出すとは。わずか20年ほどの差が人の運命を大きく左右した。公平が日本の核シェルター入りの切符を手にしたことをミシェル主任研究員は津山主査官から聞かされ、最後の説得工作を続けてきた。しかし、公平の心が揺らぐはずもない。公平は静かにヘリポートに背を向けた。

待ち切れなくなった最終ヘリは、爆音を上げながら宙高く舞い上がった。そこに乗った人々は、ミシェル主任研究員も含め、無論公平の最終計算結果を知る由もない。








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8.最後の旅


ヘリの音が遠ざかってゆくのを確認した公平は、ホルムシュタイン主査官に軽く頭を下げた。

「主査官、一つお願いがあります。研究所の作業車を1台お貸しください。それと3日分の酸素と食糧も。」

「作業車? それは構わんが。どの道、もうすぐあいつの口に何もかもが吸い込まれるだけだからな。で、一体どうするつもりなのかね。」

主査官は、公平の依頼に怪訝そうに尋ね返した。

「ケイトです。彼女に一目生まれ故郷のドーバーを見せてやりたいんです。」

ケイトはイギリス南東の港町ドーバーの出身であった。もう二度とその地を踏むこともない。せめて最後にドーバー海峡を挟んでドーバーの港の様子を見せてやりたい。今の公平にとって、ケイトにしてやれることはそれくらいしかなかった。

「そうか。いくらでも持って行きたまえ。君たちのハネームーンに相応しい旅だ。」

主査官はニヤリと笑った。公平とケイトが2日前、CERNにある小さなチャペルで永遠の愛を誓ったことを主査官は既に聞き知っていた。

「あ、ありがとうございます。」

駆け出していく公平の後姿に向って、主査官は叫んだ。

「ミスター・コーヘイ。急げ、あまり時間がないぞ。」

Dファクトリー内のエネルギーレベルは既に警戒レベル7にまで達しており、いつシールド壁が破れてもおかしくない状態であった。CERN全館に鳴り響く警報音も次第に大きく、そして性急になっていった。

公平は、作業車の中に急ごしらえしたベッドにケイトを抱きかかえるようにして運ぶ。そして、積み込めるだけの食糧と水、医薬品、それに酸素ボンベを作業車の中に押し込んだ。

「では、主査官、お別れです。」

公平は、作業車の運転席に着くと、窓越しにホルムシュタイン主査官に向って一礼した。

「幸運を祈る。君たちに神のご加護があらんことを。」

主査官は胸の前で十字を切った。

作業車は静かに滑り出した。作業車の最高速度は時速30キロ。速度は遅いが、その代わり装甲車を思わせるような車体は500度の熱に耐えうるように設計されており、強力な放射線をも遮断する能力を備えていた。そして、公平たちはこのノロノロの作業車を選択したことが正解だったことを、間もなく知ることになる。作業車がCERNの敷地ゲートを抜け出た後も、ホルムシュタイン主査官はいつまでもその後姿を見送っていた。

CERNを抜け出て約5時間後、大きなアルプスの峠を一つ越えた辺りで、公平とケイトは巨大なX線ジェットがアルプスの山並みをはるかに越えて天空に突き刺さるのを見た。今までシールド壁の中に押し込められていた鬱憤を晴らすかのように、巨大なストリームは周囲の大気との摩擦で竜巻をもはるかに凌ぐ上昇気流を巻き起こし、無数の稲光を引き起こした。その先端は、成層圏をはるかに超え、彗星の尾のように長く宇宙空間にまで伸びた。

続いて、大きな地響きと共に地面が大きく揺れた。X線ジェットのもう一方の片割れが、CERNの地下深く地殻を破りマントル層にまで達したのである。

巨大化したブラックホールは、ついにその全容を現した。最初は10のマイナス30乗センチメートルしかなかった大きさも今では直径10メートル程に達し、その周囲に広がる膠着円盤の大きさも半径数キロに及んだ。公平の予想通り、ブラックホールはまず地球大気を飲み込み始めた。風速30メートル、ハリケーン並みの強烈な風がアルプスに向って渦を巻きながら吸い寄せられていく。公平は、その風に抗すかのように作業車のアクセルを力一杯踏み込んだ。


CERNを出て12時間余り、公平たちを乗せた作業車はようやく山を下り、広い平原に出た。その平原を貫くように一本の高速道路が地平線の彼方まで延びている。高速道路はすでに避難を始めた人々の車で溢れかえり、見通せる限り赤いテールランプが点灯したままになっていた。車列はほとんど動いているようには見えない。並行して走る一般道も夥しい数の車が連なっている。

「これは、無理そうだな。」

公平は、半ば諦めるように作業車を停車させた。後ろを振り返ると、アルプスの方角は天を突くような真っ黒な雲に覆われ、その雲の奥の方では時折怪しげな稲光が繰り返し明滅した。アルプスに向けて吹く風はさらに強くなり、折れた木々の枝々や看板、屋根瓦の類を軽々と天空へ巻き上げる。

「コーヘイ、ありがとう。もういいわ。もうここで十分。」

ケイトは弱々しい声で運転席にいる公平に語りかけた。公平は、運転席を離れ、ケイトの脇に身を寄せた。ケイトの体はさらに醜くなっていた。細胞の壊死が進み、口や鼻、目の粘膜を溶かし、いたるところからジクジクと血とも膿とも判らない液体が滲み出している。時々苦しそうに咳き込むケイトの顔は苦痛に歪んだ。恐らく内臓の方も同じように溶解が進み、激烈な痛みが襲っているはずである。

公平は、痛み止めのモルヒネのアンプルを取り出すと、そっとケイトの腕に刺し込んだ。少し落ち着きを取り戻したケイトは、苦しい息の中で呟いた。

「CERNの研究所はどうなったかしら。」

「恐らくもうブッラクホールの中だ。携帯電話もまったく通じなくなった。」

「そう。」

ケイトは、そっと目を閉じた。

その時、ゴーという音とともに車体が激しく揺れた。これまで経験したことのないような突風が襲ってきた。平原で草を食んでいた牛や馬が軽々と巻き上げられ、高速道路に並んでいた車も1台また1台と剥ぎ取られるように宙に舞ってゆく。公平は再び作業車のエンジンをかけた。重さ8トンもある作業車はまだ飛ばされる心配はなかったが、グズグズしているとあの牛馬や車と同じ運命が待っている。公平は、車が剥ぎ取られた隙間を縫うように、広いフランスの平原を一路北へと作業車を進めた。目指すはドーバーの対岸にあるカレーの街である。

しかし、地獄の惨劇は、さらにその激烈さを増してゆく。それまで、空を覆っていた雲が切れ、一条の陽光が差し込んできた。ただ、雲間から見えた空はあの美しい青空ではなく、青暗く冷たい色をしていた。太陽の光は目を開けていられないほど眩しいのに、なぜか星が瞬いているのが見える。大気圏のはるか上、オゾン層や電離層までも破壊された天空は既に太陽光を遮るバリヤーの力を失い、地表は宇宙空間に剥き出しになっていた。

ついに予言されていたフェーズ3の恐怖が始まった。太陽光と宇宙線の直射を受けた人々の皮膚はたちまち焼け爛れ、目は瞬時に失明した。宇宙服もなしに宇宙空間に放り出されるようなものである。人々は、何が起きたのかも分からないまま、車を出て高速道路の上で悶絶した。太陽の光が直射した場所ではあちらこちらから発火して、炎と煙が上がり始めた。炎は激烈な風に煽られて、時速数十キロの速さで全てを焼き尽くしてゆく。ガソリンを積んだ車はあっという間に炎に包まれた。

そんな中、公平たちの乗った作業車だけはかろうじて前進していた。熱さ500度の高温にも耐え、強力な紫外線や放射縁を遮蔽するように造られた作業車はこの地獄の中でもまだ耐えていた。


CERNを出て丸々一昼夜が過ぎた頃。

「やった。ついに見えた。海だ。海が見えた。ケイト、海だ。海だよ。」

2人の乗った作業車はついにドーバー海峡の辺にたどり着いた。しかし、2人を待ち受けていたのは破壊の限りを尽くされたカレーの街並みであった。美しい木々はほとんどなぎ倒され、道路には飛ばされてきたありとあらゆるゴミとガラクタの山がうず高く積みあがっていた。それらに混じって無数の遺体が散乱している。2人は、壊れたマネキン人形のように無造作に転がる遺体を見てももう何も感じなくなっていた。いや、そんな余裕すらない地獄の惨状であった。

「キャー。」

突然、ケイトの悲鳴が上がった。吹きつけた突風に煽られたガラクタに混じって、作業車の小窓に醜く焼け爛れた死人の顔がベタリと貼りついた。酸素がなくなり苦しんだのか、首筋には何度も掻きむしったような傷痕が残っていた。大慌てで公平が作業車を発進させると、遺体は軽々と宙に舞って2人の視界の彼方へと消えていった。

公平は、道を塞ぐガラクタを右に左に避けながら、海辺の道路を一路北へと作業車を進める。そして、2人はついに目的の地にたどり着いた。カレーの街の外れ、ドーバー海峡を見渡せる海の突端に作業車は停車した。海は10メートルを超す大波で荒れ狂い、風速も50メートルを超えている。重さ8トンもある作業車も吹きつける海風で激しく揺れた。

「ケイト、見えるかい。あれがドーバーの港だ。」

公平は、ケイトの体を抱き起こしながら、作業車の窓の外を指差した。

「あ、あれが、ドーバー?」

「ああ、そうだ。君の生まれた故郷だよ。」

ドーバーの港は、荒れ狂う波間から微かに見えるだけであった。いつもであれば、何十隻もの船が行き交う海峡も今では死の海となっていた。ドーバーの近く、セブンシスターズの白亜の絶壁も次々と海の中へと崩落してゆく。

「あ、あれが、ドーバー?」

ケイトは再び同じ言葉を繰り返した。その目には血の涙が溢れ、顔は苦痛で歪んでいた。そして、ケイトはそのまま激しく咳き込み大量の血を吐き上げた。これまでにない大量の吐血で、作業車の中は血で真っ赤に染まった。慌ててモルヒネのアンプルを用意する公平。

「待って、止めて。」

ケイトは苦しい息の中で、腕に注射針を差し込もうとする公平を制した。

「どうして、これを打てば少しは楽になるはずだ。」

「そうかもしれない。でも、もしそれを打てば、二度とコーヘイの顔を見ることができなくなるような気がする。」

ケイトは自らに忍び寄る死の影を察していた。ここでモルヒネを打てば確かに楽になるかもしれない。しかし、そのまま目覚めることもないまま公平と永遠の別れをすることになるかもしれない。ケイトはそれを恐れていた。そして、自ら苦痛に耐える道を選んだ。



修正


「ああ、神様。神様はどうしてこんな過酷な試練を人間にお与えになるのかしら。私たちが何をしたっていうの。」

ケイトは、そっと胸の前に架けられたクロスのペンダントに手を当てた。その時、公平の口から思いもよらなかった言葉が飛び出した。

「ケイト、君は、今でも神を信じているのか。こんなひどい目に遭わされた今でも。」

「もちろんよ。神を信じ、そして祈れば、必ず奇跡は起きるわ。」

ケイトは、当たり前と言わんばかりに、公平の唐突な問いかけに即座に反応した。キリスト教徒にとって、神は絶対であり、信仰の対象であった。公平は、その神に挑んだのである。

「そうだろうか。君は本当にそう思っているかい。自分の気持ちに偽りはないか。自分ではどうにもできないことを神様のせいにしていない。」

ケイトは、神を否定されたことで少しムッとするかのように、公平を睨み返した

「じゃあ、コーヘイはどうなの。日本人だって仏教を信じてるじゃない。それともコーヘイは、仏様を信じていないの。」

「僕はキリスト教徒じゃないから、聖書のことはよく分からない。でも、物理学者として、そう科学者の1人として、天地創造だとか最期の審判とかいう話にはどうしても着いてゆけないんだ。君も本音のところはそうなんじゃないのか。」

『物理学者として』と言われて、さすがにディベート好きのケイトも押し黙った。そう、物理学者にとっては、神も奇跡もない。あるのは、自然の法則であり、物理の理論だけである。そして、次の瞬間、ケイトは世にも不思議な公平の最終理論を耳にすることになった。

「僕は、仏教は宗教ではなく物理学だと思っている。」

「エッ? 仏教が物理学ですって。それって、一体…」

「少し難しい話になるが、仏教の基本的な精神は受動だ。すなわちありのままをそのまま認め、そして受け容れる。仏教徒が手を合わせ祈ることの本当の意味は願い事をするためではない。そうすることによって、この宇宙と自らの精神を一体化するためだ。仏教の始祖、お釈迦様は、それを『悟りを開く』と表現された。まさにその通りだ。君も物理学者の1人なら、この世界の物理の法則が人の力で変えられるとは思わないだろ。神様だって物理の法則は変えられない。そう、我々人間はまさにありのままを受け容れるしかないのさ。」

「そ、それは、そうだけど…」

ケイトは、公平の理屈を認めつつも、まだ半ば納得できないという口ぶりで呟いた。全知全能の神をもってしてもできないことがあると言われれば、キリスト教徒でなくとも反論したくなる。しかし、公平はケイトにその余裕を与えなかった。

「もっと身近な例を話そう。例えば、ケイト、君は今僕の顔を見ている。君は、自分の意思で僕を見ていると思っているだろう。でも実際は違う。人が物を見るというのは基本的には物理現象の結果なんだ。まず、僕の顔に当たった光が君の目の奥にある網膜で像を結ぶ。それが電気信号に変えられて視神経を通じて脳に伝えられ、君の脳ではその電気刺激を情報に変えて、その映像が僕であることを認識する。ただそれだけのことだ。

外から観察すればこの一連の動作の全ては物理現象として確認される。でも、君は客観的にこの物理現象を観察できるわけではない。だから自分自身が物を見ていると思っている。仏教の基本の教えは、人間の五感すべては空だと教えている。すなわち、人は自らの意思で物を見たり、聞いたり、触ったりしていると思っている。でも、実際はその全ては物理現象の結果なんだ。

客観的に捉えることができないがゆえに、そこから人間の煩悩(アゴニー)が生まれる。怒り、恐怖、苦しみ、痛み、数え上げれば切りがない。でも、心を無にしてしまえば、全ての煩悩は消え去る。悟りを開くとはそういうことだ。」

「そりゃあ、そうだけど。でも、心を無にするってどういうこと。意味がよく分からないわ。」

ケイトは、好奇心の塊となって公平の話に耳を傾けた。その目は、先ほどの空ろな目から、輝く物理学者の目に変わっていた。

「ケイト、君は、今この瞬間、痛みのことを忘れていないかい。」

「あっ。」

ケイトは、思わず手を口に当てた。その瞬間、ケイトは『悟り』の意味を知った。公平の難解な話を理解しようと神経を集中させている間に、痛みはどこか違う場所に置き去りにされていた。五感の一つ、痛覚のスイッチが切れていたのである。ケイトが心を無にすることを体験した瞬間である。

そして公平から『痛み』と言われた瞬間、ケイトは全身に激烈な痛みが戻ってくるのを覚えた。ケイトは、その痛みに顔を歪めながらも、大笑いしていた。

「どうだい、分かったかい。心を無にするというのは、そういうことだ。」

「分かったわ。公平の言いたいことが。そして、痛みもまた物理現象の結果だっていうこともね。」

公平は、ケイトが理解したとみて、さらに話を次の段階へと進めた。

「さて、ここからが本題だ。人間の五感がすべて物理現象の結果だとしたら、人間が『生きる』ということ自体も物理現象の結果ということになる。もし、僕が今から1分後に死んだとしよう。1分前の僕と1分後の僕と物理学的にみてどこが違うと思う。」

ケイトは、またしても難解な禅問答を仕掛けられて、再び痛みのことを忘れていった。『生と死』、生物学的あるいは医学的にみれば、それは天と地ほどの差がある。でも、物理学的にその違いを述べよと言われても答えに窮してしまう。

「物理学的には1分前の僕も1分後の僕もほとんど違いはない。僕の体を構成する水素原子や酸素原子、炭素原子は同じように存在している。」

ケイトは静かに頷いた。

「でも一つだけ大きな違いがある。エネルギーだ。生あるものにはエネルギーが宿っている。それが無くなると死が訪れる。死とは人がエネルギーを失うことなんだ。仏教では、このエネルギーのことを魂と呼んでいる。でも、その魂は永遠だとされている。」

「分かったわ。熱力学の第一法則(エネルギー保存の法則)ね。」

ケイトは、得意気に笑って見せた。そこには、先ほど見せた陰鬱な表情は微塵も残ってはいなかった。

「さすが一流の物理学者だ。理解が早い。」

公平は、ケイトの笑顔を見て、うれしそうに微笑んだ。

「エネルギーは形を変えるが永遠に保存される。魂も同じだ。仏教では、人の体からに抜け出した魂は、長く暗いトンネルを抜け出た後、三途の川という川を渡って極楽浄土に行くと説いている。

まさにその通り。エネルギーだけはブラックホールの中に落ち込んでも消滅しない。どのような強い重力で押しつぶされようともエネルギーだけはブラックホールを潜り抜け、エクストラ・ディメンジョンの中へと旅をする。仏教では、極楽浄土に行くために魂は10万億土を旅するとしている。」

「10万億土?」

「そう。天文学的に言えば10億光年っていうところかな。いつまでも、どこまでも、魂は極楽浄土を目指して旅を続ける。ブラックホールもエクストラ・ディメンジョンも乗り越えて、何物にも邪魔されずに。そして、いつか、どこかでエネルギーはまた別のものに姿を変えて蘇る。」

ケイトの円らな瞳は、いつしか溢れ出る涙で美しくキラキラと輝いた。

「素敵なお話ね。でも、魂に意識はあるのかしら。そして、こうしてあなたの顔を見ることもできるのかしら。」

「さあ、それはどうかな。多分そういう感覚じゃあないと思うよ。ほら、さっきも言っただろう。君が僕の顔を見ているのは、君の脳の働きによる物理現象だと。人が死んで魂になれば、もちろん目も神経も脳もなくなる。そういう意味では意識はないだろう。でも、そんなことはどうだっていいじゃないか。2人の魂は絶対に離れず永遠に飛び続ける。」

「ありがとう、コーヘイ。あなたを信じるわ。2人でどこまでも行きましょう。絶対に離れないでね。」

「ああ、約束する。どこまでも一緒だ。永遠に…」

公平は、ケイトをしっかりと抱きしめた。

その2人に向って、はるか彼方から海水面がどんどんせり上がってくるのが見えた。ドーバー海峡の彼方、北海とバルト海から吸い寄せられた海水が怒涛の壁となって押し寄せてくる。高さ50メートルを超す大津波は作業車を一気に呑み込むと、あっという間にアルプスの方角へと運び去った。





エピローグ


その3週間後。

「ヒューストン、バイコヌール、タネガシマ…、誰かいませんか。誰かいませんか。応答願います。」

国際宇宙ステーションから、通信官の空しい呼びかけが続く。

ブラックホールはさらに成長し、X線ジェットは月をはるかに超えて長く伸びていた。ステーションからは、地中海とバルト海から海の水が、渦を巻いてブラックホールの巨大な胃袋の中に吸い込まれていくのが見える。アルプスの山々の大半は既に原形を留めないほどに歪み、崩れ、原子の大きさまで打ち砕かれ、侵食されていく。

地下ではマグマがブラックホールに吸い込まれ、地殻は到るところで陥没し始めていた。厚さがわずか数キロの地殻は地球全体からみれば、リンゴの薄皮のようなものである。赤い、ドロドロしたマントルの上に浮いているだけに過ぎない。そのマントルが地下の方からブラックホールに吸い取られてゆけば、地殻は萎んでゆくだけである。

もう地上には、核シェルターも含め、誰も残っているとは思えなかった。

「キャプテン、姿勢制御装置が働きません。ステーションの高度が下がり始めています。」

ブラックホールの強大な重力が地球の重力にも影響を及ぼし始めた。

「やむをえない。フェーズ4を実行する。」

フェーズ4、滅び行く人類に残された唯一にして最期の手段。このような事態を想定して、各国より集められた衛星が、今永遠の旅につく準備が始められた。

直径2センチほどのカプセルの中には数対の卵子と精子、それにヒトのゲノム配列とこれまでに解読されたありとあらゆる生物のゲノム情報が搭載されていた。その極微のカプセルを運ぶために直径1メートル程の推進エンジンが付けられた。エンジンの動力源は約1トンの超高純度プルトニウム。高性能の核弾頭を急遽解体して燃料とされた。この先何万年、いや何百万年かかるかわからない宇宙空間の旅、1トンのプルトニウムで果たして直径2センチのカプセルは何光年先まで飛び続けることが出来るのであろうか。このようなカプセルがわずか2ヶ月ほどの間に約100個用意された。もう、国籍云々などと言ってはいられない。アメリカ、ロシア、EU、日本、中国、インド、衛星を打ち上げる能力のある全ての国が、まさに宇宙空間を漂うノアの箱舟造りに尽力した。

いつの日か、遠い未来に、この広大な宇宙空間のどこかで、運良く高度な知的生命体にカプセルのいずれかが拾われて、人類が再生される可能性だけを信じて。それは、宝くじに当たるよりはるかに低い確率かも入れない。万分の1、いやたとえ億分の1でも可能性があるのなら、それに賭けるしかない。今の人類の科学技術でかろうじてできるラストリゾートであった。

「急げ、ブラックホールの重力圏に捉われる前に衛星を発射する。」

国際宇宙ステーションの全乗組員が慌しく衛星の発射準備を進める。その間にも宇宙ステーションは大きく傾き軌道を外れ始めた。

「発射準備完了。」

「よーし、衛星格納庫を離脱させる。」

「10、9、8…」

カウントダウンが続く間にも、ステーションはどんどん地球に向って落下を始めてゆく。「ゼロ」という声と共に、格納庫がゆっくりとステーションから離脱した。

「ロケットエンジン噴射。」

離脱した格納庫は、その底部からオレンジ色の炎を噴出しながらあっという間にステーションから遠ざかってゆく。格納庫がステーションから十分な距離に離脱した後、格納庫の扉が開き衛星が発射される。しかし、その間にもステーションの傾きはどんどんと大きくなってゆく。

「ダメです。大気圏に突入します。」

「あともう少しだ。」

キャプテンの悲壮な声がステーション内に響く。ステーションの側面がわずかに残された大気との摩擦で赤々と輝き始めた時、人類最期の指令が発せられた。

「衛星発射。」

ステーションから既に数千キロも離れた宇宙空間で、格納庫の扉が開き、100個の衛星は文字通り花火の如く全天に向けて散り散りになった。各衛星に積まれたコンピューターにはあらかじめ計算された100通りの飛行コースがセットされており、太陽系を離れるまでは自動航行を続ける仕組みになっている。その後は、文字通り運を天に任せ、各衛星は、暗く何もない宇宙空間をひたすら飛び続ける。

「よーし、成功だ。」

モニター画面に散り散りになってゆく衛星の軌跡が映し出された時、国際宇宙ステーションは炎に包まれた。

そして、その1ヵ月後、2012年12月XX日、太陽系第三惑星はその全てが跡形もなく闇の中へと消えていった。その後、打ち上げられた衛星のいずれかが知性ある生命体に巡り合い、人類が再生されたかどうかは、無論誰も知る由もない。 (了)

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エクストラ・ディメンション(余剰次元) ツジセイゴウ @tsujiseigou

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